第2話 異世界への異動はお断りします②

 刑事課の警察官という立場上、仕事の話は飲み会ではできない。

 仕事=事件なわけだから、当然と言えば当然だし、仕方がないことだ。


 刑事課のみならず、他の課でも同じ。どんな案件であれ捜査内容は外部に漏らせない。

 これは捜査遂行の邪魔にならないようにするだけではなく、被害者および被疑者、そして情報提供者の名誉を害することのないように、そして彼らの――特に被害者や情報提供者の安全を確保するためでもある。


 そのせいなのか、こういう席で上りやすいのは、仕事の愚痴か芸能ネタだ。

 もちろん、仕事の愚痴も「本部長が~」などと役職名を言うことはできない。だから「社長」「オヤジ」などと隠語を使用するのだ。


「そういえば、知ってます? 戌川直樹いぬかわなおきがまた不倫してたらしいですよ!」


「…………っ!」


 私は思わず、飲んでいた梅酒のソーダ割りを吹き出しそうになった。

 しかし、それをなんとか堪えて今井ちゃんのほうへ振り返る。知らないフリをしつつ、平静を装っているが……右頬が引きつっている気がする。


「そ、そうなの? 確か二年前に奥さんと別れたんだっけ?」


「そうですよ! デビューを支えた奥さんを捨ててるんです! 彼を専業主夫にするために奥さんがんばって出世したらしいのに! 最低のクズですよ!」


(……そのがんばった奥さん、実は私で~す)


 なんて、言えるはずもないのだが。


 私はバツイチだ。


 元夫は佐々木尚巳といい、「戌川直樹」のペンネームで作家として活躍している。

 ここ数年で人気が上昇し、近く作品の映画化も決まっていた。


 テレビ番組にもコメンテーターなどの形で出演しているので、顔を知っている者も多いし、意外に顔も整っているのでファンも多い。反面、女性との浮名も多くアンチも多いというのが、元夫である尚巳だった。


 私たちは尚巳が主夫、私が一家の大黒柱という形で家族を形成していた。

 これは『主夫になって時間を作り、小説を書きたい』という尚巳の希望を私が受け入れたからである。

 尚巳が作家を目指していることを周囲には秘密にしていたため、この事実を知る者は、身内以外では私たちの友人くらいだ。


 しかし二年前に夫・尚巳の不倫が発覚。

 仕事で忙しかったせいもあってか、八年越しの大恋愛を担当編集者と繰り広げているなんて、私はまったく気づいていなかった。


 そのため、私が持参している浮気の証拠品は一切なかった。

 だが尚巳が有名人だったおかげで、証拠はさまざまなゴシップ雑誌が取り上げてくれており、改めて集める必要がなかったのは不幸中の幸いだろうか。


 そして互いの弁護士を挟んだ協議離婚の場で、不倫相手である坂本朋香と一緒になりたい、おまえとは別れたいと言われたので素直に別れた。

 子供たちもすでに手を離れ、その子供たちから「そんなクズとは秒で別れろ」と言われたのもある。


 でも一番の理由は、私が今回の一件で尚巳に心底幻滅したからだ。


 デビューできたことを感謝しろとは言わない。

 だが、尚巳がデビューするまで支えたという自負が、私にはある。


 そしてデビューする少し前くらいから、執筆を理由にして主夫業をおろそかにしはじめ、家事はほとんど私が行っていた。

 そのせいで激務の合間に自宅へ帰り、子供たちの夕食の準備や洗濯などの雑務をこなし、過労で倒れたこともある。


 そういった事情を無視して、「もうおまえを愛していない。仕事ができ過ぎるし、性格も強すぎて女とは思えない」と平然と言い放つ自己中アホ男に、泣いてすがって「やり直しましょう」と言うほど、私は弱い女ではなかった。

 むしろ担当弁護士に対し、「このクズ、殴り殺していいですか?」なんて言いそうになったくらいだ。


 協議離婚ではあったが、互いに弁護士を入れたこともあり、尚巳と坂本から弁護士を通じてウン百万レベルの慰謝料をもらった。


 もっとも揉めたのは財産分与だ。

 なにせ相手は有名作家。印税収入もかなり多い。

 作品を作り出したのは尚巳であり、その権利はすべて自分のものだと主張する元夫の弁護士に対し、その作品を創作できたのは妻である私のおかげだと、私の弁護士も主張する。


 結果としては、うしろめたい部分がある尚巳のほうが負けた。

 印税分の半分ではないが、ある一定額を現金で私に支払うこと、さらに私名義で購入した自宅および家財道具のすべてを放棄することを条件として呑むことで終了した。

 もちろん、校正証書を発行してもらうことも忘れなかったけれど。


 未だローンが残ってはいるが、自宅は私がそのまま所有することとなったので、ホッとした。

 あの家には、まだ裕喜と真琴の私物がたくさん残っている。

 大事な子供たちとの思い出の品を、あんなクズ男に奪われるのは嫌だった。


「相手は笹川アイリとかいう元モデルらしいですよ。なんか三年前から続いていたらしいです」


 スマホ画面を見ながら藤堂くんが教えてくれた。

 三年前……――


(私と別れる前じゃねぇか、あのクズ男!)


 思わず手に持っていたグラスを握りしめてしまい、薄くヒビが入った。

 知らないところで重ねて騙されていたことに腹は立つが、すでに縁は切っているので無視をすることに決めた。


 ふと同じ画面を覗き込んでいた田井くんが、「そういえば……」とハイボールを飲みつつ語り出す。


「北区へ配転になった同期が変なこと言ってたな。戌川直樹の書籍を購入して、すぐに返品する嫌がらせが相次いでいるから、なんとかしてくれとか……なんとか?」


「あ、それ、俺も聞いた。確か西区と中央区でも同様の苦情が増えてるってな」


「僕は違う市の所轄で聞いた」


「あ、私も聞いたよ」


 安浦くんも思い出したように田井くんを指さし、数回頷いてみせると、今井ちゃんや藤堂くんまでもが同意し始めた。

 どうやら話をまとめると、H県内に配置された四十以上ある警察署で同様の苦情が増えているらしい。

 私は意味がわからず、首を傾げる。


「なにそれ? でも、購入した本を返すのは問題ないでしょう?」


「そうッスね。万引きした商品ではないので、署としても扱えないらしいです。書店が返品されるのを嫌だというだけですからね」


「ただ、あまりに返品回数が多いと、営業妨害にはなると思います」


 安浦くんが言うと、今井ちゃんは彼に同意しながらも、内容の悪質な部分を指摘した。


「確かにそうだけど……事件性がないことにはね。それが盗品ならともかく、他人へ押し売りとかでもないんじゃあ警察は動けないわ」


「仮にそうなったとしたら、テレビが出てきて大騒ぎになりますよ。なんたって戌川は有名人ですし」


 すでに別れた夫の話なんて、どうでもいいわ。

 むしろ可哀想なのは、二股をかけられていた坂本朋香のほうか。

 確か二人は、私と別れてからすぐに籍を入れたはず。

 でも私と別れる前から他の愛人がいたわけだから、怒り心頭なのは彼女のはずだ。


(――えっ……?)


 ふいに、背筋が凍った。

 ゾクゾクゾクッ――と、背中を駆け上がるような悪寒が私の背中を支配する。そしてそのまま、嫌な予感として張り付いた。

 なんだろう。気持ち悪い。


 ちょうどそのとき、スマホのSNSから連絡が入った。サイレントモードにしていたのでブブブッと振動してスマホが止まる。


(……悪寒の原因はコレか)


 スマホを確認したとたん心が暗くなる。相手は元夫だった。しかも《話がある。自宅で待っている》とか、トンチキなことを書いている。


 無視をすべきか迷う。いや、全力で無視したい。

 なぜなら相手を確認したとたん、嫌な予感が確実に悪いほうへと強くなった気がしたからだ。


 しかし自宅を知られている以上、無視ができないのも事実だった。

 来るなと言っても、自分勝手な元夫は勝手に来る。


「ごめん。急用ができたみたい」


 私はスマホをバッグへ入れてから、財布から抜き取った三万円をテーブルに置いた。今井ちゃんが「え~!」と不満そうな声を上げる。

 この埋め合わせは必ずするからと約束し、私は居酒屋を出た。


To be continued ……

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

●○●お礼・お願い●○●


最新話まで読んでいただきまして、ありがとうございました。


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