第八話 砂の都、隠匿された街 2

「――あ!!」

 歩きながら、セルキーが素っ頓狂な声を上げた。

「名前!! ――あなたのお名前。聞いてない!」


 確かに、メイファンはまだ名乗っていない。

 看守としてのセルキーを警戒していた、という側面もあるのだが――どちらかと言うとセルキーの話の濃さに名乗るタイミングを失った、と言った方が正しいだろう。


「ごめんなさい! 私ばっかり喋っちゃって」

 セルキーは互いの身体が触れる距離まで身を寄せると、覗き込むように顔を近づけた。


 近い――――!!


 セルキーの全身から溢れ出る女性的な雰囲気。それはメイファンが身を置く世界とは全く無縁なものであった。故にメイファンはこういったことに全く耐性がなく、気恥ずかしさから顔を背けてしまう。


 背けた先々にセルキーの顔が追尾してくるのにたじろぎながら、メイファンはやっとの思いで返答するに至ったのだった。


「めめっ……ゴホンッ、メイファン……だ。姓はない」



 メイファンの出身地はセレニア領内でも特に貧困の進んだ地域であり、そこに暮らす人々は姓どころか戸籍すら持たない。

 瘦せた土地、過酷な気候……何故そこに人が住めるのか不思議なほどであったが、飛頭蛮の一族は代々、その土地で生活を営んできた。

 メイファンもその村で生まれ育ち、一家の働き手として家族を支える役割を担っていた。


 ある時、セレニア軍がこの土地に立ち寄ったことがあった。リドヘイムとの国境周辺で起こった紛争を収めるために部隊が組織され、その行軍の中継地にメイファンの村が設定されたのである。

 外部から村への来客などそうあることではなく、かつそれが国の正規軍ともなれば村始まって以来のこと。家々が分担して部隊に食事と寝床を提供することとなり、メイファンの家でも二人の兵士を迎え入れることとなった。


 これまで村から出た経験のないメイファンにとって、兵士たちとの会話は実に刺激的なものだった。夕食後に寛ぐ兵士たちをメイファンは質問攻めに遭わせたが、兵士たちは真摯にメイファンの相手をしてくれた。

 首都の様子や街での暮らしに始まり、軍隊における規律や訓練に至るまで――兵士たちが語る様々な話がこの幼い少女に与えた衝撃は大きく、自室に引き上げた後も興奮が収まらずになかなか寝付くことができなかったほどである。


 それからしばらくの後。

 すっかり夜も更け、皆が寝静まった頃。

 少し前に降り出した雨が強さを増し、地面を激しく叩きつける。

 その雨に紛れ、村に忍び寄る影があった。


 メイファンの家に泊まった兵士の一人が首からかけていたアクセサリー。それはマーナガルムと呼ばれる魔獣の牙を加工したものであった。

 マーナガルムは全ての狼系種族の始祖であり、その勇猛なイメージから兵士はしばしばその骨や牙からアクセサリーを作成して身に着ける。

 それが、マーナガルムを引き寄せたのだ。


 アクセサリーを所持していた兵士は真っ先に食われた。

 もう一人の兵士も必死の抵抗むなしく魔獣の牙に倒れる。


 雨音が激しく響く中で、メイファンだけがその異変に気付いた。

 寝床から起き出し、兵士たちの部屋の扉を開け、そして――メイファンは激しい後悔に襲われた。


 充満する死の匂い。

 闇の中でなお不気味な光沢を放つ、血塗れの毛皮。

 この世の全てを憎悪するような、敵意に満ちた唸り声。

 メイファンは部屋の入口を挟み、マーナガルムと真正面から対峙する。


 息ができない。助けを呼ぼうにも声が出ない。

 しかし――

 すぐ隣の部屋では弟たちが寝ている。家族と、村の仲間と、そして村をあげて迎え入れた大事な客がいる。メイファンは覚悟を決めた。


 部屋の奥、兵士たちの装備品の中に見える剣。その振るい方はわからなくとも、メイファンには農作業で鍛えた腕っぷしがある。うまくすれば追い払うことぐらいはできるかもしれない。

 問題は、どうやってあそこまでたどり着くかだ。

 急な動作はかえって相手を刺激する。魔獣から視線を外さないよう注意しながら、メイファンは少しずつにじるように移動を始めた。

 マーナガルムは姿勢を低くし、こちらの姿を目で追っている。


 ゆっくりと、ゆっくりと――蟻の歩調にも劣る速度でメイファンは自らの位置を徐々にずらしていく。


 ハッ、ハッ、ハッ、ハッ――


 浅く激しい呼吸が抑えられない。

 手足が震え、視界がぐるぐると回る。


 永遠とも思われる時間を過ごしつつも、しかしメイファンは目的までの距離を確実に詰めていた。

 ゆっくりと伸ばした指先が、もうあと僅かで剣の柄に届こうかという、その時。

 にちゃっ、という音を立ててメイファンのつま先が兵士の死体に触れた。


「――ひっ」


 一瞬。まさにほんの一瞬だけメイファンの意識が逸れてしまったのを、野生の獣は見逃さなかった。漏らした声を合図とするかのように、唸りを上げて飛び掛かる。


 頸動脈を目がけた、正確な跳躍。牙が目前まで迫り、メイファンは死を覚悟した。


「――ガフ!」

 牙がメイファンに達する寸前、何者かがその間に割って入った。

 弾き飛ばされるように尻餅をついたメイファンが見たものは、その何者かの腕に食らいつき激しく頭を振るマーナガルムの姿。


「――――離れて!!」

 続けて響いた凛々しい声。

 次の瞬間、閃光と共に魔獣の身体が反り返り、そのまま床へと倒れ込む様子が見えた。

 ぶすぶすという音と共に、毛と肉の焼ける匂いが立ちこめる。


「大丈夫ですか」

 自らの怪我もいとわず、メイファンを抱き起こす美しき女性士官。それこそがレイチェル・フロイデンベルクであった。

 レイチェルはすぐに兵士を集め周辺の探索と警戒にあたらせた。その結果村の周囲に他の個体は見当たらず、この日の騒動はひとまずの収束を迎えるに至った。



「私を、連れて行ってください」

 翌日。予定より遅れて村を出発しようとする部隊の隊列に、メイファンが追いすがった。

 当然、レイチェルはその申し出を却下するのだが、メイファンは頑として引き下がらない。


「年端もいかないあなたのような者を、部隊に同行させる訳にはまいりません」

「お言葉ですがレイチェル様! 年齢で言えばレイチェル様も私とそこまで変わりはないようにお見受けします!」

「――あなたも見たでしょう。軍人には常に危険が付きまとうのですよ」

「レイチェル様はその身をなげうって私とこの村を助けてくださいました。あのお二人もまた同様……軍人の志とはこれほどのものかと深く感銘を受け、私もそのようにありたいと思ったのです!」

「……いい加減になさい。これ以上は行軍の予定に差し障ります」

「だったら今すぐに同行を許可してください!! 必ず、必ずお役に立って見せます!!」


 部隊が足止めを食った状態のまま、二人の押し問答が延々と続く。

 レイチェルがもう何度目になるかわからないため息を漏らしたところで、状況を見かねた村長が飛び出した。


「――申し訳ありません! この子は決して悪い子ではないのですが、あきらめの悪いところが玉にキズでして――。ほら! こっちに来ておとなしくしてなさい。兵隊さんたちにご迷惑をかけるんじゃない」


 そのまま道の端へ引きずっていこうとする村長の腕に、メイファンが噛みつく。

「いだだだだだだだ!!!!」


 メイファンの両親が慌てて駆け寄ったのを皮切りに、大人も子供も入り乱れた騒乱が巻き起こる。てんやわんやの大騒ぎとは正にこのこと。事態は収拾の見えない状況へと発展していくかに思えたが……。


「――村長」

 一連の流れを静観していたレイチェルが、ゆっくりと口を開いた。

 よく通る声に、全員の動きが止まる。

「この者の年間の労働量は、金額に直すといかほどになりますか」


 村長が進み出て金額を伝える。それを聞くとレイチェルは部隊の副官の方に向き直り、こう告げた。

「……ではその二倍の額の金貨をお支払いしてください。それを対価として彼女にはこの先一年、軍の任務に従事していただきます」


 メイファンの顔がぱっと明るくなると同時に、副官の表情が曇る。

「レイチェル様! その額をお支払いしてしまってはこの先の行軍が……」

「余分に――持たされているのでしょう? 国王陛下の私費から」

「は、はい。……あ、いえ! いやあの、それは……」


 過保護ではあるが、娘を想う父の気持ちを思えば仕方のないことだろう。

 セレニア国王はこうしていろいろな局面でレイチェルのため便宜を図るのだが、姫である前に士官として生きることを選択したレイチェルからすれば、そういった特別扱いを少々迷惑に感じている面もあった。



「こちらがあなたの報酬です」

「ありがとうございます! ではそれは、私の両親に」

 村に対しては既に部隊の滞在費のほか、住居の修繕費や今後の防護対策費が支払われている。そこへメイファンの報酬分が加わることで部隊の出費は相当なものになったが、これで改めて出発の準備が整った。


「では、出発します」

「レイチェル様、よろしくお願いします!!」

「あなたの働きによっては、正規に登用される道もあるでしょう。しっかりと励むのですよ」

 メイファンは喜び勇んで部隊に加わり、その後の任務で新参兵とは思えない成果を残したのだった。



 それから一年の期日を待たずしてメイファンは正規兵への昇格を果たし、レイチェルと召喚契約を結んで直属の部下として活躍するまでになる。

 貧村の出身者を従者としていることからセレニア国内ではレイチェルに関して陰口を言う者もあったが、メイファンは実績でそれを跳ね返した。


 命を救ってくれた人物、そして自分が生きる道筋を示してくれた人物として――メイファンはレイチェルに絶対的信頼を寄せ、レイチェルのために生きることに自分の存在意義を見出していた。


 ――レイチェル様、必ず助けに参ります……!


 頭上を覆う岩盤を睨み、メイファンは決意を新たにするのであった。

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