第43話 ファム・ファタール
『確か《ファム・ファタール》って言ったかな…』
フランス語なのだが、あまり良い例えには使われないその言葉には、他にも《男性の運命を変える女性》として引用される時もあった。
その言葉は太郎にとってまさに華恋の事を指していると彼自身確信していた。
彼は頑張って除夜の鐘を聞いた後、電池が切れた様にリビングで眠りこけた華恋をお姫様抱っこすると、そのまま寝室まで運びそっとベッドに寝かせつけた。
その時風邪を引かない様に羽毛布団を肩まで引き寄せその寝顔を覗いた際、何故かその言葉を思い出したのだ。
実は大学でフランス語を専攻していた太郎…
その講義の際教授が言ったその言葉に《自分には縁の無い言葉だよな〜》と思った反面、何故か当時その言葉に強く惹かれていたのだった。
そう…
あの日…
あの時…
あの場所で…
歌の歌詞では無いが、本当にあの偶然が無ければ今のこの瞬間は無かったし、そもそも別の時間軸の中でどんな人生を送っていただろう。
「おやすみなさい」
そんな事を考えながらもう一度華恋の寝顔を確認しリビングへ戻る太郎。
すると風呂から上がった冴子がまた呑む気でいるのか、片手に缶ビールを開けながらバスローブ姿でテーブルを陣取っていた。
「あら華恋はもう堕ちたの?だらしないわね(笑)」
「だってここんとこまともに寝てませんでしたから」
「おや〜それはご馳走様♡」
太郎の返答に寝てない理由を察したのか、冴子はちょっと恥じらった顔をしてそう返してきた。
「そうだ、おつまみいりますか?」
「もうはいらないわよ(笑)それよりも華恋が寝てるんなら太郎さんに話しておこうかしら」
「え、何ですか?改まって」
冴子はそう言うとバスローブの胸もとから一枚の写真を取り出すと太郎の前に置いた。
『ん?何処かで見た顔だけど…あ!』
彼はその写真を手に取ると、暫くそんな自問自答していたのだが、ふとある事を思い出した。
そう…
BAR雫で見かけたカウンター席の男性の事をだ。
「あら、その顔は知ってるって顔だわね?」
「えぇ…雫のマスターに結婚式の招待状を渡しに行った時、カウンター席によく似た方がいらっしゃったので」
「それ、華恋の父親よ…名前は田中秀幸…今はアフリカにいるらしいわ」
「え…もしかして…お仕事で…ですか?」
冴子のそのセリフに動揺を隠せない太郎…
珍しく次の言葉に戸惑う所を見るとその認識は正解なのだろう。
確かにあの時、華恋はそうでもなかったみたいだが、その場所に変な空気が一瞬流れたのを感じとってていた太郎…
でもまさかそんな事だとは思いもしなかった。
そんな彼の姿を見ながら尚も話を進める冴子。
「そう《国境なき医師団…》聞いた事あるでしょ?」
「ハイ…」
「なんでも医療活動の傍ら井戸を掘ってるって」
「…華恋さんは…知ってるんですか?」
「まさか…誰も漏らしてないわよ」
「え?誰もって…もしかして鬼無里本部長やマスターの事ですか?」
「まぁ〜ね、こんな事他には誰にも話てないんだから知らない筈よ…特に薫がアイツの妹だって事もね」
その事実も太郎にとって寝耳に水である。
只、彼にはここである疑問が生じた。
「でも何で自分に?このまま秘密にしてても良かったんじゃ…」
「…身内だからよ、少なくとも私はそう思ってる…それとね…」
そこまで言った後、彼女の表情が一気に暗くなった。
「…後もって半年位らしいわ…」
「え!?」
言ってる意味が解らなかった…
イヤ、理解したくなかった太郎…
しかし察しの良い彼は、おそらく次に冴子が言わんとしている事を予測できていた。
「ステージ4の癌…肺だけじゃなくあっちこっちに転移してて手の施しようがないらしいの」
そう言いながら缶ビールを一気に呑み干すとうなだれ下を向く冴子…
そして…
「今回帰国したのもそれでだって…まぁ〜マスターや涼達にはビザの更新だって誤魔化したらしいけどね」
彼女はちょっとだけ間を置くと、再び話を続けた…
「どう…するんですか?」
「どうしたらいいと思う?」
か細い慟哭…
とても彼女から発せられたとは思えない声だった。
ここで初めて顔を上げた冴子…
その顔はダンボールの中に入れられて捨てられた仔犬の様に途方にくれていた。
その顔を見た太郎は…
「……帰られたんですよね…アフリカに…それが冴子さん達に対する答えでしょうから…多分ですけど、鬼無里本部長達ももしその事実を知ったとして…同じ結論を出すんじゃないですか?」
「?」
「《バカ》と一言添えて華恋さんのウェディング姿の写真送りつける…自分ならそうします」
「……そうね…そうよね…バカよね…アイツ…ホントにバカ…」
その頬に流れる一筋の雫…
彼女も解っているのだ。
とっくに別れの挨拶が済んでいる事を…
でもそれを認めたくない。
認めたくないのだ。
しかしそうせざるを得ない…
何故なら秀幸は…
会わなくてもいいのに会いに来て…
知らせなくてもいい事を…
あえて彼女にだけに伝えて消えて行ったから…
「山の様に送ってやりませんか?歯ぎしりしながら悔しがる位何枚も」
「…ありがとう…そうするわ」
冴子はそう言うと静かに立ち上がり客間の部屋に消えていった。
その後ろ姿には今だ悲しみがつきまとっていたが、彼女らしい凛とした背中だった。
太郎はその背中を静かに見送ると、灯りを消したリビングに一人…
彼もまた…
華恋が眠りにつく…
そんな寝室へと消えて行ったのだった…
そしてその年の五月中頃…
【速報:元最年少ノーベル医学賞候補田中秀幸死去】
それを報じるニュースが…
朝一番にメディアを通じて世間に流れるのであった。
勿論…
華恋には何も真実は知らされていない…
今も…
…これからも…
…続く…
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