第7話 再び日常へ


 翌日。

 5時に起床した雅司は手早く支度を済ませ、出社した。

 本日のシフトは早番、7時出勤。

 彼の職場の勤務形態は、早番中番遅番、そして夜勤。

 その都度起床時間が変わる為、体調管理が大変だった。

 夜勤の後に早番が組まれていると、体内時計が狂って眠れないこともあった。

 過酷な日々。

 そんな毎日に疲れたのもまた、人生を諦めるきっかけになったのかもしれない。


 隣の部屋のノゾミは、まだ眠っているようだった。

 雅司は微笑み、彼女に気付かれない様、静かに家を出たのだった。





「定時に帰れたの、いつぶりだ?」


 業務を終えた雅司が、帰路に就いていた。

 まだ夕方の4時半。このシフト、帰宅時間が早いのが魅力だった。

 とは言え、彼の職場は人手不足が続いているので、こうして定時で帰れることは滅多になかった。


 だが今日は、早く帰りたかった。

 家で誰かが待っている。別に初めてのことではない。

 しかし今、自分の帰りを待っている存在に、彼の胸は踊っていた。


 ――今までにない高揚感。


 家で悪魔が待っている。

 自分の魂を奪う為に。

 そんなおかしな日常を、俺は楽しんでいる。

 どこまで破滅的なんだ、俺は。

 そう思い、自嘲気味に笑った。





「おかえりなさいませ、ご主人様」


 メイド服姿のノゾミに、雅司が固まる。


「ご主人様ったら、何も言わずに出て行くんだから。目が覚めて私、寂しくて泣いちゃったんだよ?」


 耳まで赤くしたノゾミが、そう言って目を伏せる。膝が震えていた。

 セリフも棒読みだ。


「……何か言ってよ」


「いや、その……とりあえず、ただいま」


「おかえりなさいませ、ご主人様」


 引きつった笑みを浮かべ、ノゾミがもう一度そう言った。

 雅司が頭を掻き、小さく息を吐く。


「……どういう意図なのか、聞いていいか?」


 その言葉にノゾミは顔を上げ、得意げな表情を浮かべた。

 耳はまだ赤い。


「いいでしょこれ! 先輩に教えてもらった戦闘服、これで堕ちない男はいないって、言ってたんだから!」


「いや、その……確かにまあ、可愛いとは思う。無理してる様子も含めてな」


「でしょ! って、無理なんかしてないわよ!」


「いやいや、無理しまくってるから。膝も肩も震えてるし、耳もずっと赤いままだし」


「そ、それも計算の内よ!」


 本当に可愛いな、こいつ。

 そう思い、ノゾミの頭を撫でる。


「仕事帰りにこの出迎え、最高だよ」


「でしょ、でしょ! 先輩の言った通り、これで好感度も上がったわよね!」


「上がった上がった」


「よかったー、難易度高かったけど、やってよかったわ」


「毎日こんなサプライズがあるなら、それだけで頑張れるよ」


「もおーっ、褒めすぎだってばー」


「いやいや本当。この調子ならノゾミのこと、本気で好きになりそうだ」


「ふふっ、素直でよろしい。私のこと、どんどん好きになっていいんだからね」


「契約の為にな」


「ええそう、契約の為に」


「……」


 満面の笑みを浮かべるノゾミ。そんな彼女を見つめ、苦笑交じりに雅司が言った。


「ひとつ確認したいんだが、いいか?」


「確認? ええいいわよ、何でも聞いて」


「契約についての確認だ。間違いがあったら大変だからな」


「まあそうね。と言うか雅司、真顔か笑うか、どっちかにしなさいよ」


「じゃあ真面目な方でいこう。契約内容、もう一度言ってくれるか」


「別にいいけど、気になる言い方ね。まだちょっと笑ってるし」


「俺たちの契約は」


「私があなたを愛することよ」


「……あってるな」


「当然じゃない。私を誰だと思ってるの? 間違えるなんてこと、ある訳ないじゃない」


「それもそうだな。悪魔にとって契約は、存在意義と言っていいぐらい大切な物だからな」


「そうよ。これが私たちにとってのことわり。不変の価値なんだから」


「じゃあもうひとつ聞くぞ。ノゾミが今してること、それは何だ?」


「だから、あなたとの契約の為よ。さっきも言ったし、分かりきったことじゃない」


「だな。おかげでノゾミへの好感度が上がった」


「そういうこと。この調子なら、契約が果たされる日も近いわ」


「なあノゾミ」


「どうしたのよ、難しい顔して」


「もう一度聞くぞ。俺たちの契約は」


「私があなたを愛することよ」


「じゃあ今、ノゾミがしてることは」


「あなたが私を好きに…………あ」


 今度はノゾミが固まった。


「分かったか?」


「……これって実は、何の意味もないことじゃ……」


「いやいや、意味はあるよ。俺にとってはご褒美だからな」


「先輩、なんてアドバイスを……」


「聞き方がおかしかったんじゃないのか?」


 昨夜からの違和感に答えが出た。そう思い、雅司が微笑む。

 このサービスが終わってしまうのは、残念だが。


「悪魔って、狡猾で邪悪な物だと思ってた。でもノゾミと出会って、それが間違いだと気付かされた。確かにノゾミは、俺の魂を奪う為にここにいる。でもその為に、ノゾミは自分に出来る最高の仕事をしようとしている。

 悪魔って、ある意味人間より真面目で勤勉なんだな。尊敬するよ」


「フォローなんて、しなくていいから」


「フォローじゃないよ。心底そう思ってる」


 見上げると雅司の笑顔。不覚にも胸が熱くなった。

 慌てて視線を外す。


「と、とにかく……私たちの契約には、こういうことの積み重ねが大事ってことよ。そう、そうなんだから」


「そうだな。毎日とはいかなくても、またこうして迎えてくれたら嬉しいよ」


「ちょ、調子に乗るんじゃないわよ、全く……まあいいわ。この失態、契約の糧にしてやるんだから」


「ああ、そうしてくれ」


 やり取りを終えた雅司が靴を脱ぎ、洗面所に向かう。


「今日もご馳走だからね。手を洗って座りなさい」


「ああ、楽しみだよ」





 雅司が洗面所に入ったのを見届け、その場に座り込む。


 なんて失態だ。契約の解釈を真逆にとらえていた。

 この私が、こんな初歩的なミスを犯すなんて。そう思い、羞恥に身を震わせた。


 そして思った。


 この契約は、それほどまでに難易度が高いのだ。

 私自身が、経験したことのない任務。

 やり遂げてやる。改めてそう決意するのだった。


 そして。


 そんな自分を優しく見つめた雅司に、胸が熱くなるのだった。

 なんだろう、この感覚は。



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