第十三話 交渉と搾取

「僕がDMを送った東高二年の久々利新星です。で、こっちが――」

「同じく大森沙夜です」


 岩尾力也から名刺を受け取った私たちは、ひとまず名前だけの簡潔な自己紹介をした。対する岩尾は寝ぐせではねた髪をごしごしとかきながら私たちの顔を確認する。


「新星くんに、沙夜ちゃんね」


 約束の時間に遅れてきたことを謝りもせず、そのうえ初対面の相手をいきなり下の名前で呼び始める岩尾の態度の大きさに、私は完全に舐められていることを感じ取る。


「早速だけど、なんで俺に情報提供しようと思ったか教えてくれるかい、新星くん。俺もこう見えて暇じゃないんでね。はやいところ済ませちゃいたいんだよ」

「わかりました」


 岩尾の無礼さに目を瞑りつつ、彼は話を始めた。


「僕の幼馴染で同じ東高に通っている五十沢幽っていう女子がいるんですが、実は僕の誕生日を祝ってもらった直後から連絡が取れなくなってしまって――それが最近になって彼女が行方不明になっているって報道があったんです。それで居ても立ってもいられなくなっていろいろ調べてたら、市内で他にも女子高生の行方不明が発生しているってことが分かって――」

「それは寺嶋満月のことでいいんだな?」


 口を挟んできた岩尾に彼は「そうです」と頷いて応じ、先を続ける。


「最初は関係ないだろうと思ってたんですが、どうしても気になってしまって。そしたら岩尾さんが寺嶋満月の行方不明と二年前の瀬戸瑠海殺害の事件が関係しているって投稿をしているのを偶然発見してしまったんです」


 ちょうど彼がそう言い終えた時、店員が岩尾の注文したブラックコーヒーを持ってきた。他人に聞かれるとまずいというほどではないが、お互いに店員がテーブルを離れるまでは沈黙を守った。


 岩尾はその間に目の前に置かれたコーヒーのソーサーに乗っているスティックシュガーの片端をちぎり、中身を黒い液体の中に溶かし込んだ。そしてそれをスプーンでかき混ぜながら会話を再開させる。


「つまり、新星くんは最近行方不明になったそのいざわちゃんが単に家出したとかじゃなくて、同じ事件に巻き込まれたんじゃないかって思ってるわけ?」

「いざわですけど……まぁ、はい、そうです」


 私は岩尾のその言い間違いに、この交渉を有利に進められる兆しを見た気がした。もしかすると、岩尾はまだ五十沢幽の情報にはあまり触れていないのかもしれない。だとすれば、こちらの情報提供は岩尾にとっても魅力的なものになるはずだ。かなりとっつきづらい人物ではあるが、交渉の余地はある。そう思って私が秘かに勢いづいた矢先、岩尾は突如として私たちの核心を鷲掴みにするような言葉を口にした。


「とすると――君たちは俺に情報を提供したいんじゃなくて、俺から情報を聞き出したいということになるのかな?」


 身の毛がよだつようなぞわっとした感覚が体に走った。そのあり得ない風采のせいですっかり忘れていたが、目の前にいるのは仮にもジャーナリストの肩書を持つ男なのだ。情報のやりとりは私たちなんかよりもずっと長けているのは必然で、その差を今、私たちは一瞬で理解させられていた。


 唖然とする私たちを見て岩尾は不敵な笑みを浮かべ、一口コーヒーを啜って見下すような口吻で話を進める。


「図星みたいだね。悪いけどこっちは商売で情報を集めてんのよ。それを無料で寄こせっていうのは流石に虫が良すぎやしねーか?」


 私たちは完全に足元を見られてしまっていた。この劣勢はそう簡単に覆せるものではない。少なくとも現状で対等な情報交換を望むのは厳しいだろう。


「知っていることは全部お話しします」

「あーうん。それは大前提なんだよ新星くん。俺は君たちが価値ある情報を提供できるかどうかを重視しているんだからね」


 発したその一言から察するに、隣の彼も私と同じ焦りを感じていたのだろう。しかしその足掻きすらも岩尾に一蹴されてしまう。このままでは本当にただ一方的に情報を搾取されるだけで終わってしまうかもしれない。そんな焦燥がこみ上げた。


「価値ある情報っていうのは、具体的にはどういう情報ですか?」


 立場の優劣は覆せない。ならばせめて下手に出ることで最低限のリターンを確保することはできないだろうか。そんな思惑を込めて私は質問した。


「価値ある情報ってのはつまり俺が求めている情報ってことさ。あぁそうだ、こうしよう。俺が君たち二人に質問をする。俺の満足する回答ができたら、君たちにも質問を許そう」

「は? 『満足する回答ができたら』って、そんなのどうとだって――」

「黙れガキ」


 岩尾が急にドスの効いた声で彼の言葉を遮った。ぎらついた目で睨まれ、彼も思わず乗り出していた身を引かされる。傍から見ている私も、その極道じみた脅しに背筋を凍らせずにはいられなかった。


「大人が付き合ってやるって言ってるんだ。素直に言うこと聞いときな」


 それはまさに最後通告だった。この優位を譲る気はないという確固たる意志の表明と、これ以上たてついたらこの話は終わりだという警告。もはや私たちになす術はなかった。


「さて、一つ目の質問だ。君の幼馴染が行方不明になったのは一体いつごろだ?」


 岩尾に立場の違いをわからされた彼が唇を噛んでいるのを私は見てとった。彼は悔しさに体を震えさせながらも、投げかけられた質問に答え始める。


「七月二十日以降連絡が取れなくなったので、おそらくその付近だと思います」


 極力情報量を絞った受け答えに、彼がまだ冷静さを保っていることが窺える。しかし、当然それを岩尾は許さなかった。


「最後に連絡が取れたのはいつ?」

「二十日の夜は僕が幽を家まで送っていったので、二十日の二十一時ごろまではまだ――」

「オーケー。二十一時ごろまでは存命だったと」


 必要なことを聞き出すなり容赦なく言葉を遮っていく岩尾に、彼はますます苛立ちを募らせている様子だった。このままでは、一歩間違えれば最悪の事態まで起きかねないと私は冷汗をかき始める。


 岩尾は取り出した手帳にメモを取りながら、スマホの画面を叩き始めた。メモをアナログでとっているということは、おそらく何かしら調べものをしているのだろう。


「君たちってその行方不明の子と同じ学校だったよね? 今日学校祭やってるみたいだけど、こんなところにいていいのかな?」


 岩尾が藪から棒にそんなことを口走ったので、私たちは揃ってびくりとさせられてしまった。もしかしてそんなことを指摘するためにわざわざ学校のことを調べたのかと思うと、つくづくこの男は性根の腐った人間だと思わされる。


「それは学校に通報するぞっていう脅しですか?」


 私はそんなことでは動じないぞという姿勢を示すためにあえてその質問をした。しかし、それに対する岩尾の反応は私の予想とはまるで違っていた。


「いーや? 別に?」


 そのあまりに素っ気ない口調は、岩尾が本気でそんなつもりはないと言っているということを雄弁に物語っており、私は完璧に肩すかしを食らう形となった。


 岩尾は少しの間スマホの画面と睨めっこを続けていたが、ある瞬間に「ほぉ」と小さく呟いて不敵な笑みを浮かべると、手帳に何やら走り書きをした。それからスマホをポケットにしまうと私たちの方に向き直る。


「じゃぁ次の質問だ」


 こちらに手番を渡す気のない岩尾を前にして、彼がテーブルの下で血管が浮き出るほどに拳を握りしめている。私はその手にそっと自身の手を重ね、彼に冷静になるように促した。


 岩尾は人としては最低の部類だが、如何ともしがたいことに私たちが必要としている情報を持っている可能性は高い。そのため、一時の感情でこの千載一遇の機会を無駄にするわけにはいかなかった。


 隣に座る彼は私が重ねた手に気付くと、こちらに振り向いて私と視線を合わせた。私は静かに首を振って彼に自制を呼びかける。しかし、岩尾の次の質問はそんな彼をさらに逆撫でした。


「そのいなくなった五十沢ちゃんってが誰かに恨まれるようなことをしてたって可能性は?」

「は? そんなのあるわけ――」

「即答すんじゃねぇよ。もう少し考えてみろ。生きてりゃ誰かに恨まれることの一つや二つくらいできて当然だろ? 女子高生ならそうだな――パパ活でパパさんを見限ったとかよ」


 岩尾の最後の一言は完全にレッドゾーンを捉えていた。


「てめぇ! いい加減にしろよ!」


 彼が席を立って拳を振り上げようとしたので、私は彼に飛びついて必死にそれを制止した。


「久々利さん! ダメです!」


 彼は数秒間私を振り払おうともがいたが、店員が慌ててやってきたのを見て、なんとか浮かせていた腰を再び椅子に戻してくれた。


 私は店員に「お騒がせしてすみません」と頭を下げたが、彼はなおもその表情に岩尾に対する憤怒の色を浮かばせており、少なくともこれ以上岩尾の質問に対して受け答えができるような様子ではなさそうだった。


 その一方で、怒りを向けられている当の本人は、まるで自分は関係ないとでも言うかのように飄々としており、全く悪びれる様子を見せず、のんきにコーヒーを啜っている。一体どんな神経をしていたらこんな振る舞いができるのかと私も怒りを禁じえなかったが、今私が口にするべきはそれではないことだけは明らかだった。


「岩尾さん、ひとつだけハッキリさせておきたいことがあります」


 私は顔を上げ、岩尾と真正面から向き合うと、力強く言い放った。


「五十沢さんは誰かに恨まれるようなことをする人じゃありません」


 それは〝私〟だからこそ言い切れる言葉だった。五十沢幽は他人から受ける痛みを知っていた。いや、寧ろ知りすぎていた。だから彼女は他人を傷つけることができなかった。自身が死んだあと、久々利新星が傷つくことを許容できなかった。


 私は岩尾の目を真っ直ぐに見据える。すると岩尾は私の気迫に一瞬驚いたような表情を示し、次いで私から視線を逸らした。それからきまりが悪そうにうなじのあたりを手で押さえると、ぼやくような声で言う。


「そうかい。じゃぁまぁ、とりあえずそういうことにしておこうか……」


 その時岩尾が見せた委縮は、まるで縄張り争いに負けたオスのようだった。岩尾はその醜態を誤魔化すかのようにタバコを取り出して一服しようとしたが、ライターがないことに気がつくと、取り出したタバコを捻り潰して苛立たしげに舌打ちをした。


「ちっ、じゃぁ次の質問だ」


 声が荒々しくなっていた。見た目に違わず非常に短気な性格らしく、これ以上刺激するとこちらが訊きたいことが訊けなくなってしまう可能性もあると考えた私は、ここからはできるだけ彼の質問に従順に答えるようにしなければいけないと気を引き締める。


 私は隣に座っている今にも爆発しそうな彼にテーブルの下で〈私に任せてください〉と入力したスマホの画面を見せる。彼は特に返事を返すようなことはしなかったが、それ以降何も言葉を発しなかったので、一応私の意図を組んでくれてはいるらしかった。


 かくして岩尾の質問には私が受け答えをすることになったわけだが、岩尾は五十沢幽の容姿や成績、交友関係や家庭事情など、相変わらず遠慮という概念を知らないような質問を幾度となく繰り返した。そのため、岩尾が際どい質問をするたびに私は横目で彼の様子を確認させられる羽目になったのだが、彼は何を思っているのかそれ以降特に動じるような様子は見せなかったので、私はほっと胸をなでおろした。


 もういくつ質問をされたかわからなくなってきたころ、岩尾はカップに残っているコーヒーを一気に飲み干すと、やっと自分の手番の終わりを告げた。


「俺から訊きたいことはこれで終わりだ。まぁどうせ今後調べりゃ出てくるような情報ばっかだったが、最後に一つくらいはそっちの質問に答えてやるよ」


 一通り質問を終えた岩尾は満足げに背もたれにもたれかかると、まるで譲歩してあげますよ、と言うかのような態度でそう言った。私は隣に座る彼と一度視線を合わせると、慎重に言葉を選びながら岩尾に向かって質問を投げかける。


「では――岩尾さんが寺嶋満月の行方不明事件と瀬戸瑠海の殺人事件に関係があると考えた根拠は何なのか教えてもらえませんか?」


 幸い、私たちの知りたい情報はこの一つの質問に集約されていた。もう少し真っ当な大人が相手であれば、お互いに情報を出し合いながら推理を深めていくことも考えられたが、少なくとも岩尾相手ではそれは無理な話だ。寧ろ最後にこちらからの質問が許されたことを幸運に思うべきだった。


 岩尾は私の質問を受け、上方に視線を泳がせながら思案していたが、少ししてからこちらに視線を戻すと、私たちの方に手の甲側を向けて二本の指を立てた。


「それは実質二つの質問だな。どっちかしか教えられねーよ」


 相変わらずこすい手を使うやつだと思う。そしてその不満を私以上に強く感じているであろう彼が、辛抱ならないというように長いこと噤んでいた口を開く。


「そっちは二十分も質問攻めにしてただろーが。二つくらい教えろよ」


 彼の主張はもっともなものではあるが、それは理屈が通じる相手であることが前提にあって初めて意味をなす。岩尾がその範疇の人間ではないことはもはや火を見るよりも明らかだった。


「おいおい最初に行っただろ? 価値ある情報を提供できるかどうかで俺の対応も違ってくるってな。でもってお前らの情報は不合格。それでも一つ質問に答えてやるって言ってんだ。十分なサービスだと思うぜ?」

「お前――」


 語気が強まり、再び感情任せの行動をしそうになる彼を、私はすかさず手で制した。そして間を置かずに岩尾に提案を持ち掛ける。


「片方しか教えられないのならそれでいいです。ただ、せめてどちらの情報を選べばいいのかヒントをいただけませんか? でないとこちらとしても何を訊けばいいのか判断ができません」

「はっ。お嬢ちゃんの方はまだ話が分かるみたいだな。いいぜ――」


 岩尾は物事が自分の都合のいいように進んでいることに悦に入りながら、私たちに二択の質問を投げかけた。


「一つは犯行における共通点、もう一つは犯人が狙った被害者の共通点。さぁ、どっちを教えてほしい?」


 難しい二択だった。どちらの情報も私たちにとっては喉から手が出るほど欲しい情報であることには違いない。そのため、どちらが私たちにとって有用な情報である可能性が高いかを判断しなければならないが、それを比較するための天秤を私は持ち合わせていなかった。


「ほら、さっさと選びな」


 岩尾が悩む私にさらに追い打ちをかける。これはきっと考え方を根本から改めねばならない。どちらが有用かではなく、もっと違う視点でこの質問を見る必要がある。天秤が用意できないのであれば定規を用意するという柔軟性、それが求められている。


 そう思ったとき、私はふとあることに気が付いた。それは最初、暗闇の中で一本の糸を探り当てたかのような感覚でしかなかったが、その糸を辿った先にはたしかに一筋の光が差し込んでいた。


「では、犯人が狙った被害者の共通点を」


 私は迷いなくその二択に回答を導き出す。私の手は武者震いに震えていた。


 そんな私の事情を露知らない岩尾は、私の選択を受けて「いいだろう」と椅子にふんぞり返ると、まるで自分の調査の成果を誇るような口調で語りだした。


「犯人は家庭環境が悪く、家族仲の良くない女子をターゲットに選んでいる可能性がある」


 岩尾の発した言葉に、私は不覚にも身を乗り出していた。岩尾のその切り出し方は私たちの知らない情報の存在を示唆していた。


「瀬戸さんの事件の時は家庭環境が悪かったっていう報道がありましたけど、寺嶋さんもそうだったんですか?」


 事前の調査で瀬戸瑠海の事件は醜悪な家庭環境が遠因になっていた可能性があると世間で取り沙汰されていたことは把握していた。ある記事では、瀬戸瑠海の遺体発見からわずか二ヵ月で〈家庭内暴力及びいじめ対策基本方針〉が策定されたのは、自治体の防止策が不十分だったからではないのかという世間の風当たりを無視できなかったからではないかという解説までされていたのを私は知っている。


 しかし、寺嶋満月については行方不明になっているということ以外の情報を私たちは持っていない。私は次に岩尾の口から出る言葉を一言たりとも聞き逃さないようにしなければと神経を尖らせた。


「あぁ。俺が駆けずり回って取材したところによると、寺嶋満月の家からは毎日のように母親の怒声が聞こえるって近隣住民が言ってたぜ。それに彼女はよく保健室に通ってたようだが、登校時には既に何かしら怪我をしていたっていう証言もとれてる」


 岩尾の話は〝私〟が加納紀美子だった時に寺嶋満月が保健室によく来ていた理由を見事に説明していた。


「おまけに寺嶋満月の父親は彼女が行方不明になる数年前に交通事故で他界してたってんだからホントお気の毒な話だな」


 所詮口先だけの「お気の毒」に私は顔をしかめたが、岩尾はそんな私の反応など意に介さず、手帳を閉じて席を立った。


「じゃぁ俺はもう行くぜ。またな」


 これほどありがたくない「またな」は〝私〟の人生でも初めてだと思った。正直なところもう二度と会いたくない相手だったが、私は社交辞令として軽く会釈をし、去っていくその背中に鋭い視線を投げかけた。




「あークソッ、ムカつく! なんなんだよあの岩尾って野郎は!」


 店を出てからの彼はずっとこんな調子だった。怒りの矛先を向ける相手を失って、内に溜まったストレスを解消できないでいるらしい。


 次の電車まで時間に余裕があった私たちは、気晴らしも兼ねて近くの山の展望台に向かっていた。住宅街を抜けて少し行くと、山の麓に山道に入る看板が見え、それに従って徐々に山の中へと足を踏み入れる。


 きちんと整備された山道だったが、昼が近いということもあってか他に人影は見当たらない。標高三〇〇メートル程度の山なのでそんなに疲れることもないだろうと思い、私から提案した登山だったが、実際に登ってみると想像の倍くらいはきついものであることがわかった。無論それはこの〝体〟が極度の運動不足であるせいもあったが、いつの間にか愚痴を言わなくなった彼を見ると、それだけが原因であるとも思えない。展望台に着くころには私たちは揃って息を切らしていた。


「うはぁー疲れたぁ。めっちゃ体力落ちてんじゃん、俺」


 展望台のベンチにどっかりと座り込み、彼は息の多い声でそう言った。私もハンカチで汗を拭いながら、森の綺麗な空気を吸って息を整える。展望台には私たち以外の人影がなく、実質貸し切り状態となっていた。


 少し息も落ち着いてきたところでベンチを立って手すりの方へ近づくと、そこからは町を一望することができた。私はどこからともなく沸き上がった衝動に身を委ね、息を肺一杯に吸い込むと、展望台の手すりから身を乗り出すようにして精一杯内に溜まったものを吐き出した。


「岩尾のクソやろぉーーー!!」


 肺の空気を全て出し切ってしまうくらいに最後の一音を長く伸ばす。音を反射するところがないのでやまびこは返ってこないが、声が虚空に消えていく感じがかえって私をスッキリさせた。


「え、なに……? いきなりどしたん?」


 後からの声に振り替えると、そこにはベンチに腰かけたまま困惑の表情を浮かべる彼の姿があった。私はらしくないことをしたなと急に我に返ると、頬を赤らめながら釈明する。


「一応、私だって我慢してたんです……」


 私は唇を尖らせながらそっぽを向いてふてくされるようにそう言った。すると、数秒してからくっくという変な声が聞こえてきたので彼の方に視線を戻すと、彼が口元に手を当てて必死に笑いをこらえているのが見てとれた。


「え? なんで笑ってるんですか?」


 私が不本意だとばかりに抗議すると、彼はかえって我慢するのをやめて声をあげて笑い始めた。


「はははは! ごめんごめん。沙夜もそういうことするんだって思ったらなんかおかしくなっちゃってさ。ちょっと沙夜のこと誤解してたかも、俺。はははは!」


 私の不満をぶちまける一声が相当お気に召したのか、彼は実に愉快そうに笑っていた。そういえば、初めて〝私〟が彼と会ったとき、今と似たようなやり取りをした覚えがある。あの時も彼が笑って、それを〝私〟は不本意に思っていた。


 だが、その時とは決定的に違うことがあった。それは彼が〝私〟を認識してくれていることだった。


「なにそれ」


 私はそう呟いて、クスリと小さな笑みを零していた。

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