(二)
寄り道せずに夢の島が“ない”場所へ行くものだと思っていたけれど、高速道路を降りた後の車は高台にある住宅街に進んだ。黄色い外壁の二階建ての家が並ぶ、外国の住宅街を真似したような道幅の広い地区だった。
母はきょろきょろと辺りを見渡し、スマートフォンは「目的地周辺です」とぶつぶつ言う。母のスマートフォンは偏屈で、いつも嫌々といった様子で母の注文に応える。そのくせ、母が機種変更をしようと検索を始めると、拗ねてブラウザを閉じてしまうそうだ。
「あったあった! あの家! スマホ君、メッセージ入れて」
母が明るい声で言い、スマートフォンが不服そうに仕事を続ける。メッセージ送信音がして数分後、お行儀よく並ぶ住宅の扉が一つ開いた。
車が家の前に停まり、玄関に掲げられた表札が目に入る。書かれた文字は“大倉”だ。扉の前に現れたのは、母よりずっと年上に見える老紳士。品のいい白髪を後ろに撫でつけた彼は、ぴんと伸ばした背すじとは裏腹に杖をついて立っていた。
母は運転席から出て、彼の元へ歩み寄る。
「大倉先生、お久しぶりです」
「ええ、どうも。わざわざよく来たね」
ほっそりした見た目の割に、大倉先生の声は低く響く。彼はゆっくり車に近づいて、窓枠をそっと撫でた。私は助手席で急いで会釈する。幾分重たくなった大倉先生の瞼の奥から、穏やかな視線がこちらを覗いた。
「娘さん、君たちにそっくりだ」
「そうでしょう? 私に似て手先が器用で、あの人に似て真面目なんですよ」
母の返事に、大倉先生は「ははは」と静かに笑う。まるで、目の中で眠る星屑が壊れないように気を遣っているといった調子だった。
母は私を後部座席に移動させ、大倉先生を助手席に乗せて車を走らせた。二人は父の思い出話に花を咲かせている。スマートフォンはまた退屈そうに「高速道路に入りました。この先、道なりです」と口ずさんだきり不貞腐れたままだ。
二人の声は聞こえるが、何を言っているのかまではわからない。私はただ、父のために倒されたままの後部座席に足を伸ばして、窓の外を眺めていた。
父が新婚旅行で海のそばへ行ったのは意外だった。どれだけ命が宿っていても機械は機械。水は大敵だ。私の同僚のコーヒーメーカーも、初めて海辺のイベントに参加する時は心底嫌そうだった。「海水を被ったら塩辛いコーヒーしか作れなくなる」なんて、頓珍漢なことをもっともらしく口ずさみながら。
もしかしたら機械たちは、人間の預かり知らない方法で噂話をしているのかもしれない。機械だけが知っている内緒話など、掃いて捨てるほどあるだろう。
水辺でなければ、父は外出が好きだった。私が最後に父と出かけたのは、父が寝たきりになる少し前のこと。父のお気に入りの画家の個展を目当てに、大きな美術館へ足を運んだ。母は美術にさっぱり興味がないので、父と美術館に行くのはいつも私だった。
二人で見た絵画はいわゆる印象派のもので、輪郭を伴わないぼんやりとした画風の作品ばかり。川に浮かぶ日の光も傘をさす後ろ姿も、どこか捉えどころがない。それを父はじっと見つめていた。
「どうしてあの画家の絵が好きなの?」
美術館の中にあるカフェで休憩しながら私は聞いた。私は泥のように苦いコーヒーを飲んでいて、父は妙に甘そうなカフェラテを注文していた。
「俺は曖昧ではいられないけど、あの絵はそうじゃないから」
屈折度測定器の父は、ぼやけながらも完成している絵画に憧れていた。
確かに、父は死んでもなお明瞭だった。火葬して骨に変わる人間とは違う。死んだ父は生きている時と同じ形のままで、私たちが拾い上げたものを除き全ての部品が回収された。母から見れば古巣の医療機器メーカーの担当者がやって来て、お悔やみの言葉と共に父の体を持って行った。
あの時、父を解体したのは母だ。父をバラバラにする前に、母は動かない父の中を覗き込んでいた。多分、何かが映し出されていたのだろう。彼女は小さく頷いたけど、目にしたものを私に見せようとはしなかった。
記憶の外側から、スマートフォンの声がする。
「まもなく料金所です。料金は……」
車は海岸沿いを走り、やがて駐車場に停まった。この辺りは人工の砂浜が広がる地区だけど、秋の砂浜に見える人影はまばらだ。車を降りて遊歩道を歩いていると、犬の散歩をする信号機が「こんにちは」とこちらに挨拶して来た。勤務時間外のルール通りに明かりを消した顔は、穏やかな表情を浮かべて通り過ぎる。私たちも彼女に挨拶して、砂浜に足を踏み入れた。
目の前に広がるのは青空だった。父の中を覗いた時に見える景色によく似た青空と、小さな波が行き交う青い海。気球は浮かんでいないし、島なんて一つも見当たらない。私たちは海に向かって砂浜を歩いた。大倉先生は、手にした杖をついていなかった。
潮の香りが強く鼻を撫でる頃、母が正面を指差して立ち止まった。
「夢の島、あの辺りにあったんだよ」
何もなかった。ただ水平線が空と海を分けて、蜃気楼さえも姿を見せない。“ない”を私たちは眺めた。柔らかな潮風が頬を撫でる砂浜で。父からぷしゅっと吹く風とはまるで違う、広々とした風の中で。
「お母さんたち、夢の島で何してたの? ぼーっとしてた?」
「私は部屋のプールで泳いで、あの人は本を読んでた。時々お互いの様子を確かめて、また泳いだり本を読んだりして」
「リゾート地だったんだね」
「そうそう。あの人、最初は嫌がってたのに行ったら案外楽しんでたよ。『見ている分には海はいいね』って。本当は一緒に海で泳ぎたかったけど。まあ仕方ないよね、好きになった相手が機械だったんだから」
大倉先生と合流してから、母は父のことを“あの人”と言うようになった。大倉先生は、久しぶりに杖の存在を思い出したかのように、砂浜に杖をしっかり刺して立っていた。
「君たち、本当に仲睦まじかったよねえ。君がメンテナンスに来る頃合いになると、院内の空気がどことなくソワソワするんだ。君たちの恋路を、僕もみんなも見守っていたから」
「やだ、先生。娘の前でそんな恥ずかしいこと言わないで下さいよ」
「ははは、それはすまないねえ。でも、ご両親の思い出話は幾らあっても足りないくらいだ」
そうだよね、と言いたそうな穏やかな視線が私に向けられた。私はなんとなく頷いて、そういうものなのかなと何もない海を見る。じっと見つめていれば、夢の島が浮かび上がってくるように思えた。
その時、背後から静かな足音がした。ざらざらと砂浜を進む重たそうな音。大きな蛇が海を眺めに来たのかと思って振り返ると、目の前に真っ赤な車が姿を現した。駐車場に停めた母の車だ。
「お母さん、車が……」
私に呼ばれるより早く彼女は振り返り、砂に足を取られながら駆け出した。赤い車はゆっくりとこちらに向かって来て、やがて二人は抱き締め合った。
乗り物に命が宿るわけがない。そんなことわかってる。大体、どうして機械に命が宿るんだろう。どうして人間に命があるんだろう。
母は車を抱き締めながら泣いていた。
「お帰り。よかった、信じてたよ」
そんな風に言いながら。だけど潮風に吹かれてしまって、彼女の言葉はよく聞こえない。車が何を言っているのかもわからない。それでも、二人の間に何があるのかは嫌でもわかる。
あれは、きっと。
母は運転席に乗り込んで、私と大倉先生に手を振った。赤い車は照れくさそうに笑って、ヘッドライトを二度点滅させる。二人はそのまま、海へ向かって進んで行く。青空と海の境目に向かって、静かに静かに砂浜を歩く。今はもうない夢の島。新婚旅行で母がそうしたかったように、一緒になって海の中へ。
「千歳さん」
隣で大倉先生の声がした。彼の声は、潮風の中でもよく聞こえた。
「うちでコーヒーでもいかがかな」
「……カフェラテでもいいですか?」
「もちろん。それじゃあ、帰りは電車にしよう」
赤い車が海に沈んで行く。夕焼けの大きな太陽が、海に飲まれるみたいに。気球が黙って萎れるみたいに。
やがて何もかもが目の前から消え去った。海はいつもと変わらぬ様子で波の手を伸ばし、砂浜を撫でていた。私はポケットに手を入れて、父の顎置きの
夢の島 矢向 亜紀 @Aki_Yamukai
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