第二十話 終わりの在り処

 事件から一週間の時間が過ぎた。十七歳の少年及び、同校の教師・新井雅敏あらいまさとしによる凶行は瞬く間に世間の耳目を集め、方々から様々な議論を呼んだ。


 幕原隆二は取り調べにおいて何一つ隠すことなく、あらいざらい全てを白状した。聞いたところによれば、幕原隆二はそれをまるで自慢話でもするかのように実に楽しそうに語ったという。そのあまりの異常性に、取り調べに立ち会った警官の一人が気分を悪くして席を外したという話まであるようだった。


 この事件の始まりは六年前の八月に小学校で起きたバラバラ遺体の事件にまで遡る。当時小学五年生だった幕原隆二はバラバラ遺体の第一発見者の一人だった。事件後に実施されたメンタルケアでは、異常なしとして誰よりも早く治療の対象から外れた幕原隆二だったが、実は花壇に植えられた死体を見て途轍もない興奮を覚えていたという。


 その興奮をずっと忘れられないまま中学校に上がった幕原隆二は、ついに自らその欲求を満たそうと決意する。同じ学校に通っていた生徒の中から孤立して存在感の薄かった瀬戸瑠海に声をかけ、徐々に信頼を勝ち取っていった。そして小学校の事件から約三年と四カ月後、幕原隆二は冬休み直前に山の中へ瀬戸瑠海を呼び出すと、そこで凶行に及んだ。


 だが、幕原隆二の欲求はそれだけでは満たされなかった。自らの手であの時の興奮を再現できることに気づいてしまった幕原隆二は高校生になり、偶然にも新井先生が不倫しているという証拠を掴むと、恐ろしい計画を立て始めた。


 幕原隆二は最初に新井先生を不倫の証拠で脅し、NPO法人IKOIへと潜入させた。そしてDXを進めるという大義名分でIKOIの社内システムを構築させ、その際システムに電子カルテへのバックドアを仕込ませた。つまり、新井先生は市内の学校に通う生徒たちの中で家庭環境が著しく悪い生徒の斡旋をさせられていたのだ。


 そしてそのシステムの最初の被害者になったのが西高に通う寺嶋満月だった。幕原隆二は新井雅敏から彼女の存在を知らされると、自身が生来持っている魅力を活かして西高の生徒にアプローチし、その中からとりわけ手駒に取れそうな人間を選んだ。それがあの辻華凛だ。幕原隆二は彼女を利用して寺嶋満月へのいじめを発生させ、徹底的に寺嶋満月が孤立するように仕向けた。そして去年の十二月の冬休み前日。幕原隆二は新井先生に寺嶋満月を誘拐させ、再び犯行に及んだ。


 だが、それでもまだ犯行が終わるわけではなかった。次に標的となった五十沢幽はIKOIのカウンセラーに相談こそしていなかったものの、幕原隆二にとってはこの上なく都合のいい存在だった。もともと石本みなみらからいじめを受けていた五十沢幽は、幕原隆二が手を下すまでもなく周囲との関係が希薄だったし、家庭環境がこの上なく劣悪であることは彼女の家を特定してしまえばすぐに分かることだった。


「大森さん?」


 私は名前を呼ばれ、ふと自分が物思いに耽っていたことに気がついた。視線を上げると、そこにはIKOIのカウンセラーである稲垣先生がいた。


「大丈夫? 随分と疲れているように見えるけど……」


 彼女は心配そうに私にそう問いかけた。


 確かに私は疲れてしまっている。連日警察に事情聴取をされ、家や学校にはモラルの欠片もない報道陣が詰めかけるようになった。幾度となく投げかけられる似たような質問の数々に、私は精神をすり減らしていた。


 私は稲垣先生への返事を返すことができぬままに再び俯いた。それを見た彼女が同情的な小さなため息を漏らす。


「疲れるのも当然よね……。あまりにもいろんなことがありすぎて、きっとまだ整理がついていないんだと思うわ」


 稲垣先生はそんな労いの言葉を選んだが、私は自らが置かれている状況についてはよく理解しているつもりだった。疲れてはいても、頭の中は以外にも整然としている。ただ一つの大きな問題を除いては――だが。


「今日はもう終わりにしましょう。家まで送っていくわ。モラルのないマスゴミなんか、私が追い払ってあげる」


 彼女はそう言って威勢よく胸の前で両の拳を握った。しかしそんな風に励ましてくれる彼女もまた、世間からの非難を浴びる立場の一人だった。


 寺嶋満月の事件はもとを糺せばIKOIの電子カルテ流出がきっかけとなっていた。当然、IKOIの理事である彼女も責任を問われていくことになるだろう。また、市から業務委託を受けておきながらこのような失態を演じたことは、IKOIの存続自体をも脅かしていた。


 さらによくないことに、今日の報道でIKOIが六年前の事件で小学生たちにメンタルケアを施すために集まったカウンセラーで立ち上げた組織であることが世間に知れ渡った。今後、メンタルケアの際になぜ幕原隆二の異常性に気づけなかったのかという批判が噴出することは必至だろう。稲垣先生がIKOIの立ち上げメンバーではないということだけが、せめてもの救いだった。


「病院に……」


 私は蚊の鳴くような声で稲垣先生にそう言った。彼女はそれを聞き逃さずに「わかったわ」と一言答えると、私の手を引いて部屋を出た。




 幕原隆二が真犯人だったことは確かに驚くべきことではあったが、後になって考えてみると思い当たる節がないわけでもなかった。


 五十沢幽が襲われたあの日、幕原隆二は女子とのカラオケを断っておきながらなぜか新星の誕生会には参加しようと言い出していた。それはおそらく、いつもとは違う行動を取る五十沢幽を監視する目的があったからに違いなかった。


 また、幕原隆二はあの誕生会の中で親に連絡すると言って一度席を立っていたが、実のところ幕原隆二は一人暮らしをしていたということが後になって判明している。今思えば、ショッピングモールで辻華凛にからまれた際、親の許可もなく幕原隆二の家に泊まれたと言っていたのも、彼が一人暮らしをしていることをそれとなく示唆するものだった。


 では、なぜ幕原隆二は親に連絡をしようとしたのかという話になるが、その答えは至極簡単だ。幕原隆二は親に連絡をしていたわけではない。協力者である新井先生に連絡をとろうとしていたのだ。


 そして何より、一連の事件には全て幕原隆二と同じ年齢の人間が関わっていた。五十沢幽と寺嶋満月が幕原隆二とと同い年なのは言わずもがなだが、瀬戸瑠海も当時の年齢で考えれば幕原隆二と同い年になる。そして六年前のバラバラ遺体事件の第一発見者は小学四年生であり、当時の幕原隆二の年齢を数えるとやはり小学四年生ということになった。


 つまり一連の事件に関わった人間の年齢は、ある年に生まれた人間の成長と見事に合致していたのだ。犯人は大人だろうという先入観が、同級生の中に怪物が潜んでいる可能性を完全に視野の外へと押しやってしまっていた。


 他にも、現場検証の時に森の中で見つけたカメラを固定するための器具には、しっかりと幕原隆二の指紋が付着していたのが警察によって確認されていた。供述によれば、不倫の証拠だけでは新井先生を御し切れないタイミングが来るだろうと考えていた幕原隆二は、新たな脅しの材料として新井先生が五十沢幽を誘拐する現場を映像として残そうと試み、森の中や電柱などに暗視カメラを設置していたらしい。


 だが、実際にそれで録ることができた映像は見切れていたり乱れていたりで到底脅しの材料にはならなかった。しかしそのために、幕原隆二はさらに恐ろしい一石二鳥の策をひらめいてしまう。それが、新井先生と彼を現場でエンカウントさせるという方法だったのだ。




「五十沢さん、ついたわよ」


 稲垣先生が病院の駐車場に車を停め、助手席に座る私に声をかけた。私はその一言に、また自身が上の空になっていたことに気づかされる。


 病院の入り口付近にも数人の報道関係者が待機していた。彼らは私を見つけるなりずかずかとこちらに歩み寄ってきたが、稲垣先生はそれらから私を守ってくれた。流石の彼らも病院の中までついて来ることはできないので、必死にそれを妨害しようと試みる。しかしついぞそれも叶わないことを知ると、その中の一人がこちらに聞こえるほどの大きな舌打ちをした。


「まったく。あぁいうのがいるからマスゴミって言われるのよね」


 稲垣先生が珍しく苛立ちの感情を露にしていた。しかし彼女は病院の中に入るとすぐにいつもの穏やかな表情に戻って口吻を和らげる。


「大森さん。申し訳ないんだけど、私はこの後ちょっと用事があるから先に帰らせてもらうわね」

「あ、はい。ありがとうございました」


 お礼の言葉とともに私は深々と頭を下げた。


「いいのいいの! それよりも、早く彼のところに行ってあげなさい」


 稲垣先生がそう言って私に微笑んだので、私は再度軽くお辞儀をしてから踵を返した。病院独特の薬品の匂いが立ち込める廊下を進み、エレベーターで五階へと上がると、降りたところのすぐ近くにある受付で面会に来たことを伝える。もう五日間も連続で通っている病院なので、病室の場所は案内されなくてもよく分かっていたし、受付の人も最早そんな野暮なことをしようとはしなくなっていた。


 しかし病室に向かう途中で、私は思いがけない人物にばったりと出くわしてしまった。


「あ、沙夜ちゃーん。久しぶりぃー」


 長袖のジャケットに黒いズボンという以前より落ち着いたその身なりは、しかしそれでもその男の下劣さを隠すことはできていないようだった。


「あ、覚えてないかなぁ? ほら、フリーのジャーナリストをやってる岩尾力也だよー」


 なぜこの男がここにいるのか。私は強い敵愾心を持って彼を睨みつけた。しかし、岩尾はその程度のことで身を引くような男ではない。私に近寄ってきて、馴れ馴れしく肩に手を回すと、臭い息をまき散らしながら私に頼み事を始めた。


「なぁ、一時は情報提供者として協力し合った仲だろ? ちょぉーっとばかしお話を聞かせてくれるくらい、別に構わないんじゃねぇか? な?」


 虫唾が走った。あの時散々私たちを見下してふんぞり返っていた男が、今は下手に出て揉み手をしている。私はこの男にはモラルもプライドも何一つないのだと改めて理解させられた。


「おい、君。すぐにその子から手を放すんだ」


 その時、後ろから唐突に男性の声が飛んできた。岩尾は「あん?」と不機嫌そうに振り返り、直後その身を引いて飛びのいた。見ると岩尾の表情はこれでもかというほどに引きつっていた。


「アンタは――」

「また腕を捻られたくなかったら、さっさとここから立ち去るんだな」


 岩尾はその男の言葉を受けて怯えるように逃げ去った。その姿は、岩尾がどこまでいっても小物にすぎないことを見事に体現しているかのようだった。


「大丈夫だったかい? 大森君」


 私は隣に並んだコートの男を見て、「ありがとうございます」と頭を下げた。


 コートの男の名は江藤盛貴えとうもりたか。あの日私たちを救ってくれた命の恩人で、市の小さな事務所で細々と探偵業を営んでいる人物だ。もともとは刑事だったらしく、当時は署内でもそれなりに名の通った人物だったらしい。


「あぁ、そんなに畏まらなくてもいいんだよ、大森君。あぁいう下らないことをする輩はいつの時代も一定数いるものだしね。それより、脚の方はもう大丈夫なのかい?」

「えぇと……まだ痛みはありますけど、一応は」


 私の脚にできた裂傷は幸いにも神経を損傷させるようなものではなく、消毒してから縫合し、そこに包帯を巻くという比較的簡素な治療で事足りていた。


「そうか、ならよかった。ところで今日は彼のお見舞いかい? 私も一緒に行っても構わないかな?」


 私はその申し出に頷きで答えると、江藤さんと並んで廊下を歩いた。病室の前に着くと、儀礼的にノックを二度してから中に入る。窓から見える秋の夕日が、病室の無機質な白を綺麗なオレンジ色に染め上げていた。


 奥に進むと、そこには呼吸器をつけたまま眠り続ける彼の姿があった。医者の説明によれば、あの日彼の背中に刺さったナイフは肺に届いており、傷から漏れた空気で胸腔が圧迫される開放性気胸を生じていたとのことだった。また、十分な酸素を体に供給することができない状態が続いたため、脳が何らかの損傷を受けている可能性もあるとの説明も受けており、現に彼は未だに目を覚ましていなかった。


 私は部屋の隅に重ねてある丸椅子を二つ持ってきて、それをベッドの横に並べた。私はその片方に座ると、何も言わずに彼の手を自らの両手で包みこむ。江藤さんはそんな私を隣の席に座ってただ静かに眺めていた。しばらくの間、夕日の色だけが変化する時間が流れた。


「君たちに、謝りたいと思っていたんだ」


 江藤さんが静かに、しかし力強い言葉で沈黙を破った。私は一度彼の手を離して、江藤さんの方に向き直る。


「どうしてですか……? 江藤さんは何も悪くないのに」


 私は全く純粋な気持ちからその疑問を発していた。しかし江藤さんは膝の前で手を組み、あくまで真剣な面持ちで先を続ける。


「私がもっと早く到着していたら、久々利君はこんなことにはなっていなかったはずだ」


 その発言に、私は江藤さんが根っからの警官気質であることを感じ取った。優しくて、それゆえに自らの責任の範囲を拡大してしまうタイプの人なのだろう。


 だが、江藤さんの言う「もっと早く到着していたら」という想定は、「もっと遅く到着していたら」という想定をするのと質的にはほとんど変わりがなかった。そして後者の想定であれば、間違いなく私たちは二人とも殺されていたことになる。それを回避できただけでも私は江藤さんには感謝しなければいけなかった。


「それは……やっぱり江藤さんのせいじゃないです」


 そもそもの話、江藤さんがあの場所に現れたこと自体が偶然――いや、奇跡とも呼ぶべきことだった。


 実は、江藤さんは幕原隆二が起こした事件のいずれについても調査をしていたわけではなかったのだ。江藤さんはもともと新井雅敏の妻からの依頼で不倫調査をしていただけであり、調査のために東高付近に行くことが多くなったところを、東高の生徒たちが不審者が出るようになったと噂するようになったらしかった。


 そして事件があったあの日、江藤さんは学校から自車を使わずに徒歩で出てきた新井先生を不審に思い、新井先生を尾行したのだそうだ。その後、新井先生がレンタカーを借りたのを見ていよいよこれはと思い、彼が行きそうな場所を片っ端からあたっていったという。


 しかしどこへ行っても新井先生の借りたワゴン車を発見することができず、途方に暮れていた江藤さんは、ふと数日前に新井先生が海岸沿いの放棄された倉庫群を訪れていたことを思い出したのだそうだ。


 その時は何のために新井先生がそんな場所を訪れたのかは全くわからなかったということだったが、心当たりがある場所も他になく、江藤さんがダメもとでそこに向かったところ、あの事件に出くわすことになった――と、大体そんな経緯だった。


 そのため、私が助かったのは本当に奇跡としか形容できないことだった。江藤さんがそれについて気負う必要など全くない。しかし、江藤さんはそれでもなお険しい表情を保ったままだった。


「いや、実は私が謝らなければいけない理由は他にもあるんだ」


 私は思いもしなかったその切り返しに驚くと同時に、江藤さんが組んでいる逞しい手の血管が先程よりもさらに強く浮き出ているのを見て取った。


「大森君は今回の事件の首謀者である幕原少年が六年前の事件に大きく影響を受けていたという話はもう聞いているだろうか?」

「はい、知ってますけど……?」

「では、その事件の犯人が被害者の母親で、クスリをやっていたというのは?」


 これについても私は「知っています」と首肯した。私は急な話題の振れ幅に困惑しながら、先の見えない江藤さんの話に耳を傾ける。


 江藤さんは「じゃぁ話が早いな」と一言呟き、それから一度深呼吸をすると、昔のことを思い出すような、それでいてその記憶が良いものではないことを察せられるような、そんな微妙な表情を浮かべながら口を開いた。


「今からもう九年も昔の話になるな。まだ私が警察の刑事デカをやっていた頃の話だが――私のいた課は総出でクスリの密売組織を追っていたんだ。あの頃は私もまだ若かったからな、でかいヤマを前に手柄を挙げようと躍起になって捜査を進めていたよ」


 江藤さんはベッドの方を向いたまま、まるで遠くを見据えるような目をしていた。しかしその目の奥には、夕焼けの色すら飲み込んでしまいそうな暗い闇が潜んでいる。そのことを、私は直感的に感じ取ってしまった。


「しかし摘発まであと一歩というところまできて、その捜査に突然上からストップがかかってしまったんだ」


 江藤さんの声は震えていた。それは怒りのようであり、悲しみのようでもあり、あるいは失望でもあるかのような、整理のつかない複雑な感情を全て含んだ震えのように思われた。


「当然私は納得がいかなくて上に抗議したよ。それはもう進退なんか忘れてね。でも上は『お前ごときが口を出す問題じゃない』という一点張りで、全く取り合ってはくれなかったんだ」


 江藤さんの口調は震えを押し殺すかのようにどんどんと堅く、重々しくなっていた。その気迫は、私が少し畏怖を感じてしまうほどに凄まじい。


 しかし、そんな風になっていくのを江藤さんは自身で気づいたらしく、急にはっと我に返ると、次には元通りの声音に自嘲の色を加えて語りだした。


「結局全てを有耶無耶にされた私はもう警察をやっているのが嫌になってしまってね、それで処分を下される前に自ら辞表を提出し、探偵なんていう胡散臭い職業に身をやつしたというわけなんだ」


 江藤さんはそう言ってその顔に苦笑を浮かべていた。だがそれも次の瞬間には、苦々しい何かを思い出す渋面へと塗り替えられてしまう。


「今となっては本当に馬鹿なことをしてしまったと後悔している。あれから二年の後、摘発しようとしていた密売組織からクスリを購入した母親が自らの子どもを殺めたと知ることになるなど、あの時の私は想像すらしていなかったんだ」

「えっ……」


 私はその衝撃の事実に、驚きのあまり声を漏らした。幕原隆二の供述では事件の発端は六年前のバラバラ遺体事件であるということだったのに、実はその奥にはさらにその事件を引き起こすきっかけが存在していたというのだ。


 江藤さんは驚く私の反応を横目で捉えつつ、再度視線をベッドの方へと向け直すと、告白を続ける。


「後悔したよ。あの時私が自分の信念を貫き通すことができていたら――そんなことをもう何度考えたかわからない」


 似ている――。咄嗟に〝私〟はそう思った。


 無意味なたらればを考えてしまう夜を、あの時足を止めてさえいなければと考えてしまう夜を、〝私〟はもう幾度経験したかわからない。それがどれだけ意味のない非生産的な思考かわかっていても、その呪縛からは逃れられないのだ。


「当然、警察はあの事件でクスリの密売組織を摘発せざるを得なくなったし、子殺しの母親も然るべき手順で然るべき裁きを受けた。それですべての事件は終わった――私はそう思っていた。いや、そう思いたかったんだ」


 毒を吐き出すかのように苦し気にその言葉を言い切った江藤さんは、外から見てもわかるほどに首筋に力を込め、歯を食いしばっていた。私はその時江藤さんが言わんとしていることがやっと理解でき、その苦悩に思わず目を伏せる。


 事件は終わってなどいなかった。寧ろ、それは最悪の形で幕原隆二に受け継がれてしまった。


「今回の事件を受けて私は思い知ったよ。事件というのは、それが地球上に住む全ての人にとって他人事になっとき、初めて終わりを迎えるものなんだとね」


 そうなのかもしれない。一度起きてしまった事件というのはどういう形であれ、何かしらの禍根を長きにわたって残し続けるのだろう。ある人間が誰かによって殺されるというのは、きっと慢性的な病巣をこの世界に生みつけることを意味するのだ。


 そしてそう考えた時、〝私〟は途轍もない息苦しさを覚えずにはいられなかった。それは〝私〟にとって、あまりにも身に覚えのあることでしかなかった。


「おっと、すまない。時間が来てしまったようだ。この話はまた後日然るべき場を設けてと思っている。できればその時は久々利君も交えてね。では、私はこの辺で失礼するとしよう。彼の一日も早い回復を、心から願っている」


 そう言うと江藤さんは席を立ち、自分が座っていた椅子を部屋の隅へと片付けた。私も立ち上がって軽くお辞儀をし、江藤さんが病室を出ていくのを見送ることにする。江藤さんは最後に「彼によろしく伝えておいてくれ」と一言残してから、病室をあとにした。


 こうして私はまた一人になった。私はベッドの横に一つだけ残された椅子へと戻ると、再び彼の手を取って祈るように目を閉じる。


 あの時、私は確かに「死なないで」と願っていた。それは間違いようのない事実だ。しかし、死なないだけの状態になることを望んだわけはない。今、「目を覚まして」と願うのは我儘わがままなのだろうか。もしそうだとしても、私はそう願わずにはいられなかった。


 そして眠り続ける彼を見ていると〝私〟は否が応にも考えさせられてしまう。なぜよりによって彼なのだろうかと。この不幸を背負うべきは〝私〟なのではないかと。もしこの世に神というものが本当に存在するのなら、これはあまりにも不公平だと訴えたかった。神に〝私〟にこそ罰が必要なのだと詰め寄りたかった。


 恐らく幕原隆二は法廷で裁かれ、罰を受けることになる。事件は家庭裁判所を通して逆送され、検察によって起訴される流れとなるはずだ。だが、現在十七歳の少年である幕原隆二は改正少年法が定める特定少年の対象からもギリギリ外れているため、同法の五十一条に則って死刑になることはない。世間はそのことを取り上げて「いくら少年とはいえこんな凶悪な犯行に及んだ殺人犯に死刑判決が出せないのはおかしい」と騒ぎ立てていた。


 しかし、そんな幕原隆二を見ていて私は思う。〝私〟もまた、幕原隆二と等しく裁きを下されなければならない立場にあるのではないだろうかと。


 〝私〟は今までありとあらゆる方法で転生先の〝体〟を死に追いやってきた。つまりそれは、〝私〟が幕原隆二にも引けを取らない連続殺人を犯してしまったということを意味している。そしてことに罪深いのは、その動機が「自分のため」以外の何物でもなかったことだった。


 〝私〟は幕原隆二と同罪だ。そう確信してしまうからこそ、〝私〟には彼が必要だった。唯一〝私〟を認識して、唯一〝私〟をこの世に存在せしめてくる彼でなければ、〝私〟の罪を咎めてくれる人は他にいなかった。


 いくら謝っても許されることではないだろう。〝私〟は人を殺すということがどういうことなのかを微塵も考えていなかったのだ。大事な存在を失う辛さと怖さを、〝私〟は今の今まで知らずに生きてきてしまっていた。


 〝私〟はこれまで、ずっと自分が世界で一番不幸なのだと信じてきた。意味の分からない運命に弄ばれ、死にたくても死ぬことができないという呪いを背負った〝私〟以上に不幸な人間などいるわけがないと思っていた。そして、今でもその考えは正しいと思っている。


 しかし、それはあくまで〝私〟が不幸になる道を選び続けてきた結果に過ぎなかった。たとえこの転生という現象が起こるのが後にも先にも〝私〟一人だったとして、世界で一番不幸な存在にならない道は他にいくらでも用意されていた。〝私〟は自ら光に背を向けて囚われ続ける羽虫に成り下がっていたのだ。


 目を覚ましてほしい。


 彼にとっての〝私〟がたとえ一時の協力者に過ぎないのだとしても、この先友達としてさえ見てもらえないのだとしても、それでよかった。それが彼の〝私〟に対する判決なのだと受け入れられた。ただ彼がいつもの日常に戻ってくれさえすれば、それ以上〝私〟は望まない。だからせめて、目を覚ましてほしかった。


 彼の手を包む私の手に力がこもった。既に夕日は落ち、部屋は夜の闇に飲まれている。しかし、巡回の看護師が来るまでこの病室に明かりが灯ることはなかった。


 ポケットに入っていたスマホが振動する。それは家に帰らなければならない時間を私に知らせる唯一の手段だった。私は閉じ続けていた目を開け、握っていた彼の手を離して立ち上がり、椅子を部屋の隅へと戻した。そして最後にもう一度ベッドの隣に立っていつもの言葉を彼に投げかける。


「じゃぁ、また明日ね」


 無言の時間が続いた後でも私は最後にその言葉を忘れない。それはかつて彼が五十沢幽に投げかけ続けていた言葉とよく似たものだった。


 私は数秒の間彼の顔を見つめ、それからやっと病室を出ていくべく踵を返す。


 その時、背後で微かな衣擦れの音がした。私は驚愕して振り返り、彼の姿を凝視する。そして、彼の指が小さく動いたのを認めると、ベッドにしがみついて彼の顔を覗き込み、必死に声を張り上げた。


「新星!?」


 私の声に、彼はゆっくりと瞼を開けた。そして私と目を合わせると、数秒の時間をかけてから呼吸器越しに掠れた声を発する。


「沙……夜……?」


 私の目から涙が溢れた。今まで私の内に溜まっていた不安が、一気に安堵の気持ちへと変化して込み上げてくる。私はその勢いを抑えることができず、ここが病院であることも忘れ、彼の胸に顔をうずめて号泣した。


 泣き続ける私の中で、徐々に安堵以外の感情が湧き始めていた。彼が目覚めたことを嬉しいと思う気持ちと、あの時助けに来てくれたことへの感謝の気持ち。彼をこんな目に遭わせてしまったことについての謝意に、長い間私を不安にさせ続けたことに対するちょっとした怒り。目まぐるしい感情の渦に私は翻弄されていた。


 そしてそんな中にふと浮かび上がったとある気持ちに〝私〟は気づいてしまった。それは〝私〟が五十沢幽に転生してから始まった素朴な感情で、大森沙夜になってもなお〝私〟の中で秘かに育まれ続けていた感情だ。


 私が作った弁当を「うまい」と言って食べてくれたことが嬉しかった。彼と一緒に出掛ける時はどこか気持ちが浮ついていた。付き合っていると誤解された時に見せた彼の反応が、五十沢幽だった時と違うのが悔しかった。それらは全て、ある一つの感情に起因していた。

 


〝私〟は久々利新星のことが好きだ――。



 許されない感情だとはわかっている。彼の隣から五十沢幽を奪っておきながら、その席に代わりに〝私〟が座るなどあってはならないことだった。それでも〝私〟はこの気持ちに気づいてしまった。もうその気持ちを知らなかった時の〝私〟には戻れない。


 だからこれは失恋だ。その気持ちに気づいた瞬間に終わりを迎える儚すぎる恋。そのやりきれない切なさに、私は声をあげて泣いていた。


 そんな私の頭の上に、彼は何も言わずに手を置いた。優しく触れるその手から伝わってくる温もりは、かつて制服越しに感じたあの感触にどこか似通っているような感じがした。

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