第17話 出庭
「……こんなことを聞くのもなんですが……」
「何?」
「どうして、彼を殺さなかったんですか?」
「それが齢十五歳のか弱い少女に聞く言葉?」
「……」
「まあ、いいけど。殺す必要ある? ただ大きなミスをしたというだけで顔を失くして、ただ大きな組織に利用されているだけの人を殺す意味って何?」
「それは……証拠を残さないため、とか」
「そんなことのために人を殺さないといけないほど、ボクは余裕を失ってはいないよ」
「そうですか」
トーマスが意識を失うと、ほとんど自立機動らしい無数の手は地下道に戻っていった。
どうやら有事の際には島のどこにでも戦略的行動を起こせるように、地下道に手駒を配置していたということらしい。
クリアとカレンは彼を地上に下ろした後、彼が意識を取り戻すのを待っていた。
そんなことをせずともさっさとその場を去るべきだったのかもしれないが、去るのならば彼を消すべきだとカレンが主張し、仕方なくクリアは彼が目を覚ますまでここに残ることにしたのだ。殺さなくともやりようはいくらでもあると。
七大企業とやらに見つかってはいけないというカレンの理屈は理解できたし、ここでトーマスを消すことがその隠蔽につながるとわかっていても、クリアにはどうにも実感ができない。
サイボーグとやらの力はわかるし、こんな大きな施設を運営し、自らに逆らう不穏分子を非道な実験対象にするという悪辣さも聞き及びはしたが、実のところ、まったく理解できてはいない。
そんな組織に、国に逆らうことがどういう意味を持って、クリアのこれからにどういう影響を及ぼすのか。
ある程度は想像できる。けれども、実感を持った今の延長線上として捉えることができない。そんな具合だろうか。
一応、施設内に戻ったグレイスも、周囲で行われた戦闘自体には気づいていたらしく、戦闘が終わってしばらくして様子を窺いに来たが、改めて施設内で待機してもらっている。
何なら気絶したふりをしている。ここからのトーマスとの話し合いがどうなるかわからない以上、彼を表に出すのは危険だろうと判断して。
そうして、トーマスが目を覚ましたのはそれから十分後のことだった。
「……そうか。敗れたのか、私は」
目を覚ますと言っても、普通の人間のように瞼を開くという動作も存在しない。ただ機械的な音声で彼がそう言ったのがクリアが彼の覚醒を認識した瞬間だった。
地べたに寝転がり、起き上がる意思すら見せずにだらりと肢体を投げ出しているトーマスの下にクリアはしゃがみこんだ。
「そうだよ。できればもう襲わないでくれるとありがたいんだけどね」
「どうして私が目覚めるのを待った? 殺さないという選択肢は君のような子どもには得てしてあるのだと理解できるが、逃げないで待つというのはまるで意味がわからない行動だ」
「そうかな? ボクはただ確約がほしかっただけだよ。あまりにもカレンが心配するものだから、君が七大企業とやらに一切、ボクたちのことを報告しないという確約がね」
「それを私が受け入れると思ったのか。仮にも私は会社組織に所属する身の上であり、俸給をもらっている立場だぞ。その会社を裏切るような行動など」
「――でも、その会社にそんな目に遭わされたんでしょ」
「……」
クリアには遠慮はない。まともに話し合う余地さえなく、いきなり襲い掛かってきた相手に対して、余計な気を回す必要性を彼女は感じなかった。
「そんな組織に対して、義理を通す意味なんてあるの?」
「義理ではない。私は職務を全うするだけだ。たとえこんな哀れな鉄くずに身をやつしたとしても、すべては私自身のミスが招いたことだ。そんな私がこれ以上、失敗を重ねるわけにはいかない」
「そう。別にそんな風に思うこと自体は否定しないけどさ。――釣り合ってないよ、それ」
「……なに」
「だから、君のその在り様と過去に犯したという失敗。それがどんなものなのかはボクにはわからないけれど、その二つを連ねる天秤は全く釣り合っていないと感じるんだよ。原因と結果が見合っていない。即していない。釣り合っていない」
「君は何を言っている……」
「ねえ、面倒くさいからさ。やっちゃっていい?」
クリアは自らの体の隅々に魔力を通した。さながらそれは自身の魔力を活性化すると同時に、自分自身の体を一つの魔法のための触媒とする行為に等しかった。彼女自身を一つの秤に置き換える行為に等しかった。
「万物代替」
クリアがそうつぶやき、トーマス・ユグリアスという男の顔に、その鉄皮に触れた。
その瞬間、まばゆい光が彼の体を包んだかと思うと、次の瞬間には、彼の顔は人間らしい造作を取り戻していた。白髪の混じった黒い髪に鋭い眼光、高い鼻の特徴的な初老の男がそこにいた。
「……え」
「は」
「……あ、けっこう精悍な顔立ちをしてたんだね」
あまりのことにそばで見ていたカレンは言葉を失い、当のトーマスに至ってはがん開きに目を見開いていた。
クリアはそんなトーマスをしばらく見つめて、それから言った。
「……あの、まばたきしたらどう? 目、乾くよ」
「なに……?」
慌てたように彼は自分の顔を手でまさぐって、その感触を確かめる。やはり驚愕に目が開きっぱなしだった。
「まじで大丈夫? 目の使い方、忘れた?」
「いや……、そんな……、ばかな……」
ともすれば、突然、彼の目元に涙が滲んで、狂ったように瞬きを始める。
クリアはそんな男の様子をどこかばつが悪そうに見つめて、
「鏡いる? ほら、どう?」
と言って、空中に水球を生み出し、自分の顔が見えるようにしてあげた。
涙を拭くことさえ忘れて、滲んでよく見えないだろうに愕然と鏡を見つめるトーマス。
「本当に、私の顔が……」
「うん。戻ったよ。釣り合ってなかったから、簡単だった」
「どう、やって」
「ん? 魔法で。万物代替とか言ったけどさ、実のところ、何かを代替する前に自然に顔戻ったんだよね。その点はボクもびっくりした。あなたの因果の歪みをね、ちょちょいっといじって元に戻してあげたらさ、何か顔戻っちゃった」
「……」
二の句が継げないでいる彼をおいて、カレンがクリアに詰め寄ってきた。
「なんですか、それ。いつの間にそんなことできるようになったんですか」
「わかんない。なんかできそうな気がしてさ。やったらできた」
「はあ!?」
心底、呆れた顔を向けてくるカレンに、クリアは唇を尖らせる。
「いいじゃん。別に毒になるわけでもなし」
「それはまだわからないでしょう。少なくとも、そんな魔法をわたしは知りません。どんな副作用があるかもわからないのに」
「まあ、たぶん大丈夫だよ」
お気楽に答えるクリアにカレンは小さくないため息をついた。
「はあ……、もういいです。でも、今後はよほどのことがない限り使わないでもらえますか。少なくともそれが何なのかわかるまでは」
「りょーかい」
あからさまな空返事を聞いて、思いっきり顔をしかめる。
「それでさ。今度こそお願いなんだけど、顔も戻ったことだし、ボクの言うこと聞いてくれない? ほんと、ただ黙っていてくれるだけでいいからさ」
「……」
話を逸らすように、涙を流すトーマスに言ってみるが、彼は彼でいまだ現状を受け止めきれない様子で呆然としている。
「あのー、トーマスさん? トーマス・ユグリアスさーん?」
「……あ、ああ。すまない。少し取り乱してしまったようだ」
「いや、全然いいんだけどね。ただ君が対応を決めない限り、ボクらも動きようがないからさ。白黒はっきりしてほしんだよね。ボクらを見逃すのか、見逃さないのか」
「……もし私がそれでも、会社への忠誠を固く守り抜き、君への恩を仇で返そうとしたらどうするんだ?」
「別にどうもしないけど逃げるよ。ただそれだけ」
「私を再び、あの鉄面皮に戻そうとは思わないのか」
「うーん。戻そうと思って戻せるもんでもないんだよね。ボクは歪みを正しただけだから。しわくちゃになってる紙くずを拾って、丁寧にしわを伸ばしていったようなもんで、もとの紙くずを再現することなんて不可能だよ」
「それでも、再びくしゃくしゃに丸めることはできるだろう」
「そんなことして何になるの? 傷ついた君をこれ以上、痛めつけて楽しめるほど、ボクは人の情というものを失っていないよ」
「……」
押し黙ってトーマスは改めて立ち上がった。
それから両手の感触を確かめるように眼前に持ってくると、握っては緩め、握っては緩めを繰り返す。
「腕やその他はそのまんまなんだな」
「だから、言ったでしょ。歪みを正しただけだって。体がサイボーグなのは多少不自然であっても釣り合いは取れているってことだよ。なに? 体も元に戻してほしいの?」
「いや、そういうわけではない。ただそうだな……、あれだけの手数を失うのは惜しいとそう思っただけだ」
「欲張り過ぎなんじゃないの?」
「……ははっ。そうかもしれないな」
初めて見る屈託のない彼の笑顔にクリアは少し目を見張った。
「そういえば、驚くばかりで礼らしい礼を一切、口にしていなかったな。そうだ、それに君の名前も」
「ん? ああ、クリアクレイドだよ、クリアでいい」
「そうか。クリアさん。心の底からの感謝を君に捧げる。ありがとう。君は私を救ってくれた」
「どーいたしまして」
ぞんざいに答えるクリアに、カレンがわずかに相好を崩して、改めてトーマスに問う。
「礼を言うということは姫様の恩に報いる意思はあるということですか?」
「ああ。ここで君たちのことを報告しないのは、確かに社会人としては許されざる怠慢かもしれないが、ここで君たちに協力しなければ、人間としては最低の部類だからな」
「なるほど。賢明ですね」
満足そうにカレンは笑った。
クリアとしては別にどっちでもいいのだが。
「本部に来てくれ。君たちのようなきれいどころをもてなすには華やかさの欠片もないわびしい島だが、最低限の歓迎はしよう」
「いや、ですけど、本部には他の職員もいらっしゃるのではないですか」
「いや、いない」
「え?」
「あいにくと手は足りているものでね」
トーマスのセリフとともに、地下から噴出した百ほどの手がクリアとカレンの近くに滞空し、二人掛けのソファのようなものを形作った。
「……」
「……」
「どうした? 乗ってくれ」
二人は恐る恐るその手のソファに腰かけ、アイアンガーデンの本部へと向かった。
※
※
※
森が開け、姿を現した三階建ての直方体の建物。
外周を十メートルほどの高さの壁に囲まれている。
クリアたちが正面にある門に近寄ると、宙に浮かんだ手が空から回り込んで扉を開閉したところを見ても、そこが本部で間違いないのだろう。
敷地内に足を踏み入れて、クリアは驚きに目を見張った。
本部敷地内にはクリアが最初に倒したアイアンドールに近いような形をした無人兵器が所狭しと並んでいて、その他にもクリアではどういう目的のために作られたのか理解できないような数々の兵器が安置されていたからだ。
「これだけの数の無人兵器がありながら、どうしてあなた一人でわたしたちの下までやってきたんですか?」
カレンが若干の動揺と共に尋ねると、トーマスは淡々と答えた。
「最初に言ったはずだろう。無人機械では判断ができないと。当初、私が持っていた情報と言えば、正体不明の少女がいたらしいということと、警備員の誰とも連絡がつかないというものだった。戦闘になるかどうかは不確定だったのだよ。それにたとえそうなったとしても、私一人で十分だと思った。ま、驕りだったようだが」
彼はクリアとカレンを交互に見て、自嘲するように笑った。
さっきからずっと唇の端がにやけているように見えるのは久方ぶりに人間らしい見た目を取り戻した嬉しさからだろうか。
「これ全部、トーマスさんの意思で動かせるの?」
「まあね。というか、これだけの数を用意してやったのだから、お前一人でどうにかできるだろうと半ば押し付けられたのだよ。懲罰人事というやつだね。だから、ここには私一人しか勤めていないのさ」
「寂しかった?」
「……そう直球に言われると、大人としては答えにくいな。まあ、話し相手もいないからね」
「ふうん」
クリアは興味なさげに頷いた。
「ここでお一人で何を?」
「まあ、基本的には報告を聞き続けるだけの簡単な作業さ。他にすることもないからね。それから事務作業。本当に手だけは足りているので、処理しきれないということはないのだが」
「あれってどうやってコントロールしてるの? えーあいってやつ?」
「間違いではないが、都度都度、指示は出しているさ、もちろん。大半はこの場合にはこういう行動を取るといった決められたプロセスに従っているが、やろうと思えば、結構な数を同時に単一の対象に向けて攻撃させることもできる。動きは直線的になるがね」
「へえ、どれくらいの数?」
「五百」
「多っ!」
「けれどまあ、それらを同時に運用することはまずないね。同時に動かしたところで、相手がよほど巨大でもない限り、攻撃を届かせるスペース自体が手で埋まってしまうから、ほとんど意味はないんだよ。カタログスペック上できるというだけの話でね」
「ふうん」
クリアはまたどうでもよさそうに相槌を打った。
門を通り過ぎ、三階建ての建物の入口までやってくると、二人は手で作られた悪趣味なソファから降りた。
通用口から中に入っていくトーマスの後に続く。
階段を一番上まで上がり、廊下の突き当りにある部屋に入った。
「私の執務室だ。殺風景なところですまないね。応接室もあるが、今までほとんどゲストらしいゲストを迎えることがなかったので、若干、埃を被っているものでね。こちらのほうが君たちをもてなすのにふさわしいだろうと思って」
「お気遣いありがとうございます」
「ありがとー」
自らそう言うだけあって、部屋の中にあるものと言えば、壁に備え付けられた大きな書棚と彼の執務机の隣にある腰丈ほどの棚ぐらいのものだ。その上にはティーポットなど、確かに最低限お客をもてなすに足るだけの用品が揃っていると言えた。
トーマスは部屋の中央辺りまで進んでいって、ふと思い出したかのように振り返って、クリアを、より正確に言えばその衣服に注視した。
「言うべきかどうか迷ったのだが、君のその服は望んで着ているものなのかな? 囚人服を動物の皮などで補強したもののようだが、かなりガタがきているように見受けられるが」
「ううん。着るものがないから着てるだけ」
「そうか。なら、この手の後についていくといい。非常用の資材庫に服なんかもいくらか保管しているはずだ。好きなのを着るといい」
「ほんと? ありがと」
正直、着心地がいいとはお世辞にも言えなかっただけに、心底、喜んでクリアはトーマスの示した一体の手の後に続いた。
階段を一階分下り、廊下を進んだ一つの部屋に入ると、室内には大きな棚がいくつも並んでいた。
その内の一つの棚に手は移動していき、そこに並んだ箱を何個か指し示した。
「これ? どれどれ」
クリアが中身を漁ると、非常用らしく、簡素な真っ白いシャツと七分丈の黒いズボンを見つけた。下着の類も入っていたため、クリアはすぐに囚人服を脱いでそれらに着替えた。
他の箱も見てみたが、クリアの価値観的にものすごく好みだと言えるような衣類はなかったので、初めに着たシャツとズボンそのままの姿で執務室に戻った。
部屋に戻ると、殺風景だった部屋の中央に三人掛けのソファと背の低いテーブルが置かれていて、ソファにカレンが腰を下ろしていた。
テーブルにはカレンの前とその隣にカップが置かれ、黒い液体で満たされている。おそらくトーマスが淹れたものだろう。
クリアが戻ってくるのを立って待っていたトーマスは、クリアがカレンの隣に腰を下ろすと、自身も執務机についた。
「服ありがとね、トーマスさん」
「どういたしまして。君のしてくれたことに比べたら、取るに足らない些末なことだよ」
クリアの言葉に柔らかく首を振ったトーマスはわずかに居住まいを正した。
「君たちにはいろいろと迷惑をかけてしまったようだが、私をあのような人間離れした姿から救ってくれたこと、心から感謝している。改めてお礼を言わせてほしい。本当にありがとう。私の人生の恩人だ」
「うんうん。苦しゅうないよ」
「……はははっ」
深々と頭を下げたトーマスに対し、何の気負いもなく平然とそう返したクリアに、思わず彼の笑みがこぼれた。
ひとしきりくつくつと笑い続けたかと思うと、すぐに落ち着いて手元のカップに口をつける。それからまた、口を開いた。
「改めて名乗らせてもらおうか。私はイエローコート国土建設、僻地特別戦闘試験所長のトーマス・ユグリアスだ。堅苦しい名称ゆえ通称アイアンガーデンと呼ばれているこの実験施設の管理を一手に引き受けている。元はしがない技術者だよ」
「技術者ですか」
「ああ。サイボーグ開発班主任だった。もはや過去の話だが。とあるサイボーグの調整に失敗してしまい、その責任を取らされる形でここの所長となった。あんな鉄面皮を押し付けられてね。もう二年になるかな」
「じゃあ、よかったね。ちゃんと元の顔に戻れて」
「ああ、本当に」
他人事のように言うクリアに、今ある幸せを嚙みしめるようにトーマスが頷いた。
「ちなみにこれってなに?」
カップを持ち上げて尋ねると、カレンがすぐに答えた。
「コーヒーですよ。姫様の消えた知識にもそれくらいは残っているでしょう」
「何か嫌な言い方……。わかるけども」
クリアは釈然としない面持ちでカップに口をつけ、あまりの苦みに眉根を寄せた。
「にがっ。砂糖とかミルクとかないの?」
「ああ、すまない。私は基本ブラックなもので、そういったものの存在を失念していたよ」
と言うと、一体の手がティーポットなどが置かれている棚の引き出しを開け、その中から小さな容器に入った砂糖やミルクなどをクリアたちの前に運んでくる。
カレンが二人分、合わせてそれらを入れ、かき混ぜてクリアの前に差し出した。
口をつけて、クリアが笑顔になる。
「甘い物とかもあれば最高だね」
「姫様……、さすがに図々しくありませんか?」
「いや、構わないよ。久方ぶりの客人を迎えられて私も嬉しい。少々の注文は嬉しいくらいだよ。今、食糧庫から持ってこさせる」
言うと、手の一つがすさまじい速度で廊下の方へ飛んで行った。
「外にある手は使わないのですか?」
「使えないこともないが、一々、自動制御に任せると、どこかにぶつかって余計な問題を起こすこともあるのでね。この執務室からならば、あらかじめ各部屋への動線はプログラム済みだからその方が速いし、正確なのだよ」
「なるほど」
「便利なもんだね」
実際、カレンやトーマスのようなサイボーグを見ると、クリアとしてはそう思わずにいられない。人の体の制限を超えて、尋常ならざる動きを可能にする彼らの在り方を見てみれば。
ただ一方で、単に便利になるというだけでなく、さまざまなデメリットもあるのだろうと考える。
トーマスのように顔を失うのはまた違う話だろうが、人ならざる身に自身を改造するという行為にいささかのデメリットも生じないはずはない。
それが何なのかは本人たちに聞いてみないとわからないが。
「一つ、聞いておきたいことがあるのですが、いいでしょうか」
「どうぞ」
「姫様や私のことはどの程度、本社の方に報告なされましたか。戦闘を終えた後、黙っていてくれるというのはわかったのですが、その前に何か、連絡を入れました?」
「ああ、なるほど。確かに君たちにとっては重要なことだね。答えはノーだ。あまりにも状況が不透明すぎたため、報告するにしても状況が詳しく判明してからと考えたためだ。それに、さっきも言ったようにアイアンガーデンは僻地だ。本土と海で隔てられた孤立無援の島であり、そこを統括する私には一応、ある程度の裁量権は与えられているし、よほどのことがない限り、報告などいらない。さらに言えば、報告を入れて、増援などを求めたところで、懲罰人事で送られた私に対してそれが為されたかどうか、不明なところではあるね」
「なるほど。わかりました」
報告がされていないと聞いて、やっと少しは安堵したのか、そこで初めてカレンがコーヒーに口をつけた。
「じゃあ、今度はボクが質問。トーマスさん、魔法ってわかる?」
「……あまりにも突飛な質問だね。失礼。もちろん君が用いたさっきの特殊な力を魔法と呼んでいるというのはわかっている。ただこの科学先達の時代に魔法などと言われると、少しばかり抵抗を覚えてしまうんだよ。わかるというのはだいぶ幅の広い質問の仕方だが、それは君以外にそういった技術ないし力を有する人間を知っているかという意味で合っているかな?」
「うん、そうだよ」
「なら、答えはノーだ。聞いたことも見たこともない。怪物じみたサイボーグ共であっても、一応ながらそこには科学の痕跡がある。サイボーグ開発班主任の私であっても、君のように己の身一つで、バリアを張ったり、炎を出したりするような人間はついぞ見たことがないよ」
「おっけー、ありがと」
念のための確認ではあったが、この世界に、いや、少なくともこの国には魔法という技術はないという認識で正しいらしい。
因果の切り替わりというカレンの推測が正しいのならば、それと同時に魔法という実際の技術体系そのものが消え失せてしまったというわけだ。
何がどうなってそうなったのかはわからないが、魔法が消えたという結果だけは現実だと理解できる。
そこで、さきほど廊下に消えた一体の手が小さな小箱を手のひらの上に乗せて戻ってきた。
「クッキーでもかまわないかな。保存の効く食料が主なもので、鮮度を保ちにくいスイーツなどは保管していないんだ」
「ありがと。十分だよ」
そのまま手が小箱をテーブルの上に置くと、棚から小皿を運んできてクッキーをその上に乗せ、クリアとカレンの前に配置した。
クリアは手を合わせるとすぐにクッキーを頬張り、コーヒーを一口、口に含む。
甘みと苦みのコントラストが彼女の頬を緩ませた。保存食だからか多少、生地が固い気がしたがそれも気にならない。
「姫様は甘い物が好きですもんね」
「え? んー、まあ、そうなのかな」
記憶がないから曖昧だが、言われてみればそうなのかもしれないと、眼下の焼き菓子を見つめながらクリアは自覚する。
それからしばしの間、雑談交じりに菓子とコーヒーを楽しむ時間が続いた。
クリアから見ても、トーマスは気のいいおじさんといった感じで話しやすく、気安い彼女の言動にこだわるところがないので気楽だった。
カレンもカレンで七大企業の内情に興味があるのか、イエローコートの内部事情に関して彼に質問し、さすがにそこまで詳らかに話せないと断られたりして、それでもなお食い下がったりしていた。
しばらくして、クッキーの残りもだいぶ心もとなくなり、ちょっとしたお茶会に三者三様、人心地ついたところでトーマスが改めて切り出した。
「さて、ここでの一連の事件について、報告はしないということで結論は出ているわけだが、それでも、このアイアンガーデンの所長として、一応の事情なりを君から聞いても構わないかな? クリアさん」
「……」
クリアは少し迷う。
トーマスにはどの程度の事情を明かしてもいいものだろうかと。
魔法のことはいいとして、以前の世界のことは。カレンのことは。囚人のことは。
考えるまでもなく、答えは明らかだった。
今はなき遠い世界の話などしたところでカレン以外に理解できるはずもなく、カレンと子犬の関係など、ますます意味不明である。
そして、囚人たちのことについても話せない。
トーマスはいい人であるように思われるが、職務に対して強い責任感を持っているようにも見えた。囚人たちのことを話せばどう行動するかはわからない。
結局、クリアは、記憶喪失で突然アイアンガーデンに放り出され、命からがら何とかそこを脱出しようとしたのだということだけを丁寧に説明した。
カレンについては人道的観点から協力を申し出てくれただけだと。
トーマスにはいくらか不審がるような様子もあった。クリアが話をする途中、何度か質問しようとしてやめたり、どこか訝るような目でカレンを見ていたり。けれど、最終的には彼はすべての疑問を飲み込んでくれたようで、
「記憶喪失、か。まあ、覚えていないものはどうしようもないか。警備に被害は出たようだが、そのような事情であるならば君を責めることもできないだろうし。何より君には私を救ってもらった恩もある。焼かれた彼には悪いが、これ以上、君たちをどうこうすることは私にはできない」
そう結論付けた。
「……まあ、最終的にあの人を焼いたのは子犬なんですけどね」
カレンの小さなつぶやきは幸い、聞こえなかったらしかった。あるいは聞こえないふりかもしれないが。
そして、そのつぶやきにはクリアも看過できないものを覚えた。
カレンに顔を寄せて、小声でささやく。
「あれって、ボクの仕業じゃなかったの?」
「初撃は確かに姫様のものでしたが、その後、焼き殺したのは確実に私ですね。元々、寝ているあなたの火球にはさすがにそこまでの殺傷能力はありませんよ。子犬なりの本能で危険を感じて追撃を加えただけのことです」
「……」
同じくささやき声で返してきたカレンに、クリアは白い目を向けた。
クリアがやったばかりと思っていた警備員殺害が子犬のカレンによるもので、サイボーグ桐華レンに初めにちょっかいをかけたのも子犬のカレンによるものだった。
面倒事の半分以上こいつのせいじゃねえかとクリアは思った。
そんな彼女のしらっとした視線にも素知らぬ顔で、おもむろにカレンが席を立つ。
「そういうことですので、私たちはそろそろお暇してよろしいでしょうか。彼女の保護に関しては私に任せていただくということで」
「ああ、構わないとも」
答えると、トーマスはまっすぐな意思の籠った目でクリアを見た。
「――クリアさん、重ねて言わせてもらうが、私の人生そのものを救ってくれた君の行動に対して、この程度のもてなしで報いることができたとは私は全く思っていない。もし何か困ったことがあればいつでも私を頼ってくれ。七大企業の下郎共に対する忠義などよりも君への恩義を私は優先すると誓おう」
「うん。じゃあ、いつか頼るね」
「ああ、任せてくれ」
トーマスは嬉しそうに頬を綻ばせ、クリアは気軽に手を振った。
帰りはこちらとばかりに一体の手が道行を先導し、カレンとクリアはその後に続く。
――そうして、クリアはようやくアイアンガーデンを出た。
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