二部

二部



1


 蝉がけたたましく鳴き、攻撃的な日光が視界を余計なほど照らす。

 扇風機が回る部屋で、一滴汗を流しながら、小田憲は溜息をついて原稿を置いた。

 長い小説ではなかったが、読んでいる間は何も飲んでいないので、喉の潤いが足りない。ついでに昼になったのでお腹が空いてきたため、部屋の隅の段ボール箱からカップラーメンを取り出した。夏は暑さのせいで料理をする気が起きない。これで四日連続昼飯カップラーメンとなってしまうが、小田は特に気にしない。健康なんてクソ食らえ、などと思っているわけでは決してないが、そこまで健康を気にしていないのは事実だ。

 お湯を沸かして、カップラーメンに注ぐ。湯気が湧き出て、顔に熱気が寄ってくる。三分待っている間に何かキンキンに冷えたものが飲みたい。

 冷えたものを考えて一番に浮かんだのがビールだったので、昼間からビールでも飲もうかと、冷蔵庫を開けるが冷えているものが一個もなく、仕方ないので、冷えた麦茶で我慢する。麦茶では正直物足りないが、ぬるいビールを飲むよりはマシだ。

 氷を三、四個コップの中に入れて、麦茶を注ぐ。麦茶が陽の光を反射してきらきらと光っているのは、暑さを思い出さされて不愉快になる。

 そして、ひと段落して、考える。この本の著者は何を思ってこの本を書いたのだろう。

 小田は麦茶を飲み干し、床に寝転がる。

 『ミケくんとおまわりさん』という絵本のようなタイトルのこの本は、実際のところ、絵本ではなく普通のミステリーであった。いや、普通のミステリーと言えるのかは定かではない。犯人は明かされたが、殺害方法は明かされないまま物語は終わっているし、物語の至る所に違和感は残りっぱなしで、どうやら読者への挑戦という形を取っているようだった。だが、ミステリーであることに変わりはないようだ。

 いや、この本がミステリーであることは、読む前からわかっていた。この本の著者、古井透はある筋で有名になったミステリー作家なのだから。

 だが、この本はまだ原稿の段階で、出版はされていない。彼の出版されている本、あるいは連載されている本はすべて目を通している。

 つまり、出版前の原稿、あるいは、出版する意思のない原稿を小田に送りつけたということだ。

 となると、問題になるのは、なぜ古井は小田にこの原稿を送ったのか。小田の頭の中では様々な情報が行き交い、まるでコンピュータかのように勢いよく稼働して謎を解き明かそうとしている。

 さらに疑問は残る。この本に見受けられる明らかな粗雑さ、そして展開のベタさ。これも古井が意図して行ったことなのだろうか。意図して行ったとすれば、確実に何か意味があるはずだ。その意味は何なのだろうか。

 小田は新しく麦茶をコップに注ぎ、麦茶を喉に流し込みながら頭を使う。

 そうしてゆっくりと考えていくと段々目的が見えてきた。そして、この原稿では解決されずじまいに終わってしまった殺害方法の謎も。全てがぼんやりと浮かんできて、段々形を成して行く。違和感がある結末で収束し、答えが導かれる。

 だが、小田はこの小説のことを含め、古井に会って聞くしかないと考え、椅子から立ち上がった。

「カップ麺!」

 小田は声を上げて、カップ麺に駆け寄った。もう二十分以上経っている。

「ああ」

 そして、がっかりと溜息をついた。今日の昼はなしのようだ。こんな伸びきった面流石に食べたくない。

 古井の典型的なだらしない人の見た目が脳裏に浮かんでくる。

 小田はスマートフォンを取り出し、古井のアドレスに電話をかける。こうして、小田は古井と対談することとなったのだ。



 『楽々カフェ』という古井が愛用するカフェにて、会うことになった。

 余裕を持って家を出たが、小田の家からもそう離れていないので、小田は早めにカフェに着いてしまった。

 店内はとても綺麗で、洒落た見た目。店員の接客も丁寧で、好感の持てるカフェだ。変に気取ったカフェと比べてとても落ち着く。店内にいる人も少なく、所謂穴場というやつなのだろう。

 カフェの一番奥にある四人用の席を見つけて、小田は座った。横の席に、いつも研究の資料などを入れるために持ち歩く鞄を置く。

 小田はこれと言って飲みたいものもなく、コーヒーを注文したが、コーヒーが好きなわけではなく、完全に適当である。

 小田と古井は昔からの仲で、高校の同級生だ。大学に上がってからは、ほとんど縁がなかったのだが、最近同窓会で会い、そこから定期的に会う仲になったのだ。しかし、出版前の本の原稿が送られてくるということは初めてだった。普段は、世間話をしたり、思い出話をすることが多かったのだ。 

 中々、古井が現れないので、小田は愛用するリュックサックからノートを取り出した。そして、ノートのページをペラペラとめくる。これは大学での講義に使うためのノートで、小田の研究してきたことがぎっしり書かれている。ミスがないか、丁寧に確認していると

「大学の準備か。偉いな」

 と肩を叩かれた。誰かは声でわかっていたが、顔を上げると、細長くて色白、細い眼鏡とボサボサの髪が目立つ、予想通り彼が立っていた。彼はニコニコと笑いながら、小田の正面の席に座った。

「お、来たか。久々だな、古井」

 彼こそ、この小説の書き手、古井透である。


「お前も変わらないねぇ」

 前に会ったのは一ヶ月前なのに彼は嬉しそうにそう言う。

「最近は大学も忙しくてね。すっかり痩せちまったよ」

 体重は五キロ減量して、五十五キロを切り、五十キロへの道を辿っている。

 元々性格の似ていた古井と小田だが、小田が痩せていけば、見た目まで似てきてしまう。

「元々だろ」

 古井は笑った。

「研究が忙しくて飯が食べれないんだよ」

「ロリコンが」

「幼児のことを研究しているだけでロリコンとは、失礼だな。いや、そもそも、ロリは幼女だから、正確には」

「過剰反応したら余計怪しいぞ」

 そう言って彼はまた屈託なく笑う。

「だが、研究は結構順調でね。大学の講義の方は出席者がみるみる減って大変なんだが」

 小田は困った様子で頭を掻く。

「大学なんてそんなもんだろ」

「そうは思ってたけど、実際に減られると悲しいねぇ」

「おかわいそうに」

 古井はふふっと少年のように笑った。話が脱線してきたので、小田は本題に入る。

「で、なぜ僕が、お前をここに呼び出したか、は分かっているだろう?」

 小田はノートを片付けながら言う。

「分かってるね」

 古井はせいぜい数週間ぶりの再会を喜んでいる様子だった。

「『ミケくんとおまわりさん』というあの本についてだ。まあ幾つか言いたいことはあるんだけれど」

 小田はズボンのポケットに手を突っ込んだ。そして、何もせず、また手をポケットの外に出す。

「まずは、結論から話してもらいたいな」

「お前も優しさがないな。こういう時には、探偵らしく、推理を語らせてくれよ」

「いいだろう! では、俺は犯人らしく推理にツッコミを入れてやろう」

 古井は楽しそうに笑う。

「それでは、この事件の真相をお話ししましょう」

 小田は仰々しくそう言って、推理の幕を切って落とした。


3


「本を読んだからには感想を述べた方がいいかな?」

「ご自由にどうぞ」

「事件の謎を全て推理した身からすれば、このミステリーはとても巧みに満ちている」

 小田は偉そうに咳払いした。

「自信たっぷりだな。あとで恥かかない?」

「完璧な答えが出たもんだからね。ま、この小説の改善点を挙げるとすれば、大衆ウケしないことかな。入り組んでいる上にメイントリックは結構なものだから。更には、この小説含む”全て”を推理できる者は少ないだろうからな。この本は出版するつもりで書いたのか」

「ちゃんと解決編を付属させて、編集者に持っていくつもりだ」

 古井は目を細める。

「しかし、お前だからこそできるトリックなのかもな。感想はこれぐらいにして。では、本題に入る。

 まず、この話は一般的な推理小説ではあり得ないような違和感がある。それは、犯人は明かされるのに殺害方法が明かされないことだ。こういった抜けがある推理小説は全て、読者に出題するために作られたものだと考えられる。今回の場合、考えられるのは二つ。そもそも、小説中で明かされていた犯人は、真犯人ではない。もう一つは、読者に出題したいのは、犯人が誰か、ではなく、犯人はどう殺したか、そこだけを問いたい。

 まず、一つ目の可能性から目を向けていこう。瓜内トンは、本当に犯人なのか。だが、瓜内トンが犯人であるということは断定できるように思える。瓜内トンが犯人である証拠も複数ある。例えば、ニャン警視が瓜内に口を滑らせて情報提供者の存在を教えてしまうシーンも描かれているからだ。このシーンを描いた意図を考えると、瓜内トンは犯人だと考えられる。意味なくこんなシーンを描きはしないだろう。ミスリードという可能性も否定はできないが、それはまた行き詰まってから考えればいい。そして、この物語の結末での瓜内トンの行動からも瓜内トンは犯人であると断定していいのではないだろうか」

「ここまでは正解だね」

 古井は親指を立てる。

「では、二つ目の可能性を考えるしかない。つまり、瓜内トンはどう殺したか、の問題である。そして、どう殺したか、を考えるべきは二件の不可解な事件だ。蛙池ヒキの分と、志々田、猿内、の分。どうやって高所からの脱出を成功させたのか、という問題と、どうやって距離の離れた二地点でほぼ同時に殺害を行ったのか、という問題。しかし、どちらの事件も結構難解なもので、解き明かすのは難しい。少なくとも、この異常な技を両方成し遂げられる動物の種類はないし、ましてや豚の瓜内トンには不可能だ。相当、奇抜なトリックがあるに違いない。奇抜な方法が用いられているのは、猿内エンの日記からも察することができる。猿内エンの日記といえば、どうして、日記に明確に何を見たかが記されていなかったのかも疑問で、それも当然、事件解決に鍵を握ってくるに違いない。だが、やはり難しすぎて、すぐには見当がつかないので、ここで一旦、別の謎について考えてみる。

 別の謎というのは、各章の間に挟まる間章。この間章はなんの意味を果たしているのか。普通に考えれば、これは瓜内トンの幼少期だ。つまり、これは、どう殺したかのヒントになっている。瓜内の幼少期の記憶が何かしらの形で殺害方法と繋がっているのだろう。推理小説では今や頻繁に用いられるものとなった、過去が関連するタイプ、だ」

「なるほどねー」

 古井は適当な返事をする。

「間章の議論はここでやめて、別の違和感を掘り下げていく。その違和感とは、物語全体の構成に関する違和感だ」

「話が転々とするね」

「それだけ難解なんだ。んで、この物語は推理小説という形を取っているが、明らかに物語、展開の質が低い。それも、意図的だと思えるぐらいに」

「俺の文章力、文章構成力の問題かもよ」

「いや、そうは思えない。例えば、終盤の展開。驚くほどベタだ。こんな銃撃戦を本格ミステリー小説で使うものだろうか。ハリウッド映画や、アドベンチャー系の小説なら理解できる。違和感はこれだけではない。

 名前の使い方にも明らかな違和感がある。なぜ地の文では、苗字ではなく名前なのだろう。例えば、主人公の猫目ミケ。普通の小説では、苗字、つまり猫目で書かれるはずだ。しかし、見たら分かる通りこの小説中では苗字ではなく名前、ミケで書かれている。冒頭の絵本チックな序章や、動物の世界が舞台であるせいで、この違和感は薄まっていた。しかし、確かに違和感がある。これがなにかしら、どう殺したか、に関与しているとしか考えられない。そう考えてみると、これが動物の世界を舞台にした理由だと判断できる」

 小田は饒舌に語る。古井はにやにやしながら小田の話の続きを待つ。その様子はまるで、睨み合う二匹の猛獣のようだ。

「ここからは物語の中から読み解けることを考えていく。外形から読み解けることは大体拾えたから。で、物語の中に散らばっているヒントの中でも目立つのは、首を刺して殺したという点だ。首が狙われた理由。瓜内トンはなぜ首を攻撃することに過度にこだわったのか。なぜ首を攻撃したのか、いや、攻撃せざるを得なかったのか」

 にやりと小田の口角が釣り上がる。古井は何気ない顔で小田の方を見つめる。

「しかし、これだけの情報では推理ができない。そこで、文章に再び目を向ける。再び目を向けると、いいヒントがちゃんと書かれていることに気づく。そのヒントというのは、現場に落ちていた毛玉だ。明らかに証拠品のように見える。毛玉というこの証拠品。これが何を示すのか。最後の銃撃戦の場面の手前では、この毛玉が瓜内トンの家で発見されている。この毛玉は何を表すのだろうか」

「何を表すんだい?」

「パッとは思いつかなかった。だから、一旦このことも置いておいて、もう一度間章に目を通した。じっくりじっくり目を通した。何しろ、明らかにヒントが隠れていそうな箇所だからな。そして、ついにその違和感を発見した。読み上げてみるとわかりやすいかもしれない。まず、最初の間章」

 小田はそう言って、鞄から『ミケくんとおまわりさん』を取り出して、ペラペラと捲り読み上げた。

「”ねぇねぇ、おかぁさん。どうして、わたしはおそらをとべないの? それは、飛ぶ必要がないからよ。どんな生き物にもできないことはあるの”

 この場面は一見、この事件の謎である殺害方法へ繋がる箇所へと結びつく場面に見える。だが、よくよく見ると、明らかに妙な表現があるのだ」

「ほう」

「どんな生き物にもできないことはあるの、という表現だ。まるで、自分でさえできないことがあるのだから、ましてや他の生き物にはできないことがあるだろう、というような表現に見える。自分らが最も様々なことができる賢い生き物だと言っているかのようだ。しかし、この物語の世界の動物達の中に特別強い種がいるようには見えない」

「やや強引だね」

「そこで、二つ目の間章に目を通してみる。

 ”ねぇねぇ、おかぁさん。どうしてどうぶつをころしてはいけないの?”

 この記述がまた同じ違和感を抱かせる。なぜ他の動物が、自分たちより下級な生き物のように記述しているのだろうか。彼らの種が優位なように見える。

 そして、読み進めると明らかな違和感が出てくる。

 ”何事も誰かのおかげで成り立っているの。だから、常に色んなものに感謝して生きるのよ、お母さんはそう言った。本人がそう思っているのかはわからないが、形式的なことである”

 ここまで、実は、物語の中では『人』という字が一切使われてこなかった。例えば、『犯人』や『殺人』という言葉を使うのは避けられている。『殺し屋』や『事件を起こした者』というふうに言い換えられているんだ。しかし、この間章では、『本人』という言葉が使われている。これが示していることは明らかだ。間章で描かれている世界は人間の世界だ。間章以外で描かれている動物の世界とはまた別の。間章は、人間の子供とお母さんの会話を描いているのだ。

 では、なぜ人間の世界と、空想的な動物の世界を両方描いたのだろうか。その疑問の答えも間章にあるのではと思い、間章を読んでみると、本当に答えが書かれていた。

 ”お母さんはそう諭した。その回答にとりあえずは納得したようで、おもちゃやぬいぐるみで遊び始める”

 という箇所。そう、ぬいぐるみ。この動物の世界で描かれているのは、間章の主人公である赤ちゃんがぬいぐるみで遊んでいた世界なのだ」

 小田はビシッと古井の方を指差した。カフェには店員しかいないので、そんなことも恥ずかしがらずできる。


4


 古井はまだ白旗を上げなかった。

「ぬいぐるみ、だとしたら説明できるのか?」

「今まで出てきた謎を全て、説明することができるんだな、これが」

 小田は無邪気に笑った。

「順番に説明していこう。まず、この物語がベタな構成であるということだ。例えば、最後の局面の銃撃戦だな。だが、それもこれが幼児によるぬいぐるみ遊びだと解釈してみるとなぜベタで、尚且つ銃撃戦などというミステリー小説に似合わない描写があったのかもわかる。ベタであった理由は単純で、それは幼児のぬいぐるみ遊びであるからだ。ぬいぐるみ遊びでわざわざ、ストーリーを練って台本を作って、なんてしないことと一緒だ。そして、銃撃戦が行われたのは、そもそも幼児は別にミステリーを作ろうとしてぬいぐるみ遊びをしたわけじゃないからだ。幼児はハリウッドの刑事映画のようなものをテレビで見て、それをぬいぐるみでやってみたのだろう。

 また、推理小説なのに、探偵がいないというのも違和感だった。主人公は、猫目ミケであることは明確だが、事件を解決する探偵がいない。途中で出てきた、ブチというキャラクターが探偵役なのかと一瞬思ったがそういう訳でもない。では、ぬいぐるみ遊びであるとして考えてみる。すると、理由は簡単で、主にこのぬいぐるみ遊びを行っていた幼児が見ていたのは、ハリウッド系や刑事ドラマで、『探偵』という概念が薄かったのでは、と納得できる。刑事ドラマは二人組の主人公のケースも結構あるからね。

 では、似たような謎を先に処理しよう。どうして、登場人物が苗字ではなく名前で書かれているのかという問題。これも幼児のぬいぐるみ遊びだったということで片付く。幼児が読む本といえば当然絵本だ。そして、絵本での登場人物は名前で書かれることの方が多いだろう。絵本に鈴木とか田中とかいう名前が出てくることは少ないだろう。大体は、ミクとかサクとかグリとかグラとか。それ故に、この物語の登場人物は名前で書かれていたのだ。

 そして、なぜ被害者は皆、首を切り落とされる、あるいは刺されているのか。それも、ぬいぐるみの世界だと解釈することで合点がいく。一言で言えば、どうなったら死んでいるのか、がぬいぐるみにおいてはわかりにくいからだ。例えば、動物なら心臓が動いてるかを確かめれば生死を判断することができる。だから、心臓を一突きにされている死体を見掛ければ、ああ、殺されたんだということがわかるだろう。

 一方で、ぬいぐるみは、どこをどう見て死んでいると判断すればいいのかいまいちわからない。腹を切り裂かれた状態を死んでいると判断するか? 人間の場合は腹を切り裂かれても生きている場合もあるのに? ましてや、ぬいぐるみなんていう訳のわからない物を判断できるか? 脳天をやられている状態を死んでいると判断するとしても、ぬいぐるみの脳天がどこかなんてわかりはしない。

 しかし、首ならどこにあるかわかりやすいし、首が切られていれば死んでいると判断できるだろう。だから、確実に死んでいるという状態にするため、首が狙われたんだ。一件目は首を切り落とされ、二件目は深く首に刃物を刺している。これも確実に死んでいる状態にするためだということで納得できる」

 どうだ、とでも言うように小田は古井の方を見た。古井は飄々とした表情で二、三度頷く。

「では、いよいよメインの問題である殺害方法について。殺害方法の問題もこの物語がぬいぐるみ遊びであると考えれば対して難しい問題ではない。

 一件目の事件。あれは密室で、密室を破る方法は高所から脱出、つまり高所から落下して生き延びることしかなかった。当然、登場人物が動物なら高所からの脱出は厳しい。二十二階から生きて生き延びることは不可能だし、生き延びることができる動物がいたとして怪我はするのではないか。そこで行き詰まる訳だが、実際はぬいぐるみだ。綿や毛糸の塊だ。地面に衝突しても無事で済むに決まっているだろう。更に言えば、これはぬいぐるみ遊びなので、本物のマンションが使われるのではなく、例えばレゴが積み重なったようなものや、椅子や机がマンション代わりに使われる。その数メートルから、ふわふわの人形が落下して多少の破損を生じるだろうか。一件目の事件の目撃証言に、何かピンク色のものを一瞬見た、というものが数件あったが、それは落下している豚のぬいぐるみ、瓜内トンだ。

 二件目の事件では、距離の離れた二地点でとても近い時刻に事件が起こった。しかし、これもぬいぐるみ遊びだということですっきり解決する。一件目の事件同様、本当に数十キロ離れた二地点を利用してぬいぐるみ遊びをするわけがない。だから、実際は部屋の端から端、せいぜい数十メートルなのだ。しかも、人形が自分で動くはずはないので、人形を操作するのは人間である。人間にとって数十メートルを移動するのは数秒。距離の離れた二地点でのほぼ同時殺害は、ぬいぐるみ遊びであるからこそ成し遂げられる」

 小田はつい興奮して大声を出してしまい、恥ずかしそうに言葉を切った。

「どうやら全部見破ってみるみたいだね。俺が、書くときに、意識したちょっとした所まで気付いてくれてる。なぜ、探偵を設置しなかったか、とかね」

 古井は楽しそうに言う。

「当然。あと残るのは、毛玉だね。あの毛玉は何なのか。それは、もうぬいぐるみ遊びだということがわかった以上、考えなくてもわかるだろう。あれは、豚のぬいぐるみの毛玉だ。二章のどこだったか。真ん中あたりに、淡紅色で、白い綿は少し付着していた、とあったはず。淡紅色というのは豚の皮膚の色。瓜内トンと見立てられた豚の人形の毛玉が、犯行現場に落ちていたのは、当然争った痕跡。そして、もう一回毛玉が出てくる場面、つまり、三章の最後の瓜内トンの家の場面だ。あそこで、毛玉が出てくるのは当然、瓜内トンを気絶させるため、ニャン刑事が鈍器で殴打した際に、毛玉が落ちたから。これで毛玉のこともちゃんと説明できたな。以上、これにて全ての謎は解き明かされた。この物語の真相は、こういうこと、ですね?」

「そうだなぁ」

 古井は答えをはぐらかした。自信満々の推理だっただけに、小田からすればはぐらかされたことはとても不愉快だった。

「推理に間違いがあるのか?」

「いくつか質問していいかい? 犯人の足掻きって奴だ」

 別に嫌ではなかったが、完璧な回答を出せなかったことのように感じられて小田は悔しげに歯軋りをする。

「じゃあ質問するけど」

「ちょっと待て。わかった、最後に幾つか補足する。なぜこの物語に、人間が登場しないか、という問題。だけど、それは普通に考えれば当然の話。人間のぬいぐるみなんて、少なくとも幼児がぬいぐるみ遊びで使うものじゃない。オタクが、アニメグッズとしてコレクションするために買うぐらいだ。

 また、象のファンと、蛙のヒキゲロ親子が同じマンション、つまり、同じような大きさの部屋で生活しているという点もよくよく考えれば違和感で、明らかに象は大きいので大きさに困るはずだ。だが、ぬいぐるみなら問題ない。ぬいぐるみは大体同じぐらいの大きさに作られているのだから」

「うーん、まあ確かにそこも説明してくれれば、著者の意図を汲み取っていて尚良し、なんだけど。象を登場させた意図を汲み取ってくれたのは結構嬉しいけど。でも、あくまで今小田が言ったのは加点要素。加点要素であって、必須要素ではない。おまけ問題みたいなもん。で、その加点では、小田が語らなかった分の減点は埋められないかな」

「何だよ、その減点って」

「どうして、自分たちが高所から落ちても死なない身だと気づいている者が瓜内しかいない?」

「え?」

「例えば、猿内エンは、瓜内が二十数階の高さから飛び降りて無事で済んでいることを目撃してすごい驚いたわけじゃん。それってなぜ? なぜ、今更その事実が明らかになったの? 過去に「自殺しようと飛び降りて、無事だった、俺すご」みたいなことを言い出した奴はいなかったの? 更には、なぜ、瓜内は飛び降りても死なないということに気付いたの?」

「ああ」

「そこまで考えていなかった時点でお前の負けだぜ」

 古井はにやにやしながら、コーヒーをごくりと飲み干す。メイントリックは当てられたが、百点満点の回答を出されたわけではなかったので、負けた気はしない。

「お前、幼い頃、レゴとか人形とか、まあ何でもいいけど、そういうもので遊んだことある?」

「あるけど」

「今のこの物語みたいにストーリー性を持たせて遊んだことある?」

「あるよ」

 突然何を聞かれているんだ、と小田は困惑する。ただ、困惑しているところを表情に出すと、古井に負けてしまったように思えるので、あくまで余裕そうに振る舞う。

「その時ってさ、登場人物の過去の設定とかって考えてる?」

「いや、そこまではしないだろ。別に誰かに見せるわけでもないし、設定は都合よくやってるし。『STARWARS』じゃないんだから」

「だろ。そういうことだよ」

 小田はきょとんとして、古井の顔をまじまじ見つめる。

「つまり、過去の設定とかをわざわざぬいぐるみ遊びでつけないだろ? この物語で、ぬいぐるみ遊びをしていた子供も同じくそうだったんだよ。だから、起こっている事件のことだけが描かれた。瓜内だけがなぜ、飛び降りしても死なないと知っていたかなんて、描かれないんだよ」

「成程」

「まあでも、その点を除けば百点満点。花丸だ」

 古井はそう言って、ぱらぱらと拍手をした。

「いや、推理はまだ続きがある」

「ほう」

 古井は拍手をやめて、小田の方を興味ありげに見つめた。

「ただ、根拠は少ないもんでね。今朝、ここにくる前に、ちょっと警察の方を寄ったんだよ。警察に旧友がいるもんで。それで、ある事件について詳しく教えてもらったんだ」

 小田は意味ありげにズボンのポケットをポンポンと二回叩いた。

「流石、全てお見通しか」

「この物語が書かれた意図が完全にわかった」

 そう言いながら、おもむろに小田はiPadを鞄から取り出す。

「この物語は現実の事件をある特殊な形で再現している。そのまま再現したわけではないから、初見ではわからなかったけども」

 小田は取り出したiPadで、ネットニュースを開き、机の上に置いた。

「大阪幼児飛び降り事故。これだ。

 大阪、両親留守の間に、幼児が飛び降り。

 大阪府堺市で十四時ごろ、幼児が倒れているという通報があった。救急が駆けつけた時にはもう既に幼児の息はなく、その後、両親の確認により幼児は、木下さくらちゃん二歳だと判明した。警察の捜査により、さくらちゃんはマンションの二十階から飛び降りたということがわかっており、両親の木下透さん三十五歳と木下風香さん三十歳が留守の間に開けっぱなしになっていた窓から飛び降りてしまったということだ。二人は買い物でショッピングモールに行っていたため、留守にしていたという」

 小田は自身ありげに読み上げる。

「よく、ちゃんと気付いたもんだ」

「まあね。この小説は、事故死した幼児、木下さくらちゃんのぬいぐるみ遊びを再現した事件。間章で描かれているのは、木下さくらちゃんと、木下風香さんの会話なんですよね」

「正解。ただ、折角だし、この現実にあった事件と、この小説が結びついた理由についても教えてくれよ」

「理由に関しては言わなくてもわかっているだろう? この事件がこの小説に絡んでいそうということは大体察していた。だから、読み終わった後、ネットニュースで調べてね。それで、いくつか気づいた箇所があるから、そこについて語らせてもらおう。

 まず、一番に語らなければならないのは、俺が警察の旧友に何を聞いたか、だな。記事のこの部分。

 一方でこの事件には「常識」の問題や、「育児の管理」の問題ではない、違った側面がある。というのも、現場は荒らされていたと警察の報告があるのだ。現場にあったものの一部は包丁で切り刻まれていたという。しかし、第三者の侵入があったとは考えずらい。窓の鍵は閉まっていなかったが、家自体は戸締りされていたのだ。これに関しては警察もお手上げで、幼児の事故死と現場が荒らされていたという二つの事実は関係ないのではという意見も多くある。

 とあるが、切り刻まれていた現場にあったものとはなんだろう。それを聞いてみたんだよ。そしたら、俺の予想通り、切り刻まれていたのはぬいぐるみ三匹。カエルのぬいぐるみとシマウマのぬいぐるみとサルのぬいぐるみだ。これはもう確信だ。つまり、人形たちを切り刻んだのは、木下さくらちゃん。指紋を調べればわかる話なのに、警察がメディアに対して、そのことを伏せているのは、まあ単純な恐怖からだろう。

 そして、この木下さくらちゃんがなぜ飛び降りたのか、も推理することができる。

 この物語の中に「飛び降り」に関係ある部分が一つある。その部分とは、一件目の事件の時の、瓜内トンの逃走方法だ。瓜内はマンションから飛び降りて逃げることで、密室を作り上げた。これが、さくらちゃんの事故に直接関係ある、と推測してみる。さくらちゃんは、親がいない間にこういったぬいぐるみ遊びをした。その時、ぬいぐるみは高い所から落ちても大丈夫であると感じた。そこで、自分も高い所から落ちても大丈夫であろうと、考えて、飛び降りたんだ。彼女はもしかしたら、親が高い所から飛び降りたら死んじゃうよ、と教えたことを本当のことか、と疑い実験してみたのかもしれない。或いは、自分が世界で初めて、飛び降りても死なないということを発見したと思っていたのかもしれない。

 彼女は、人が飛び降りて死んでいるところを一度も目撃したことがない。親が口頭で教えてくれた、或いは刑事ドラマなどの創作世界、でしか見たことがなかった。だから、彼女の中で、高い所から飛び降りると死んでしまう、ということは絶対的な事実として受け取られていなかったんだ。事故というべきか、自殺というべきか」

「ふーん」

「説明が難しかったかな」

「俺はこの小説の書き手だぞ? 結末は把握してるからお前の説明が雑くても問題ない」

 古井は近くを通りかかった女性店員に新しいコーヒーを注文した。

「簡潔にまとめると、さくらちゃんはぬいぐるみ遊びの中で、人は高い所から落ちれば死ぬ、ということが嘘なのではないかと疑った。それで、実行してみたら...っていう」

「正解だ。もうこの物語に謎は残っていない。小田、流石だ。百点満点。じゃあ、事件も解決したことだし、一杯飲もう」

 古井はそう言いながら、先程の女性店員にもう一つコーヒーを頼んだ。暫くすると、その店員が、二つコーヒーを持ってやってくる。

「では、乾杯しようか」

 彼はコーヒーカップを高々と掲げた。

「いや、まだ乾杯はできないな」

 小田は首を何度か横に振る。

「お前は俺の小説のトリックを無事見破った。これにて一件落着だろ?」

「いや、何も一件落着ではない」

 小田は鋭い視線で彼を睨んだ。彼の浮かれた様子の顔が一気に暗くなる。

「昼間からコーヒーで乾杯なんてことが気に食わないのか」

「まあそれも気に食わないけど。それじゃなくて、この事件がまだ解決していない」

「解決していない? もうしただろ。蛙池氏の分も、全て」

「おい、古井」

「ああ、わかった、結末が幼児が考えた世界と考えると違和感があるんだな。幼児が、哲学的な部分を物語に入れられるはずがない、と。いやいやそこは問題ない。俺だって、当然、さくらちゃんの脳内を完全に知っているわけではないんだ。だから、当然脚色してる部分はあるし、物語としてある一定のエンターテイメント性を持たせるべく工夫もしている。死ぬ直前に死を悟ることができる、というのもそのエンターテイメント性の一つだ。あくまで現場の状況を見て、そこから空想したんだ。これで疑問点も解決しただろ?」

「脚色が入っていることは俺もわかっている」

「じゃあ何が」

「お前もわかってるだろ。俺の言っている事件というのは、物語の方ではなく、現実にあった方だ。木下さくらちゃんの事故死。こっちの事件の話をするために、俺にわざわざあの本を送ってきたんだろ」

 古井は静かに、掲げていたコーヒーカップを机の上に置いた。

「お前は、木下さくらちゃんが何故死んでしまったか興味を持った。それで、色々現場の状況から考えてみたんだろ。切り刻まれた人形、突然の飛び降り、彼女の周囲の環境、これらの情報を全て踏まえた上で考えられる道筋は一つしかなかった。それをこの小説に書いたんだろう。そして、書かれている内容について、専門家に分析してもらうために、俺にこれを送りつけた。間違いはないだろ?」

 小田は喋り疲れて、喉を潤わせるためにコーヒーを飲んだ。ただ、コーヒーなので、喉はすっきりせず、カフェに入った時に店員が出してくれた冷えた水を一気飲みした。溶けて小さくなった氷が喉を伝っていき、爽快な気分になる。

「わかっているなら教えてくれ。お前はどう思う? 何故さくらは死んだ? あれは事故だよなぁ? 教えてくれ。俺はこの小説のような出来事があって死んだのだと思う。どうなんだ。教えてくれ」

 彼は今までの余裕そうな調子から一転して捲し立てた。小田はそれを宥めるように彼の肩を叩いた。

「落ち着け。古井。愛していた妻との離婚も、色々あって辛かったのはわかる。だが、一旦落ち着いてくれ。お前と風香さんが手塩にかけて育てた子供にあんな異常な形で死なれて、気持ちの整理はつかないだろうけれど、とりあえず落ち着いてくれ」

 それを聞いて、木下さくらの父親、古井透は一度深呼吸をした。


5


 古井透は、中々売れない推理作家だった。

 推理作家になろうとした理由は、確かに最初はあった。だが、徐々にその理由はわからなくなってきて、ただただ推理小説を書き続けるような日々になってしまった。

 推理作家が現実的ではないことは自分でもわかっていたつもりだったが、夢を追うと決めたからにはやめようにもやめられなかった。

 そのため、親にも見放された。呆れられ、親との縁は疎遠になっていった。

 苦しい中で、夢を応援してくれたのは地元の知り合いの木下風香という女性だった。夢を応援してくれただけでなく、苦しみもがいても夢を追う姿勢が格好いいと誉めてくれたりもした。純粋に嬉しかった。

 だから、透は木下風香に惹かれて、ついに結婚した。彼女へのある種の感謝の表れとして、苗字は夫側の「古井」ではなく、「木下」になり、木下透となった。

 しかし、彼は中々、職にありつけず、木下風香が必死で働いて家計をやりくりする状態が続いた。透が家事をしながら、執筆をし、風香が働くという形で何とか家計も安定させられた。風香は高学歴で、要領がよく、職場でも評価され、成績も良かった。それゆえに逆に、透は風香に申し訳なく感じ、推理作家を諦め、何かしらの職に就こうかと考えたこともあった。しかし、それも失敗に終わる。

 透が職に就けない理由は大学だった。無名の大学出身で、まずまずの待遇が望めるどの企業も中々採用してくれないのだ。中学高校での勉強量の少なさ、いやもっと昔からの学のなさが原因なのかもしれない。結局、透は職に就けず、推理作家を続けた。

 そんな中で、風香が子供を産んだ。女の子だった。産まれた時、風香と透は涙を流して喜んだ。名前は出産前から決めていたさくらにした。さくらという名前は、すっきりしていて、何だかすくすくと健康に賢く育ってくれそうな気がしたからだった。

 愛すべき者がもう一人出来て、透は改めて就職を考えた。古臭い考え方なのかもしれないが、子育ては、男ではなく女の仕事だと思っていた。男が下手に手を出すべき事柄ではない、と。だから、透は就職しようと思ったのだ。

 だが、またも失敗に終わる。一度無理だったのに、時間が経てば行けるなんてことはなかった。結局、大学のせいだった。自分の進路のせいだった。自分の頭のせいだった。

 自分の頭が悪いせいで、苦労した。そして、愛する人にも迷惑をかけている。さくらには、こんな目に遭って欲しくない、そう思った透は過度な英才教育を行った。風香がいれば、過度な英才教育は止めれたのかもしれないが、子育ては透が行ったため、英才教育は続いた。

 そして、さくらの地頭も良かったのだろう、木下さくらはみるみる賢くなっていき、異常な天才児となった。親の言うことはちゃんと聞いてくれるいい子供で、両親からすれば、特に透からすれば、理想の娘だった。

 透はそんな賢い娘をとても信頼していた。まだ所詮二歳であるというのに。

 ある日、さくらを家に置いて、両親で買い物に出かけた。流石に長く家を空けるのは問題なので、二人とも一時間ほどで帰宅することにした。

 自宅であるマンションの前まで来てみると、パトカーや救急車がマンション周囲に数台止まっている。透はその様子に明らかに異常を覚えた。警察官も十人ほどいる。人殺しでもあったのだろうか。あるいは、大きな事故か。

 二人は何があったのだろう、とエレベーターに乗り、二十二階で降りる。すると、警察官が数人いるのだ。更に、自分たちの家である二二04号室の前に非常線が貼られている。

 二人は反射的に、娘に何かがあったのでは、と思い、二二04号室の非常線の前に立っていた警察官に、何があったかと尋ねた。

「あなた、この部屋の人ですか? ちょっと待っててください、警部を呼んできます」

 その警察官は事情を説明せずに、奥の方へ行ってしまい、二人の不安をさらに煽る。暫くすると、がっしりとした体型の男と共にその警察官は戻ってきた。

「あなた木下さんですか」

 がっしりとした男が言った。多分この男が警部なのだろう。

「はい、木下透と木下風香です。うちの子供に何か...」

「率直に言いますと。お子さんがベランダから飛び降りて、死んでいます」

 警部はそう告げた。

 一瞬の沈黙を挟んで、風香は取り乱して、その場で泣き喚いた。わんわんと、子供のように泣きじゃくり、崩れ落ちた。透は驚きと、ショックで真っ青になった。しかし、風香の様子を見て自分まで取り乱してはならないと我慢する。

「何故、娘を一人にして家を出たんですか!」

 警部が叱責し、風香は更に取り乱して、暴れ出し、手もつけられなくなる。その場にいた警察官が慌てて風香を拘束した。透は込み上がる感情をグッと抑えて、警部に尋ねる。

「なぜ、ここに警察官が集まっているんですか? その、さくらの落ちた場所に警察が集まるならまだわかります。ですが、ここに警察が集まったところで、何もないのでは」

「それがこっちもこっちで異常でねぇ

「異常というと」

「あなたは確か推理作家をされていましたね。ならまあ、わかってくれるかもしれない。ついてきてください」

 警部はむすっとした顔で言う。

「お前はここで休んでるんだ」

 透は風香にそう言って、彼女の肩を撫でてから、警部の後をついて行った。見慣れた愛しの我が家の狭く短い廊下を警察が行き交っているこの様子は透としても異常でしかなかったが、呑気に小説の世界に来たみたいだ、などと思ってしまう。

「これです」

 彼はリビングに繋がる扉を開けた。

 ぱっと透の目に飛び込んできたのは異常極まりない惨状だった。鑑識と見られる人が一名、部屋の隅々の写真を撮っている。数名の刑事が狭いリビングを動き回り、どこかに証拠はないか必死で探し回っている。開け放たれた窓から入ってくる涼しい風がこんな状況にも関わらず、透の髪を揺らし、さっぱりさせる。

 リビングの中央に、その異常なものはあった。複数のレゴブロックが組み合わさってできたカラフルな直方体が幾つか直立不動に立ち、その直方体の脇にあるものの姿に透は吐き気さえ覚えた。

 首を切り刻まれたぬいぐるみ数匹と普通のぬいぐるみが、散らばっていた。


 結局、事件は木下透と風香の管理能力が問題となり、さくらの死は事故として処理された。異常なぬいぐるみの様子という一点だけ、警察は見当もつかずだったが、家には鍵が閉まっていた上、幼児が自殺するとは考えにくい。また、親の管理の問題で幼児がベランダから落ちるという事故は実際に結構起きることなので、そう処理することが一番効率が良かったからだ。

 だが、風香はさくらの死で気を病んでしまった。透に心を開かなくなり、突然訳のわからないことを喚いては、黙ってを繰り返し、精神はかなり深刻に蝕まれていた。透は風香に離婚を迫り、そのまま離婚した。風香が嫌いになったわけでは決してない。さくらの死があって、二人は以前のように会話できなくなり、透はそれが辛くなったのだ。

 風香と離婚し、また名前は古井透に戻ったが、木下透の名は暫くインターネット上に生き続けた。

「二歳の娘を放り出して、買い物に行くサイコパス推理作家」

「娘を溺愛し、過大評価しすぎた悲しい推理作家」

「キチガイシスコン推理作家」

「訳のわからないことをほざく頭をやられた可哀想な作家」

 などと言われ、散々叩かれたが、逆に名前が知られたおかげで、本も売れるようになった。こんな形で、名前すらしられていない段階を抜けたことは、透にとっては思ってもいない幸運だった。そのため、推理作家で何とか食い繋ぐことができるようになったのだ。

 また、透が本格推理小説を書いていたこともあって、コアな本格好きから目を付けられて、ファンも増えた。小説にケチをつけてくる者も多くいたが、聞き流せばいい話。

 この想像もしていなかった幸いは、ある意味、さくらのおかげで、さくらが最後に親に恩を返してくれたと、透は涙ぐんだ。

 だが、やはりさくらの死は透にとって重荷で、暫くは満足に創作活動もできなかった。

 そんな中で、さくらの死の真相を追求し、「ミケくんとおまわりさん」を執筆した。これは、ある種のさくらへの最後の贈り物でもあった。


6


「で、どうなんだ」

 古井は心を落ち着けてから、小田に尋ねた。小田はむぅと唸る。唸りながらも答えは出ているような表情だった。

「もし、この小説で描かれたように、さくらが死んだのだと仮定すると、何だか違和感のある箇所があるんだよなぁ」

「違和感?」

「違和感っていうか、無理があるっていうか。これが解答であるようには思えないというか」

 小田は顎髭をいじりながら考えを纏めているようだった。だが、中々腑に落ちる様子はない。

「とりあえず、その違和感を整理してくれ」 

「そうだなぁ。まず、ぬいぐるみ遊びの内容が過激すぎるということだが。こんなぬいぐるみ遊びが過激になることはあるだろうか。あり得ないことではないものの、まだ二歳児だぞ? テレビで推理ドラマやハリウッドのアクション映画を見まくったとしても」

「部分部分は俺の脚色というか小説化する上で書き加えた部分だ」

「ハリウッドの部分も、だろう?」

「ええと」

「俺は最初、さくらちゃんはテレビで見たハリウッド映画から銃撃戦を知り、それをぬいぐるみ遊びに落とし込んだ、というように説明したが、これはあくまで、あの小説を読み解いた推理においてであって、実際はそうは思っていない。現実と絡めた際には別の推理ができてくる。だって、さくらちゃんのぬいぐるみ遊びにて銃撃戦が行われた形跡がないだろう。だから、あれも脚色だね」

「仰る通り、あれは脚色だ」

 古井は頷いた。

「だが、この小説において脚色が加わっていない部分も当然ある。その明確な一つがぬいぐるみを切り刻んだという事実だ。これは、俺の警察の友人にも確認をとったから事実である。となると、この点は明らかに違和感となってくる。少なくとも、ぬいぐるみ遊びで、本当にぬいぐるみを切り刻んだりするところまで行く気がしないんだよな」

「彼女はとても賢かったから、それも十分にあり得る」

「うーん、賢かったとしても、二歳児で...。そうだなぁ」

 小田は曖昧に首を捻る。

「次の違和感は、他殺の可能性をもっと考えるべきなのではないか、ということで。警察も考えていないようだけれども。十分に他殺の可能性はあり得るんだ。例えば、空き巣が入った、とか」

「でも、家の玄関の扉は閉めていた」

「窓は開いていた」

「窓から侵入? 二十二階だぞ?」

「二十二階だから何?」

「二十二階まで登ってくる空き巣? 忍者じゃあるまいし」

「いや、登ってきたとは限らない。降りてきたかもしれないし、横から来たかもしれない」

「つまり、上の階の人間あるいは、隣室の人間が?」

 古井は興奮して身を乗り出す。

「その可能性もある、というだけで。危険だし、他者から見られるリスクは高い。まさに、この小説中で瓜内トンが、猿内エンに目撃されたのと同じように」

「他の可能性は?」

 古井は更に尋ねたが、そこで小田は黙ってしまった。古井は小田が何か考え事をしているのだと思い、彼の言葉の続きを待つ。だが、中々彼は続きを話し始めない。ずっと、腕を組んで黙っている。考え込んでいるように見えるが、その表情はどこか悲壮だ。

「どうした」

「焦らすのはもうやめよう」

 小田はポツリと言った。

「そうだ。焦らすのはやめて、教えてくれ。他にどんな違和感が?」

 古井は小田の答えを待つ。

「焦らすのをやめるのはお前だろ」

「え?」

「焦らしてるのはお前だ」

 小田は語気を強める。その声と反対に、彼の表情は淋しげである。

「古井透。お前がさくらちゃんを殺したと考えるのが一番しっくり来るんだ」


7


「何の冗談だ。冗談でも言っていいことといけないことがあるだろう」

 古井は立ち上がり、勢いよく右手で机を叩くと、小田を睨みつけた。

「違うとは考えづらい」

「俺は殺していない。本当に」

 古井は唇を震わせる。

「俺は殺していない。信じてくれ。俺がなぜ娘を殺すんだ」

「落ち着け。落ち着いて俺の推理を聞け。お前が罪を認めてしまうぐらいしっくり来る推理だから。

 さくらちゃんの事故において、明らかな違和感は、お前の口から発された言葉だよ」

「どれだ、どれが」

「娘はとても賢い、という発言。メディアにも、そして、さっき俺にも言ったね」

「あれは嘘じゃない。俺が英才教育をして、立派な娘に育てた。本当に」

 古井は口から唾を飛ばして反論する。

「そんな賢い二歳児いるわけない。賢いっていうか。寧ろ不気味だな。こんな過激なぬいぐるみ遊びを展開させる二歳児、あり得ない。二歳児って言ったら、パパママを言えるようになるだけで、大喜びしていいような年齢だ。それなのに、流石に異常すぎる。全部お前の妄想、あるいは誤解だ。IQが高いとか、どうとかの問題じゃない。いや、サイコパスならあり得るかもな」

「そう、サイコパス。彼女はサイコパスだった。娘は完全に狂っていた、サイコパスだった。だから、彼女はぬいぐるみ遊びで、あんな酷いことを...」

「古井、お前、さくらちゃんのこと愛してないだろ」

 小田がさらっとそう言ったので

「え」

 古井は目を見開いた。

「娘にサイコパスとか、狂ってるとか、そんなこと言える時点で、お前は娘を愛していない。俺は独身で、娘はいないけど、それぐらいのことはわかる」 

「な、何が。お前に何がわかる? 俺が娘を愛さない理由がないだろ? 大好きな風香との間に生まれた大事な娘を」

「出来が悪いから愛さなかったんだろ」

 古井は言い返せない。

「いや、出来が悪いんじゃない。普通の二歳児だったから愛さなかったんだ。お前の理想は天才児だ。見たこともないやばいぐらいの天才児。どこでお前の中の歯車がそんな風にいかれちゃったのかは知らないが、お前の理想はアインシュタインぐらい、あるいはそれよりやばい天才児だったんだよ。でも、さくらちゃんは普通の二歳児だった。だから、お前の理想と比べればとても出来が悪かった。だから、殺した。最近問題になってる体罰の問題と何にも変わらない。それがこの事件の真相だよ」

「俺は娘を...」

「そこもだよ。自分の娘を、娘って呼ぶあたりに愛情が感じられないんだよ」

 小田は古井を責めるような口調だったが、依然表情だけは悲しげである。

「確かに動機としては筋が通っている。あくまで、推測の領域を出てはいないが。だけど、どうだ、お前の言う通りでは不可解な点がある。それをお前はどう説明するんだ」

 古井は必死で指摘するが、反対に小田は冷静な様子だ。

「例えば、どれのことだ」

「切り刻まれた人形だ。あれはなぜ切り刻まれた? 説明できないだろ?」

 古井は、まるでナチスのヒットラーの演説にように、人差し指を立てた右手を大きく使って、大声で切り返す。その様子からも冷静さを失っているのは明確だ。

「それを説明するためにも、さくらちゃんを殺した時のお前の動きを最初から説明させてもらおうか。

 まず、お前は、風香さんと買い物に出かけた。この時点では、明確な殺意はなく、これを機に殺せるかもしれない、でも、殺したくはない。というような葛藤状態だった。さくらちゃんのことをお前は出来損ないという目で見ていたのだろうが、自分の血のつながった大事な娘という点で、そう直ぐには殺そうという考えに至れなかったのだと想像できる。ただ、この機会に殺せるかもしれない、と思ったお前は、まだ二歳のさくらちゃんを家に置いたまま、家を出た。風香さんは多分、いつもの、うちの子は天才だ、なのだろうと思い、呆れたが、うちの子は天才だ、という空想に取り憑かれている夫に文句を言うのは少し躊躇われて、仕方なくさくらちゃんを置いて家を出た。

 ショッピングモールで買い物といっても二人でずっと一緒に買い物をするわけではない。男性はスポーツショップや、スニーカー屋などを訪れるが、女性は、服屋や化粧品屋を訪れるだろう。この日も、二人は思い思いの店を訪れて、集合時間になったらどこかに集まろうというように決めた。

 風香さんはいつも通り、服屋などを訪れたが、お前はこっそり家に引き返した。この時点では、お前の中では、さくらちゃんを殺すという意思が固まっていたのだろう。殺害方法も、事故に見せかけた落下死、だと考えていた。

 お前は家に帰った。さくらちゃんは多分レゴブロックやぬいぐるみで遊んでいたのだと思う。お前は、さくらちゃんを抱き抱えて、そのまま落とそうと考えていたが、そこで重大なミスに気づく。落とそうとした時に、さくらちゃんが騒いだらどうしよう。そんなことになれば、誰かしらの近隣住民には気づかれてしまうだろ

う。お前はさくらちゃんの父親だが、持ち上げた時に高い高いをしてくれたと勘違いして、喜んで騒ぐ可能性も大いにある。さて、どうしよう。

 そこで、閃いたのがぬいぐるみを使うという作戦。お前は、さくらちゃんが使っていたぬいぐるみを何匹か借りた。そして、刃物でその首を斬る」

「どうして俺が突然そんないかれたことをしないといけないんだ」

「目的は綿だ。ぬいぐるみの中に入っている綿を取り出そうとしたんだ」

「なんでそんなことを」

 古井は机を勢いよく叩いた。

「まだ無実を演じるのか? もういい加減に認めろ」

「無実を演じる? 実際殺人なんてやっていない。そんなことより、答えろよ。なぜ、俺は突然、ぬいぐるみから綿を抜き取ろうとしたんだ」

「綿轡っていう物があるように、綿を人の口に含ませると喋りにくくしたり、声を吃らせたりする効果がある。お前はさくらちゃんが騒がないように、その場で綿轡を作ったんだ」

「それなら、別にぬいぐるみじゃなくてもいいじゃないか。裁縫道具とかから、綿を抜き取ればいい」

「確かにそうだが、お前は家のどこに綿があるかなんてわからなかった。まあ、男は裁縫なんてしないことが多いから仕方ない。家事はやっていたようだが裁縫まではやっていなかったのだろう。女がやるっていう文化が根強く残ってしまっているからね。

 兎に角、お前はぬいぐるみ数匹の首を斬って、綿を取り出し...」

「ちょっと待て」

「まだ足掻くのか」

「俺は認めない」

 古井は頑なだ。

「どうして、ぬいぐるみの首を斬ったんだ? 別に首以外を切っても良かったじゃないか」

「これは、俺の推測で、後で知人に話を聞かないとわからないんだが。最初は首以外を切ろうとしたんじゃないか。例えば、猿のぬいぐるみのお腹とか。ただ、思った以上に切りにくく、首を斬った。首の部分は細くなってるから一番切りやすいだろ。その時は、時間に余裕があったわけでもないから、首を斬った。

 その後、取り出した綿を一塊にし、さくらちゃんの口に突っ込む。そして、遊んでいるさくらちゃんを持ち上げて、ベランダに出る。ただ、ここで誰か目撃者がいた際のために、お前はさくらちゃんを捕まえたまま、身を屈めてベランダに出た。そこで、さくらちゃんの口の綿を抜き取る。ここからは、さくらちゃんも声を出せるようになっているので、早業だ。身を屈めたまま、さくらちゃんをベランダの低い柵の上に乗せた。屈んだ状態でも、柵が低かったこともあって、手を伸ばせば、柵の上に乗せることは可能だっただろう。そして、指先で強めにさくらちゃんのことを押してあげれば、さくらちゃんはそのまま落下していく。お前は首を斬ったぬいぐるみをその場に放置して退散した。首の切られたぬいぐるみを放置したのは、外部の者が強盗か何かの目的で現場を荒らしたと見せるためだ。そして、全て終えたお前は何食わぬ顔で風香さんと合流して、帰宅した」

 小田は全ての推理を語り終え、正誤判定を待つように古井を見つめた。

「もし、お前の推理が正しかったとしても、確かめる方法はないぞ。あくまでお前の妄想として処理されるだけだ」

「それはどうだろう。お前が本来ショッピングセンターにいるはずであった時間帯にお前はショッピングセンターにいなかった。そのことぐらいなら、全ての防犯カメラの映像を確認すれば済む話だ。どこにもお前が写っていなければ、お前は犯行時刻にショッピングセンターにいなかったということになる。これは重要な証拠となる」

「重要な証拠にはなるが、逮捕するには証拠が不十分だ」

 古井は泡を食った表情で言い返す。

「その通りだ。だから、別にそのことはどうだっていい」

「え」

 今度はどういう反応をすればいいかわからず、今度は困ったように眉を動かす。

「俺の推理が正しいかを当てるのが目的だろ。別にお前を捕まえたくてやってるんじゃない。だから正誤の判定をしてくれ」

「ここでは、少ないが人もいるし、ちょっと場所を移動しよう」

 古井はそう言って席を立った。古井は会計を済まし、カフェを出ていく。小田は慌ててそれを追った。


 二人は、人のいない小さな公園のベンチに座った。改めて、小田は古井に尋ねる。

「正解か? 不正解か?」

「正解だ。流石。全部見破られるとは」

 古井は気のない拍手をする。

「別に俺はこのことを誰かにバラしたりするつもりはない。ただ、俺の方からもいくつか質問させてくれ」

「質問? 推理は全て正解だ。抜けも特にない」

「いや、推理できない部分についての質問だ。まず、風香さんとの離婚。さくらちゃんを殺したことをバレたのか」

「推理できてるじゃないか。そうだ。バレたんだ。風香は、俺に用があって、俺があのショッピングモールに来た時はいつも最初に寄る雑貨屋に行ったんだそうだ。そこで、俺がいなくて若干違和感を覚えていたらしいが、その時は気にしなかった。けど、さくらが死んで、もしかしたら関係あるんじゃないかって思い始めたらしい。俺はトイレに行ってただけだ、と言い、彼女は信じてくれた。しかし、このまま生活していたらバレてしまうかもしれないという恐怖に駆られて、離婚を頼んだ」

 古井は作り笑いを浮かべて言った。小田は彼のことを悪人だと思ってはいない。どこかのタイミングで、彼の歯車が狂って、挙げ句の果てに人一人殺してしまったのだ。彼は、今も以前のように子供らしい好奇心を残した純粋な青年なのだ。

「失礼な言い方にはなるけれど、確かに、風香さんと別れたのは正解だったのかもしれないな。風香さんも相手に一抹の不安を覚えたまま共同生活するのは、気が引けるだろう。あと、もう一つ。これはもっと根本的な疑問。なぜ、この原稿を書いて、それを俺に送ったんだ? 俺にはそこがピンとこない」

 小田が尋ねると、古井は、昔の自分を懐かしむような表情をして、ああそれね、と一つ言葉を置いてから、説明した。

「お前に、この物語が事件の真相である、と思わせておけば、後々、俺のこの犯罪がバレた時にお前が庇ってくれると思ったんだろうな。お前がまさか、ここまで暴いてくるとは想像もしなかった。物語の謎を解くだけで終わると思っていた」

「嘘の事実で真実を覆い隠そうとすれば、どんな時でも何かしら合致しない点が出てくる。その合致しない点に気付くか気付かないか、その紙一重の差だ」

 小田はにこりと笑って言った。もう、カフェにいた頃の、険しい表情ではない。古井との久々の会話を楽しんでいた。

「いや、俺がお前にあの原稿を送った理由はもう一つあるのかもしれない。お前に助けを求めていた、のかもしれない。表の自分は、自分の娘を天才だと言い、厳しい教育をして、挙げ句の果てに娘を殺し、必死でその事実を隠蔽しようとした。ただ、もう一つの自分は、自分が異常であることに気付き、殺人を防ぐことはできなかったが、自分の心がおかしくなっていることを知っていて、お前を頼ろうとしたのかもしれない。まあ、わかんないな」

 古井は声を上げて笑った。

「まあそんなもんだろ。俺だって、幼い頃にした失敗のことを、表では気にしてないと思ってたけど、内心すごい気にしていたみたいなことはある」

「ありがとう、お前のおかげですっきりした。そろそろ、仕事に戻るわ」

「執筆か」

「来月締め切りのものがあるんでね。今日はありがとう」

「締め切りギリギリな中付き合ってくれて、こちらこそありがとう。頑張れよ、作家さん」

 古井は、もう一度ありがとう、と呟いてベンチから立ち上がった。そして、すっきりとした面持ちで歩いて行く。その背中に向かって小田は立ち上がり、何度か手を振った。彼の姿が見えなくなると、小田はゆっくりともう一度ベンチに座った。

 

 風が吹いてくる。その風は夏にしては珍しく冷たい風で、汗ぐっしょりの小田を少し爽快な気分にさせてくれた。秋が近づいているのだろうか、それとも異常な会話を耳にして、異常な風がやってきたのだろうか。

 小田は自分の汗を拭ってから、ズボンのポケットに手を伸ばした。そして、スマートフォンを取り出す。汗びっしょりの指のせいで滑って落としそうになりながらも、取り出したスマートフォンを膝の上に置く。

 そして、画面を開き、録画ボタンをクリックした。録画ボタンの横には、3:02と書かれている。そして、録画が終了する。

 三時間と二分間、小田のポケット内で暗黒を撮り続けたビデオは、同時に、世間を騒がせている幼児飛び降り事件の暗黒を録音した。

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ミケくんとけいさつ みにぱぷる @mistery-ramune

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