#9 嗅覚鋭い
「はい、いらっしゃい」
間取りが同じなのか、家に帰ったと錯覚してしまいそうだった。
同じマンションの別の階だから当然だけれど。
玄関から真っ直ぐに廊下が伸び、右側の分厚い扉が配信用の防音室、その奥が寝室、左側の扉のうち手前がトイレ、奥が洗面所と風呂、廊下の突き当たりにある扉の先がリビングキッチン。
閉まった扉だけが見えているこのアングルでは、部屋の違いなんて皆無に等しい。
足元に置いてある靴も似たようなものだし。
唯一の明確な違いは、家の匂いだろうか。
ルームフレグランスを置いているのか、石鹸のような柔らかい匂いがする。
「とりあえず、リビングで寛いでてよ。場所分かる?」
「多分、間取り一緒だろ」
リビングの扉を開けて右側がキッチン、キッチンの奥に備え付けのテーブル、さらにその奥がベランダ。
大きく違うのは左側。
俺たちの家ではこたつが置いてある場所に、巨大なガラスの棚が鎮座していた。
「すっご、これ全部香水?」
「いいでしょ」
甘党の見た目をした辛党、つまり酒好き。
趣味は製菓、特にブランデーやラム酒を使用するもの。
そして、その辺の店よりも大量に並んでいる、大量の香水。
それらのすべてが、アルコールに繋がっている。
「何ここ、店?」
「ただの趣味だよ」
ガワが高校生にも関わらず、酔うという漢字を活動名の中に入れるだけはある。
「
「は?」
濫が示した場所に、確かに俺がいつも使っているチョコの香水が置かれていた。
通販で買って、家から一度もボトルを持ち出したことが無い香水について、なんでコイツが知っているのか。
「え? 俺のストーカー?」
「匂い嗅ぎ分けるの得意なんだよね。
何が怖いって、体臭がハッカ系だとバレていることが怖い。
「それにしても、すごい量だな。実は金持ち?」
「仕事と別で、配信でもお金頂いてるからね。って言っても、
「安定してきたのはここ一、二年の話らしいから、どうだか。俺が生まれた直後とか、金が無くて俺の鉱石売ったことあるらしいし」
メデューサの蛇の抜け殻とか、人魚の鱗とか。
他人の髪や爪や皮膚をありがたがる奴の思考回路は正直なところ分からないし分かりたくも無いけれど、ネットでフリーマーケットなんかにかければそこそこの値段がつくのも事実だった。
「あ、別に俺の腕を切ったとかじゃなくてね? 俺が制御出来ずに鉱石とかをぶっ飛ばしてた時期に、拾い集めたそれをインテリアとして売ってたって話」
「個人事業主だと、有給とか無いから大変だよねぇ」
「そうだったらしいな。俺の生まれる直前に
俺の出生が通常のものであればまだ、準備のしようもあるだろう。
突然昏倒して入院したと思ったら、体内の腫瘍を摘出することになり、その腫瘍は消えたはずの双子の弟で、ひとりの人間としてほんの数日後に出生するなんて、そんな意味不明な話を誰が予測できるのか。
「あ、その二人ってそんな昔から仲いいんだ」
「うん。大学に入る時に家賃高いからって一緒に住み始めて、そっからずっとそのまま。まあ、回線とか防音とか、
「
棚から抜き取られた香水の瓶が、テーブルの上に並べられていく。
他の奴らの正誤なんて分からないけれど、
「み……」
そんな感想を言うと答えになってしまう気がして、ギリギリで飲み込んだ。
「ん、何? 呼んだ?」
「え、俺今、何て言った?」
「みーって言った」
「なら違うって分かるだろ
「ああ僕、本名が
》。水に人が有るって書いて
水に人が有る、氾濫の濫。
なんとなく、芸名の由来が分かったような気がする。
「へえ。いいの、俺なんかに本名教えちゃって」
「いいよ。それに、君はみんなに本名見せたじゃん、
「ああ、そういえば焼肉の時に身分証出したな」
双子の兄、
双子の弟、
兄の幼馴染、
俺の世界の中に住んでいた生身の人間はそれくらいで、そこに目の前のコイツが加わろうとしている。
にへら。
笑い方に擬音をつけるなら、きっとその辺りが似合うだろう。
「なんで嬉しそうなの? てか俺は知っても本名で呼ばないからな」
「えー」
「裏表で呼び方も口調も変えてねえんだよ。事故ったら怖いし」
「まあ僕も割とそうだけどね。ドッキリとかされやすいのがネックじゃない?」
「あー、ドッキリ? ……
「たしかに、そっか! いいね、安心」
テーブルの上で、濫のスマホが立て続けに揺れた。
「あ、ちょっとごめんね」
「ん」
カラオケコラボやその後の焼肉でもちらりと思ったけれど、コイツの所作はどこか洗練されている。
「連絡じゃないや、
「知り合いの投稿に通知つけてんの?」
「うん、すぐ流れちゃうからね。レモンがスタジオに来たから、今から三人でお昼だって」
「はぁ?」
自分のスマホからSNSを開いて、
抹茶のフィナンシェは、甘さが控えめで美味しいからと
リサーチまで完璧、気の利く奴なんだろうと思う。
「最近、レモンとネラは不仲がどうこうって言われ始めてたからね。ケアにちょうどいいと思ったのかな」
「特に中高生くらいのファン、なんか仲良しごっこを前提にするよな。個人事業主のことをどう思ってんだか。表に出てるものがすべてな訳無いし、演者同士が全員仲良い訳も無いだろ」
「まあまあ、まだ子どもだから。せいぜい十四、五歳くらいの子だよ?」
「仮に十四歳だったら、俺より十歳以上歳上だけど?」
「そういえばそうだった」
反応を間違えたか、なんて肝を冷やしている中で、濫の声色に滲む揶揄に救われている。
「
「いや俺、バニシングツインだし……出所が親なら
何しろ通常の出生工程とは程遠いから、俺の親は存在しない。
体内から取り出されたという点もしくは実際の扶養関係で考えるのなら、俺の親は
ついでに、
俺が生まれるよりも前、
まあ、芸能界は傾奇者の集まる場所だとも言われるから。
「……何」
伸ばされた濫の手は、俺の頭を軽く叩いた。
「頭撫でてる」
語尾に笑い声が混ざった言い方は配信の時と同じで、誰と話しているのかを再度認識させられる。
撫でる意味は全く分からないけれど。
「そうだ、ウチでおひる食べてかない? ひとりぶんも二人分もそう手間変わんないし、手料理平気なら適当に作るよ」
「じゃあ、頼むわ」
いつも、齟齬が無いように話の内容や食べたものを全部共有されている。
俺はしばらく休むから、今回の会食について俺が配信で話すことは無いだろうに。
デザートに
地味に、デザートの麻雀豆腐でオチまでついている。
「あいつら、お昼にどこ行ったんだろう」
「ラーメン屋っぽい」
「じゃあ、僕たちも中華にしよっか」
「ん」
そんな訳はないのに、ふと。
今この場で濫に悪意があったら、俺をどうにでも出来るだろうなんて考えてしまう自分自身が疎ましかった。
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