17 発酵

 その肉は、毒か薬か。食べてからの記憶はほとんどない。激痛が全身に走り、朦朧とする中で彼の八重歯が光って見えて。他の生き物が身体に侵入してくる感覚だけが、そこにはあった。

 次に意識が戻ったとき彼は、無事に目覚めたかって、安堵の表情を浮かべていた。どうやらボクは生きていて、腫瘍で溶けていた喉の穴もすべて塞がっているようだった。

「てめぇはこれから、キムチだ!」

「にゃあ?」

「文句言うんじゃねぇぞ。桃から生まれたら桃太郎。キムチの芽で生き返ったらキムチって、決まってるんだからな」

 相変わらず口の悪い彼だったが、そのあと仕事いってくるって部屋を出てから、たくさん泣いてたのをボクは知ってる。アスファルトに積もった、水っぽい夏の出来事だった。


 そんな不器用で優しいナユタに少しでも恩返しをしたくて、いまも虫の溢れたプラットホームで牙を剥いている。

「一番線に渋谷・品川方面行きの電車が参ります。危ないですから黄色い点字ブロックより下がってお待ちください」

 駅内アナウンスの流れる中、蛭たちは狩っても狩っても無限に湧く。そんな飛んでくる吸血虫をボクは、後ろ足で蹴り、距離を取った。命が潰れる音が駅内に響いて、血袋が破裂して飛び散る。

「ねこくん。これじゃ体力がもたないよ」

「そう、だね」

 仕方ない、すこし荒技になるけどって、彼女らをホームの端っこに置いて、虫のいるホームを振り返った。線路に咲く飴。日陰に光るグミ。血を這うクレープ。そんなすべてを、駆逐する一撃。


「煙霧—— 배추김치」

 息を吸って、ゆっくり目を閉じる。腹の底で煮えたぎるそれを、ボクは口から煙として吐き出した。自分の周りはたちまち濃霧に覆われて、それに触れた虫は、蚊取り線香に囚われたように落ちる。

 沈黙を徐々に取り戻すホームを見て彼女は、なにをしたのって目を丸くした。

「毒ガスだよ」

「どくがす?」

「うん、ボクの身体は常に発酵に侵されてる。その過程で生じたガスを、口から吐き出したんだ。ね、ぜんぜん猫じゃないでしょう」

 下を向く僕に彼女は、ちいさな足をバタバタさせて、かっこいいって言ってくれた。となりの人間も拍手してくれる。その音が駅内にこだまして、やがて消えてゆく、刹那。

 鋭い汽笛がホームを突き抜けて、巨大な肉塊が線路に沿ってやった。どくどくと脈打つ血管の浮き出るそれは、山手線に寄生した一際大きな蛭だった。


 ❖


 メイド服専門店やネオンの光る犬カフェ、インフルエンサーの大きな看板からキッチンカーまで、原宿のすべてが蜘蛛で覆われる。

 音に跳ねるそれらを、秋刀魚で斬り刻む。手を休めることなく動かして、今はただこの波が終わるのを待つことしかできなかった。

「蜘蛛の群れなら大津波、ウォークラリー、秋刀魚を殺す会、昆布だし、となりに醤油差し、添えるローズマリー、流せコークハイ」

 歌を斬るたび、命の声が地球に鳴く。蜘蛛からは緑やピンク、むらさきなど、色とりどりな血が飛び散って、原宿を彩る。それは奇抜な現代アートだった。

「俺は学校行ってなかったけど、図工だけは自信があるぜ、スプレーアートもしたことあるしな!」

 2つの剣を振り回して、お菓子を斬る。飛んでくる糸も、過去もすべてなかったことに。そうやってひとつひとつ、消去法で潰していって、最後に残るものはなにか。必死に色を弾くなかで、そんなことを考えていた。


 ずっと泣かないように生きてた。気づいた時には親がいなくても、立花りっかに痛い雪を当てられても、ホンファさんが目の前で死んでも、涙が凍る前に立ち向かった。それが自己防衛だってことも、大人になった今ならわかる。

 そうやって見たくない現実を斬って、斬って、誤魔化して生きてきた。虫が潰れて、絵の具がまた飛んでゆく。ビートが乱れる。

「でも、それでも」

 こうして今も闘えるのは、刀を振えるのは、今までの生活のなかに、少しは大切なものを感じているからだ。そういえば、自分にもあった。誰かを想って泣く、しあわせな夜が。


 空に消えていくような一筋の涙。それは、つーと頰を伝って、キムチが生き返ったあの瞬間に行き着いた。足下の青色が、涙の落ちたところだけ薄くなる。

 そこから一匹の秋刀魚が顔を出して、やがて龍のように天に昇っていった。その秋刀魚の尻尾に捕まって、宙を行く。秋刀魚は天空から垂れる蜘蛛の糸を噛みちぎった。

「キムチ、この闘いが無事に終わったら、焼き肉に行くぞ!」

 そう言い放ってから俺は、手を離して蜘蛛の川に飛び込んだ。カラフルな水飛沫があがって、青春が香る。集団で群がるそれを、ひたすらに刺す。殺す。瞳から涙を流すたびに、明らかに刀の威力が強くなっていた。


「おもろいな。このサンマ野郎、泣くことを制限としてんのや。東京も捨てたもんやないなあ」

 でも無理は身体に悪いでって、その影は蜘蛛の群れに忍び込んでいく。背中には大きな壺を背負い、懐から串カツを取り出し、投げる。それは誰もが知っている「八ツ喰」のひとり、大阪市食物対策駆除課の夜達磨よるだるまだった。

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