第十七話 急転直下

 放課後、私は保健室で二人の先生に仕方なく家庭の事情を説明していた。母の耳にこのことが入らないように頼む方法は、もうそれ以外になかったからだ。


 私の話を聞いた新井先生と水野先生は、それでもなお穏便に済ませることに困惑する素振りを見せていたが、私はひたすらに食い下がった。そして三十分ほどの押し問答の末、私はなんとか二人の譲歩を引き出すことに成功した。


「仕方ない……。今回は大森さんの事情を汲んで加害者の三人には私から厳重注意をするだけで済ませるとしよう」


 ため息交じりにそう言う新井先生に、私は「ありがとうございます」と頭を下げた。しかし、先生はすぐに厳格な口調を取り戻すと、「ただし」と前置きをしてこう補足する。


「もし次同じようなことがあったら、その時は今回のようにはいかないからな?」


 新井先生の言う「同じようなこと」が起きるかどうかは私の裁量ではないため、あまり意味のない忠告ではあったが、私はそれに静かに頷いて了解の意を示す。


「大森さん。さっき伝えたように、その左足は軽い捻挫みたいだから、今日は大事をとって新井先生に車で送ってもらったほうがいいわ」

「え?」


 私は水野先生の唐突な提案に困惑の声を漏らした。左足はテーピングこそしてあるものの痛みは大分引いてきており、そこまでする必要があるとも思えない。しかし私の意志はそっちのけで、水野先生は話を先に進める。


「私はバス通勤だから送ってあげれないんだけど、そしたら新井先生が『私が送っていきましょう』っておっしゃってくださって」

「まぁ、そういうことだ」


 自分の都合を押し通した手前、先生方の好意を無下にするわけにもいかず、これは断りようがないなと観念した私は仕方なく二人の提案に従うことにした。新井先生に「鍵を取りに行くから駐車場で待っていなさい」と告げられ、私は普段立ち入ることのない校舎横の駐車場へと向かった。


 駐車場に着くと、私はアスファルトと芝生を区切る縁石の上に腰をかけ、スマホを取り出してメールボックスを開いた。稲垣先生からのメールはまだ届いていない。私は受信ボックスの画面で幾度か更新をかけたが、それで新着メールが増えるわけもなく、私は諦めてスマホをポケットにしまい込んだ。


 そういえばカウンセラーに話を聞きに行っているはずの彼は何か収穫を得たのだろうか。SNSにも新着通知は入っていなかったので、まだその結果は送られてきていないようだが、意識し始めたが最後、私は彼からの連絡も待ち遠しくなってそわそわとしてしまう。


 そうして落ち着きなくSNSとメールボックスを行き来していると、後から足音が聞こえてきたので私は立ち上がって振り返った。予想通り、その足音は車の鍵を握った新井先生がこちらに歩いてくる音だった。


「いやぁ、すまんすまん。ちょっと鍵を探すのに手間取ってしまってな」

「いえ、お気になさらず」


 私はそう言いつつも、同時に「そんなに時間が経っていたかな」とも思った。


 新井先生の後について歩いていくと、新井先生はその長身とはあまりに不釣り合いな小さな軽自動車のドアに鍵を差し込んだので、私はそれに一種の驚きと滑稽さを禁じえなかった。


「ちょっと汚いが、まぁ辛抱してくれ」


 そんなことを言いながら、先生は助手席側に置いてあった荷物を後ろの席へと放り投げた。私は「失礼します」と言いながら空いた助手席へと乗り込み、シートベルトをする。


「家はどのあたりだ?」

「えっと、北団地のあたりに向かってもらえればそこから案内できます」

「北団地だな。わかった」


 先生が車のエンジンをかけると、その振動が体に伝わってくる。私は横目で新井先生のことを捉えながら、どうも妙なことになってしまったなとなんとも形容しがたい感想を抱いた。


 私の家へ向かう道中、新井先生は先生らしく中間試験の話題を持ち出した。私としてはあまり気乗りがしない話題だったが、無言というのも流石に気まずいので適当に話を合わせることにする。しかし意外なことに、先生は特に私の数学の試験の結果がいつもより良かったことを話題にし、それについて惜しみない賞賛の言葉をかけてくれていた。


「私、先生のこと誤解してたかもしれません」


 私はふいに思ったこと口に出してしまった。


「誤解?」

「えっと、言いづらいんですけど……もっとこう……冷たい人かと思ってました」


 私がおっかなびっくり発した言葉に、先生は苦笑していた。それからいつもの真面目な顔つきに戻ると、普段の厳格な声音で口を開く。


「私が担当しているクラスの五十沢幽という女子が行方不明になっているのは知っているか?」

「え? あ、はい。知ってますけど……?」


 急に五十沢幽の名前が出てきたので、私の心臓は一瞬強くはねてしまった。


「実は一部の生徒からその子がいじめに遭っていたって話がでてきていてね。もっとも、加害者として名前が挙がっている生徒たちは誰もその事実を認めようとはしていないんだが……」


 時折言葉を詰まらせながら話す新井先生の声を、私は神妙な面持ちで聞いていた。「一部の生徒」というのが彼のことを含んでいるのは間違いない。だがもし他にもいるのだとしたら、〝私〟はその人をあまり好意的には見ることはできないだろう。なんで今更、と思ってしまう。


「今でも時折考えるんだよ。どうしてこんなことになってしまったんだろう、とね」


 言葉足らずな感じは否めなかったが、どうやら新井先生は五十沢幽の一件に関して、責任を感じているようだった。稲垣先生の話を聞いてからというもの、私の中で新井先生のイメージがどんどんと変わっていく。稲垣先生の言うように、厳格な性格のせいで誤解されてしまうのだろうが、きっと根は優しい先生なのだろうと思われた。


「あ、そこで停めてください」


 私が自分の家を指さすと、新井先生はその前で車を停めてくれた。一応左足を気遣いながら車を降り、新井先生にお礼の言葉を伝える。


「今日はありがとうございました」

「あぁ。また何かあったら遠慮せずに相談するんだぞ」


 先生はそう言いながら、たばこを一本取り出してそれを指の間に挟んでいた。どうやら私が乗っている間は吸うのを我慢してくれていたらしい。


 じらせてしまっては申し訳ないので、私は軽くお辞儀をしてから助手席のドアを閉め、母と同居している103号室へと向かった。部屋の中に入る間際、後で車の発進音が聞こえたので私はなんとなく振り返ってみたが、その時にはもう軽自動車の姿は消えてしまっていた。




 翌日のちょうど月終わりの火曜日、私は彼からの連絡を受けていつもの橋の下のベンチで彼のことを待っていた。足の痛みはもうほとんど消えていたが、体中にできていた痣はじんじんとした痛みを未だ節々で放っていた。


「わーるい。ちょっと遅くなった」


 少し息を弾ませながら駆け寄ってきた彼に、私は「大丈夫ですよ」と声をかけ、ベンチに座るように促した。彼の息が整うのを十分に待ち、それから本題に入る。


「カウンセラーの方からなにか聞き出せましたか?」


 IKOIからうちの学校に派遣されているカウンセラー不破卓人ふわたくとに話を聞きに行った彼に、私はにわかな期待を込めながらそう質問した。しかし、彼は私の質問に対して大きくかぶりを振った。


「いーや、全然。幽のことについてはなんも知らないってさ。そっちは?」

「実はこっちもです……去年東高を担当していた矢吹穂乃果やぶきほのかというカウンセラーの方も何も知らないとのことでした」


 昨日の午後に届いた稲垣先生からのメールには、去年東高に配属されていたカウンセラーの矢吹穂乃果も五十沢幽からの相談を受けたことはなかったという旨が書かれていた。


「一応寺嶋さんのこともあるので西高に配属されたことのあるカウンセラーの名前も聞いてみたんですけど……」


 私はそう言いながらメールの文面を表示したスマホを彼に見せた。


松村彰吾まつむらしょうご若林涼香わかばやしすずかって……東高となんの共通点もないな」

「そうなんですよね……」


 もし西高と東高の両方に配属されたことのあるカウンセラーがいれば、俄然そのカウンセラーが怪しくなってくるのだが、その線もこれで完全になくなってしまった。


「これはもうIKOIの中に犯人がいるという可能性から考え直した方がよさそうですね……」


 私はそう言ってがっくりと肩を落とした。IKOIのカウンセラーが犯人ではないとなると、もう誰を容疑者にすればいいのか皆目見当がつかない。西高と東高の両方に接点を持ち、なおかつ生徒の家庭事情を知ることができる存在など、他にあるのだろうか。


 いや、そんな都合のいい立場はきっと存在しないのだろう。であれば、寺嶋満月の事件と五十沢幽の事件を同一犯による犯行だと考えているのがそもそもの間違いだったと考え直すべきかもしれなかった。


 どんどんと後退していく推理に、私は途轍もない絶望感を抱いていた。これから先、私たちは何の成果も得られないまま、ずっとこんなことを繰り返していくのだろうか。そう思うと急に虚しい気持ちになってしまう。


「確かにその可能性はもうなくなっちまったな……。だけどさ、それを考え直す前に一つ気になることが出てきたんだ」

「気になること、ですか?」


 私は彼がもたらした新たな可能性に期待を寄せずにはいられなかった。このどん詰まりの状況に風穴を開けてくれるような何かを私は希求していた。しかし、現実はそううまくは運ばなかった。


「実は最近、マスクをつけて帽子を被った黒いコートの男が学校のまわりを徘徊しているって噂が生徒の間で秘かに広がってるらしいんだ」


 なんと彼が口にしたのは情報ソースとしては最も下級の噂話だった。私は思わず呆然と彼の顔を見返し、彼の方ではそれに気づいて必至に釈明を試みる。


「ま、まぁ俺も実際に見たわけじゃないからただの噂なのかもしれないけどさ。もしかすると犯人は単純にストーカーによってターゲットを選定しているって可能性もゼロじゃないだろ? だから無視するわけにもいかないと思ってさ」


 正味彼のその推理はかなり粗雑なものだと言わざるを得なかった。ターゲットを見つけるためにストーカー行為を繰り返すなどというのはあまりに非効率な方法だし、学校内で噂がたってしまうほど目立ってしまうようでは逆に警戒されてしまい、目的を達するのが困難になってしまうだろう。そんな迂闊なことをする人間が犯人だとは私には到底思えなかった。


 しかしそう考える一方で、私は彼の提案に代案を示せるわけでもなかった。彼の推理は確かにお粗末ではあるが、私のそれも随分と的外れなものだったではないかと思い直す。


「現状だともう他に手掛かりもないし、とりあえずダメもとでその不審者について調べてみないか?」


 彼も「ダメもとで」と言うくらいにはこの線の頼りなさを理解しているようだった。それはつまり、私たちがそれだけ追いつめられている状況にあるということを意味している。


「わかりました。今後はその方針で進めていきましょう」


 所詮は悪足掻きだと知りつつ、私は彼の提案を吞むことにした。


「それから不審者の件が片付くまでは念のために俺が沙夜のこと家まで送ってくことにしようと思う」

「え……えぇ!?」


 暗澹とした空気が流れていた中、突如飛び出した彼のその言葉に私は衝撃のあまりすっかり裏返った声を発していた。


「いや、そんなに驚くことじゃないだろ。犯人は不幸な境遇の女子を狙う傾向があるんだろ? だったら沙夜も警戒しないとまずいんじゃないのか?」

「いや、まぁ……そうですけど……」


 思えば五十沢幽のときも彼は男女の間であることを気にもしないような言動を繰り返していた。だから今回もそこにあるのは純粋な懸念だけで、他意はないのだろう。だがそうとわかっていても、どうしても動揺してしまう私がいた。


「家、多分逆方向ですよ?」

「ん? 幽の家ほど遠くはないだろ?」

「まぁ、それは……」


 五十沢宅までの距離を基準にするのはどこか感覚がずれているような気もしたが、それを引き合いに出されてしまうと反論する余地がなくなってしまう。


「じゃぁ早速道案内よろしく」


 彼は私の意思を確認することなくそう言うと、荷物を持ってベンチから立ち上がった。


 半ば強引に一緒に行くことになった帰路の中で、私はふと彼の言った「不幸な境遇の女子」という言葉を思い出した。そしてその言葉に対する実感が薄れていることに気づくと、私は急に一種の焦りのような奇妙な胸のざわめきを感じる。それは、常に〝私〟を支えてくれていた何かが急にどこかへいってしまったかのような、不安にも似た感覚だった。


 〝私〟は自身の気持ちに整理がつかぬまま、隣を歩く彼のことをさりげなく横目で確認する。彼は適当な方向を向いていたので視線が合うようなことはなかったが、それをいいことに私は暫く彼を視界の内に留めていた。


 帰ったらもう一度『こころ』を読み直してみよう。


 確たる理由があったわけではなかったが、ただなんとなく、〝私〟はそう思い立っていた。




 翌々日の木曜日は金曜日が文化の日で休みであることもあり、教室のあちこちで休日の予定を立てる声が聞こえていた。外の景色も徐々に赤やオレンジが目立つようになってきており、そろそろ紅葉の見頃だぞと木の葉たちが意気揚々としている。


 普段は水曜日と金曜日が七時間授業なのだが、今週は金曜日が文化の日であるため木曜日に七時限目の授業が割り振られていた。また、今日は私に掃除当番が回ってきており、他の生徒たちよりも帰宅に着くのは十五分ほど遅くなった。


 十一月になって随分と日も短くなってきており、私が学校を出たころにはもうすでに街灯が点灯していた。昨日、一昨日と私を家まで送ってくれた彼も、今日は用事があるというので、私は一人で帰路につく。


 母は今日から観光地へ泊まり込みのバイトに行っている。連休になると母は時折そんな風にしていつもよりいくらか割のいい仕事をしてくるのだ。私は母が家にいなくなってしまうのを若干寂しくは思っていたが、それでもいつもよりは健康的な生活が送れるであろう泊まり込みのバイトに行ってくれることには少し安堵している部分もあった。


 私は三日間の食事を節約して、母が帰ってきたときに母の好物をたくさん作っておいてあげようと考えていた。もとより三日間の食事代として渡された金額は普段食べているものの材料代で換算すると少し高いような気がしていたし、この〝体〟も元来小食なので節約はそれほど難しい話ではない。


 そういえば母の誕生日は十一月の中旬だった。去年は財布の中身を全て奪われてしまって母へのプレゼントを用意することができなかったようだが、その原因となった女子生徒たちも流石に月曜日の一件で懲りたらしく、私の今月のお小遣いは無事に財布の中にそっくりそのまま残っていた。


 今年こそは母にプレゼントをしようと意気込み、何をあげようかとあれこれ思案していると、気づいたときには私は家のもうすぐそこまで来てしまっていた。路肩に停めてあるワゴン車をよけると、すぐ右手に103号室の入り口が見える。私はカバンから鍵を取り出してドアを開け、数日間一人で過ごす部屋に足を踏み入れた。


 真っ暗なリビングに電気をつけ、床に荷物を置いて椅子に腰をかける。ダイニングテーブルの上には例の如く母からのメッセージがいつもより長文で残されていた。


 戸締りはしっかりすること。ガスの元栓はしっかりしめること。毎日三食きっちり食べること。たまには外に出ること――エトセトラ、エトセトラ。心配性の母らしいメッセージの数々に私は呆れてしまった。


「もう……。わかってるよそれくらい」


 そう言いつつも、私はその文章に込められた母の優しさを嬉しく思っていた。


 椅子から立ち上がり、上着を脱ごうとチャックに手をあてがう。すると突然、寝室の方で何かが落ちるような物音が響き、私は驚愕のあまりに飛びのいた。


 今ここには私以外の人はいない。当然、寝室の方にも誰もいないはずだった。私は恐怖に鼓動を加速させながら、おそるおそる寝室に繋がるドアへと近づいていく。しかし私はすぐにそれを開ける決心がつかず、代わりにドアを数回ノックした。


「お母さん? いるの?」


 私はいるはずがない母を呼んでみたが、もちろん返事は返ってこなかった。そこで私は意を決してドアノブに手をかけ、ゆっくりとそれを開けていく。リビングの明かりが徐々に暗い寝室にも侵入していき、その中を光の筋が照らしていった。


「あ」


 私はドアを開け切ったところでその音の原因を悟った。ドアのちょうど正面にある本棚の下、そこに一冊だけ本が落ちている。


「なんだ、びっくりしたぁー。本が落ちただけかぁー」


 私は安堵のため息をつき、その本を拾い上げようとして寝室に入る。その時だった。


「んーーっ!!」


 背後から急に口元を抑えられ、私は声にならない悲鳴を上げた。しかし、直後首筋に走った激痛が私の筋肉を硬直させ、自由な動きを抑制する。床に倒れ込んだ私はそのまま拘束され、次には手首のあたりにチクリとした痛みが走った。


 〝私〟は焦っていた。それはいつかに経験した誘拐の手口と全く同じだった。なぜ今。なぜ大森沙夜が。一体誰が。そんな疑問が次々と湧いてくる中、私は必至にこの状況を打開する術はないかと思考を闇雲に奔走させた。


 しかしそんな思考も時間が経つにつれて徐々に勢いを失い、みるみるうちにその鋭さを欠いていく。次第に強烈な睡魔が襲い、それに耐えるだけで精一杯という状況に陥った。


 そしてついには必死の抵抗も虚しく、私は意識を奪われてしまった。

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