第十六話 小さな抵抗

「それじゃぁ何かわかったら連絡するわね」

「よろしくお願いします」


 公民館の入り口まで見送りにきてくれた稲垣先生に私は深々とお辞儀をした。彼もそれに続いてお辞儀をし、お礼の言葉を口にする。


「今日はいろいろとありがとうございました」

「いいえ。私でお力になれることがあれば、気軽に連絡してくださいね」


 今日出会ったばかりの人だったが、私は彼女のその笑顔が好きだった。とても柔和で温かいその表情は、どこか私の母を思わせるところがあった。


「沙夜? いくぞ?」

「え? あ、うん」


 気づくと彼は既に踵を返して十数歩先まで行っていた。私は慌ててそれを追いかけようと体の向きを変えたが、後から「大森さん」と声をかけられて再び半身で振り返る。私はなんだろうと思いながら彼女の言葉を待った。


「あなたはもう少し自分の気持ちに正直なってもいいと思うわ」


 微笑みながら発せられた稲垣先生の言葉の意味を、私は理解できなかった。とりあえず私は軽く頭を下げてその言葉を聞き届けたことを彼女に示すと、今度こそ彼の背中を追いかけた。


 外に出ると秋の冷気が体を襲い、私は一瞬身震いをさせられた。公民館前の芝生も枯れ草色が目立っており、河川敷と同じ季節の空気を感じさせている。もう冷えた季節がそこまで迫っているんだなと私はなぜか朝出た時には思わなかったことを考えた。


「うわ、ちょうどバス出たあとかよ。ついてねーな」


 先に外で待っていた彼が、スマホを見ながら愚痴を零していた。当初の予定では講演が終わった後すぐに帰宅する予定だったので、十五時二十八分発のそれには余裕で間に合う算段だったのだが、稲垣先生と話していた時間があったため、それに間に合わなくなってしまったらしい。


「次のバスまでどれくらいあるんですか?」

「えっと――ざっくり一時間強ってところだな」

「うわぁ、結構ありますね……」


 IKOIの理事と連絡先が交換できたという幸運に恵まれた手前、運がないとはあまり言いたくはなかったが、急に一時間も暇な時間が生まれるのはあまり歓迎できることではなかった。


「ま、仕方ねぇしそこらへんで適当に時間潰そうぜ。どっか行きたいところとかある?」

「え?」


 彼からの突然の提案に、私は驚きを隠せなかった。たしかにここは市の中心部に位置するので、時間を潰す場所ならいくらでもある。だが、まさか彼の方からそんなことを口にするなどとは夢にも思っていなかった。


「じゃぁ、本屋さんとか……」


 つい本音が漏れてしまったが、すぐにそれは失敗であることに気がついた。この〝体〟でいるうちは私は本さえあればいくらでも時間を潰せるが、対する彼はあまり本に興味のあるタイプの人間とは思えない。私はすぐに発言を撤回しようとするが、それよりも早く彼が言葉を挟んだ。


「本屋な。ここから一番近いとなるとショッピングモールに入ってるナントカ屋ってところになるけど、そこでいいか?」


 彼が嫌な顔一つ見せず話を先に進めたので、私は引くに引けなくなって首を縦に振ってしまった。こうして何の紆余曲折もなくむこう一時間の予定が決まった。


 目的地へと向かう間、やはり私たちの間に会話が生まれることはなかったが、私は秘かに気分の高まりを感じていた。東高近くの古本屋にはある程度の頻度で足を運んでいるが、新品の本が並ぶ書店に行くのは本当に久々だったので、きっとそれが原因なのだろう。


 公民館から徒歩十分ほどのところにあるショッピングモールは土曜日ということもあり、多くの人でごった返していた。私たちはその人いきれを縫ってエスカレーターで四階まで上がり、そこにお目当ての書店を発見する。


「あ。この出版社の新人賞、もう発表になってたんですね」


 私は興奮を隠しきれない声でそう言いながら店先にディスプレイされている本を手に取った。古本屋のそれと違い、シミやよれ、書き込みなどが一切ない綺麗な本に私は小さな昂りを覚える。


「あ! あの帯のコメントって一昨年芥川賞を受賞した先生のじゃないですか? あの先生SFもお読みになるんですね」


 本の帯というのは古本屋では味わえない書店ならではの楽しみの一つだ。無論、古本屋でも帯付きのものはそれなりに置いているが、時流を汲んで生き生きとした帯と比較してしまうと、どうしても古色蒼然としてしまう感は否めない。また、古本屋とは趣向の異なる販促という企業努力の結晶は、徐々に電子書籍に蝕まれていく紙媒体のささやかな抵抗を力強く彩り、本をより一層輝かせて見せてくれていた。


 小説、エッセイ、詩集に学術書。私はつぎつぎと目移りしながら書店の中へと吸い込まれていった。


「本、好きなんだな」


 本棚に並ぶ新品の本の数々に全意識を奪われていた私は、後ろからそう声をかけられてふと我に返った。私は完全に自分が楽しむことに夢中になっていて、彼のことを一切考えていなかったことに気づき、急にばつが悪くなる。


「あ……ごめんなさい。一人で勝手にはしゃいでしまって……」

「いや、別にいいよ。たまには息抜きも必要だしさ」


 私が一瞬感じた気恥ずかしさは彼のその一言によって中和され、あとには安堵に似た気持ちだけが残った。思えば、母親以外の人と一緒に書店に来るのはこれが初めてのことだった。彼のことを友達だという資格は〝私〟にはないけれど、今だけは「友達と書店に来た」という錯覚をしても許してほしいと甘える〝私〟がいる。それくらい、今の〝私〟はこの時間を楽しいと感じていた。


「久々利さんは何か本を読んだりとかはしないんですか?」


 私は自身の内から湧き出てくる衝動に従ってその質問を彼に投げかけた。


「いやぁ俺、活字苦手だからさ。漫画なら読むんだけど――」

「じゃぁおすすめの漫画、教えてください!」


 私は彼がそう言い終えるか終えないかのうちに言葉を挟むと、彼の手を引いて漫画コーナーへと向かった。たった三十分程度の夢の中で、〝私〟は一秒たりともその時間を無駄にしたくなかった。


 だが、やはり世界は〝私〟に対して辛辣だった。世界のしもべたる時間はその持ち前の冷酷無比さをもって、バスの時間という現実を途轍もない勢いで引き寄せた。彼の口からそのことを知らされた時、私がどれほどショックを受けたかなど、この世界はきっと気にも留めていないのだろう。


 私は後ろ髪を引かれる気持ちになりながらも、仕方なく書店をあとにした。来た時のようにエスカレーターを使って一階まで降り、出口へと向かう。この間、私の視線はずっと自身の足元にばかり注がれていた。


「あ」


 前を行く彼がその一音を発して急に足を止めたので、私は危うく彼の背中にぶつかりそうになった。彼が足を止めた理由を確認するために私は彼の横に出ると、対面に一組のカップルが立っているのがわかった。しかもそのうち男性の方は〝私〟も知っている人物ときている。


「あれ、新星じゃん。こんなところで会うなんて奇遇だね」

「あぁ、久しぶりだな隆二」


 幕原隆二。〝私〟が五十沢幽だった時のクラスメイトで才色兼備の好青年。天然の女たらしだが、決して悪い人ではないというのが〝私〟の幕原隆二に対する評価だった。


「そっちの子は? 見ない顔だけど」

「あ、えっと、三組の大森沙夜です」

「大森さんかー。ごめんね。他のクラスの人の名前までは覚えてなくって」


 そう言うと幕原隆二は相変わらずの爽やかな笑みを私に見せる。しかしそれと同時に、その隣から敵対心むき出しの視線を浴びせられ、私は思わず一歩後ずさりさせられた。


「お前こそ、隣にいるその子は誰なんだよ?」


 彼が幕原隆二の隣にぴったりくっついて離れない女子のことを尋ねると、彼女は自ら自己紹介をすべく口を開いた。


「西高二年の辻華凛つじかりんです。隆二くんの彼女です」


 なんとなく、彼女は二言目の方を強調して言ったように私には聞こえた。先程私に向けていた視線も、おそらくそれとほとんど同じ意味だったに違いない。石本みなみしかり、辻華凛しかり、幕原隆二はどうもクセの強い女子に好かれることが多いらしい。


「へぇ、デート中ってわけか。お前が他校の女子と付き合ってるって知ったら、クラスの女子たちは涙目だろうな」

「あはは……それはどうなのかな。でもそういう新星こそ、他人のこと言えた口じゃないんじゃない?」


 幕原隆二がそう言ってちらっと私に目くばせをしたので、私は今着ている服のことも相まって湯気が立つのではないかと思うくらい顔が熱くなるのを感じた。さらに参ったことには、それを違う方向へ勘違いした辻華凛から、刺し殺されるのではないかと思うくらい鋭い視線を向けられる。


「いや、別に俺らはデートってわけじゃねぇぞ? お互いにちょっと公民館に用があって、その帰りにここに寄っただけだからな」


 特に取り乱すのでもなく平然と対応する彼の姿に、〝私〟はちょっとした違和感を覚えた。確か以前にもどこかで似たようなやり取りを見たような気がするが、その時の彼はこんなにも平然としていただろうか。そう考えたとき、私の胸中に私の知らない妙な感触が広がっていくのがわかった。


「公民館?」

「まぁ野暮用ってやつさ」

「ふーん? そっか。あ、そういえばちょっと新星にお願いしたいことがあるんだけどさ――」


 幕原隆二がそう言いながら彼を連れて通路の脇の方へと寄っていったので、仕方なく私もそれについていこうとした。しかし一歩目を踏み出した瞬間、誰かに手首を掴まれ、先に進めなくなった私は振り返らざるを得なくなってしまう。手首を掴んでいたのは幕原隆二の彼女こと、辻華凛だった。


「ちょっとこっちきて」


 彼女は低い声音でそう言うと、男子二人とは少し離れた方へ私を連れて行き、そこで私と相対した。


「回りくどいのはやだから単刀直入に言うけど、隆二に色目使うの止めてもらえない?」

「え?」


 あまりに突飛なその発言に、私は何を言われたのか一瞬理解できずに固まってしまった。


「だーかーらー! 隆二は私の彼氏だから手出さないでって言ってるの! さっき隆二と目合わせて赤くなってたけど、勘違いしないでよねってこと」

「はぁ……」


 それは一から十まで完全なる誤解だったが、どうにも話が通じる様子ではなないので、ここは穏便に済ませるためにあくまで彼女の気に沿う言動に終始することする。


「こっちは隆二の家に泊まったこともあるの! あなたに入り込む余地なんてないんだからね」

「へ、へぇー、ってことは隆二君の親も公認の関係ってことなんですね」


 私は慎重に彼女の意に沿う言葉を選んで口にする。しかし、それに対する彼女の反応は私の予想とはまるで違ったものだった。


「は? 親? なんで親の許可がいるのよ?」

「え? だって今隆二君の家に泊まったこともあるって――」

「華凛」


 彼女の背後から彼との話を済ませた幕原隆二が現れ、その肩に手を置いた。


「あんまり大森さんを困らせたらだめだよ」

「だって……」


 幕原隆二に諫められた辻華凛は風船が萎むかのように急に威勢を失って縮こまった。私はそれを見て、幕原隆二の前では良いところだけを見せていたいという性分も、やはり石本みなみと通ずるところがあるなと思わされる。


「ごめんね、大森さん。華凛も悪気があったわけじゃないから」

「いえ、大丈夫です」


 これ以上敵視されても困るので、私はあえて幕原隆二と視線を合わせないようにしながら応じた。


「あ、やっべ。沙夜、早くいかねーとバスきちまうわ」


 幕原隆二と一緒にこちらに合流した彼の言葉に、私は「そうですね」と応じて辻華凛の前から逃れるようにして彼の隣に並んだ。


「じゃぁまたな、隆二。邪魔したな」

「ううん。気にしないで。またね、新星」


 そうして私たちは互いに人ごみの中へと紛れていった。しかし、私は数メートル進んだところでなんとなく後ろからの視線を感じ、一度振り返らされることになる。当然、既に幕原隆二と辻華凛の姿は見えなくなっていた。


 きっと先程まで辻華凛から向けられていた視線の名残りだったのだろう。私はそう思うことにし、やはりああいうタイプの人間とは関わり合いにはなりたくないものだなとため息をつきながら、再び前に向き直って歩き出した。

 



 土日が明けると、私はいつもどおりの学校生活を再開した。


 現在東高に配属されているカウンセラーには彼の方からアプローチしてもらうということで話がまとまっていた。というのも、二人でカウンセラーのところ行くというのはあまりに不自然なので、どちらかに決める必要があったのだ。


 ではなぜ彼に決まったのかというと、万が一私がカウンセラーに相談をしに行ったことが母の耳に入ったら面倒な事態になることが予測されたため、私の方から彼に頼んだという背景があるからだった。


 しかしそのためにというべきか、現状私が能動的に起こせるアクションは特にない状況だった。一応、稲垣先生からの連絡を受けてその内容を彼に伝えるという役割もあるにはあるのだが、私には彼女からの連絡を待つことしかできないのだから能動的に起こせるアクションのうちには入らなかった。


 四時限目の授業が終わり、私は机の上を片付けて弁当箱を取り出した。弁当箱の蓋を開けるとそこには私の好きなオムレツが入っており、蓋によって不格好に引き延ばされてはいるものの、ケチャップの赤と卵の黄色が織りなすコントラストは私の食欲を刺激する。私が早速それに箸を伸ばし、小さな幸せを享受しようと思ったそのときだった。


「さーやっち!」


 突然肩に回された手に、私は驚いて箸を落とした。そして次の瞬間には何が起ころうとしているかをすべて察してしまったこの〝体〟が、意識とは無関係にこの身を震わせ始めていた。


「ねぇねぇ、こやって話すのも随分久しぶりだよねー。私寂しかったなー。さやっち全然声かけてくんないんだもん」


 彼女はそんな戯言を並べながら言葉ではない圧力で私を席から引きはがし、例の如く屋外の倉庫やゴミ捨て場が並ぶ薄暗い場所まで連れていった。そしてそこにはやはり、以前と変わらず二人の女子が座って待っていた。


「沙夜さんをお連れしましたー!」

「おー、沙夜さんじゃん。久しぶりぃー」

「会いたかったよー沙夜さーん」


 私が見る彼女らの一挙手一投足はまるでピエロのように映え、笑い声は悪魔の嘲笑のように耳に響く。忘れかけていた辛い記憶が私の意識へと逆流し、内と外からの恐怖で私を板挟みにした。


「昼休みの時間なくなっちゃうし、ほら、さっさと出してよ、沙夜さん」

「この二ヵ月の間にうちらのために貯金してくれたんだろ? 勿体ぶらなくていいからさー」

「ほらはーやく! はーやく!」


 彼女らはそのまま悪ノリして手拍子を交えながら「はやく」と連呼した。自殺未遂の動画の一件で一時は自らの悪行がバレることにびくびくとしていたはずの彼女らは、喉元過ぎれば熱さ忘れるという諺を体現するかのように、私へのいじめを再開した。


 体が震え、冷汗が滲み出る。私はゆっくりと制服のポケットに手を伸ばして財布を手に取り、それを引き出そうとして――


「おい? どした?」


 私はポケットに入れた手を何も掴まないまま再び外に出した。私はそこに佇立し、財布の代わりにスカートの生地を強く握りしめる。そしてうまくいうことをきかない声帯に鞭打つようにしながらその言葉を口にした。


「イヤです……」

「……は?」


 一瞬の静寂が訪れる。地面を凝視していた私はその妙に長く感じられるしじまんpうちに上目遣いで彼女たちを視界にとらえ――そして背筋が凍る恐怖に臓腑が急激に冷めていくのを感じた。そこにあったのは、所有物が自身の思い通りにならないことに対する強烈な不満と憤りだけだった。


「おい、今なんつった? もっぺん言ってみろよ!」


 同級生の陸上部員が私の胸ぐらをつかんでそう息巻く。私はその抗いがたい物理的な支配力に思わず屈してしまいたくなるが、それでも歯を食いしばり、決定的な一言を発した。


「嫌だって言ってるんです!!」


 私の叫び声に、彼女らは驚いて固まった。しかしそれもほんの一瞬のことで、彼女たちも何かを決意すると、私との距離を詰め始めた。


「おい、調子こいてんじゃねぇぞブス」

「そんな涙目で叫ばれたってこっちはなんも怖くねぇんだよ」

「ちょっと見ねぇ間に生意気になりすぎ。これはお仕置きが必要みたいだ――なッ!」


 私は掴まれていた胸ぐらをそのまま突き出され、勢いよく後ろに転び、コンクリートに腰のあたりを打ち付けた。痛みにうずくまる私をさらに彼女らが包囲し、三人で一斉に私を蹴りつけ始める。


「お前は黙ってあたしらの財布になってればいいんだよッ!」

「身の程をわきまえろよブス!」


 体の至る所に痛みが走る。私はなんで自分がこんなことをしたのかもわからぬまま、必死に彼女たちの暴力に耐えていた。もしここで折れてしまったら、きっと私はもう二度と彼女たちには逆らえない。だからどうしても耐えなければいけなかった。


 しかし、私の意志を挫くかのように時間はゆっくりと流れていった。まるで永遠にこの地獄が続くのではないかという錯覚を覚えるほどの時空の歪みが、私を徐々に軋ませていく。やはり〝私〟はこの不幸から解放されない定めにあるのかもしれないという考えが頭を過り、急激に抵抗力を奪っていった。


 折れてしまった方が楽かもしれない――遂にそんな考えまでが浮かんでしまったとき、その声は唐突にその場にいる全員の鼓膜を震わせた。


「お前たち! 一体何をしている!」

「やっば!」

「逃げよ!」


 急に遠くから響いた怒声に、彼女らは一斉に逃げ出した。私は体中に走る痛みにうずくまり続けていたので、その声の主をすぐに確認することができなかったが、駆けつけた人物を見て私は変な納得を感じてしまった。


「おい! 大丈夫か!? 今すぐ保健室に連れてってやる。立てるか?」

「新井……先生…‥?」


 普段の覇気のない授業からは想像できないほどの気迫で私に語りかける新井先生が、今の私にはこの上なく頼もしく映った。私は体中の痛みをこらえて立ち上がったが、左足首のあたりに鋭い痛みを覚えて思わずしゃがみこんでしまう。


「左足をやられたのか? よし、先生が肩を貸してやる」


 新井先生はそう言って、私の左の手を自身の首に回して私を支えてくれた。しかし、身長150センチほどの私に身長180センチを超える新井先生が肩の高さを合わせることになるので、新井先生の姿勢は大分無理のあるものとなっていた。


「裏口からで、お願いします……」


 私はか細い声で新井先生にそうお願いした。この期に及んで、私は未だに人の目を気にしていた。


「わかっている。正面からよりもそっちの方が早いからな」


 私の意図が伝わったわけではなかったが、私の望みは叶うようだった。幸い、昼休みが始まったばかりのこの時間は、裏口から保健室に向かうまでの廊下に人がいることは滅多にないため、すぐに変な噂話が飛び交うようなことはないだろうと思われた。


「水野先生!」


 新井先生が保健室のドアを勢いよく開いた。驚いた水野先生がこちらをみてさらに驚きの声を上げる。


「新井先生! 一体どうされたんですか!?」

「この子が他の生徒に蹴られていたんだ。手当をしてやってほしい」

「え、えぇ? 蹴られてた!? 大変……!」

「あ、あの!」


 このままでは騒動が大きくなってしまうことを予感した私は、大きな声を張り上げた。二人の先生は突然の私の大声に驚いて静まり返る。その機を逃さず、私は声をいつもの声量に戻して二人の先生にお願いをした。


「大事にはしないでもらえませんか? 私なら、大丈夫なので……」


 二人の先生はまるで「何を言っているのかわからない」というような顔でお互いに顔を見合わせると、困惑の表情を浮かべながら私に反論した。


「大丈夫って……そんなわけないでしょう?」

「水野先生の言う通りだ、これは――」

「えっと! できるだけ穏便に済ませて欲しいっていうだけなんです。なので、その……私の母には連絡しないでもらえませんか?」


 この私の奇妙な申し出に、二人の先生はさらに複雑な表情を浮かべていた。新井先生は特に首を捻って難しい顔をしている。


「そんなことを言われてもなぁ……」

「お願いします! どうしても、母にだけは知られたくないんです!」


 煮え切らない態度をとる新井先生に、私は頭を下げて懇願した。もし今回の事件を母が知ってしまったら、きっと私を転校させると言い出すに違いない。そしてそうなってしまえば、家計へのさらなる負担は免れ得ず、母は今以上に働かなければいけなくなってしまう。今の母の姿を見ていれば、それが不可能なのは火を見るよりも明らかだった。


 暫く無言の時間が流れたあと、新井先生が私の肩に手を置いて頭を上げるように言った。私は不安の色を顔に滲ませながらもそれに従う。


「とりあえず今は手当が先だ。今後のことを話すのはその後でもいい」


 先程まで興奮していた新井先生の口調が、いつもの落ち着いた口調に戻っていた。私はひとまず目先の難を逃れたことを理解して、ほっと胸をなでおろす。必死の懇願は、かろうじて功を奏していた。


「水野先生、手当の方はよろしくお願いします」


 新井先生がそう言って保健室を出ていこうとしたので、私はまた不安を覚えてその背中を目で追った。しかし、新井先生もそれには気づいていたようで、保健室を出ていく間際に振り返ると、私に声をかけた。


「安心しなさい。まだ誰にも口外したりはしないから」


 私はその言葉の「まだ」という部分がどうにも引っかかってしまったが、一旦はその言葉を信じることにして、そのまま新井先生を見送った。


「じゃぁ男の人もいなくなったことだし、ちょっと服を脱いで怪我の具合を見せてもらえないかしら? あ、もちろんベッドのカーテンの奥でね」


 心配事は未だに山積していたが、今は水野先生の手当てを受けるしかないと諦めた私は、指示に従ってベッドの方へと足をひきずっていった。

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