第2話 幻覚の怒り

 幻覚である助手は静かに、しかし冷徹なトーンで続けた。


「あなたが書いている論文は、もともとは僕の研究です」その声は診察室に響き渡り、生々しい告発となった。


 小泉教授は林医師を見たまま、必死に自己弁護を試みた。「君を育ててやったのは、私だ。私の功績だ」と、彼は声を震わせながら言った。


 しかし、幻覚の助手は、その言葉を受け流し、次第に恐ろしい変貌を遂げ始めた。彼の顔色は一層蒼白になり、その瞳は真っ黒な淵へと変わった。顔の輪郭が歪み始め、人間らしさを失い、異形の怪物へと姿を変えていった。その口からは、まるで深海の生物のような、黒く長い触手が伸び、空間をゆっくりと泳ぎ始めた。頭は異常なまでに膨れ上がり、林医師の見上げる天井を押し上げるかのように巨大化していった。


 恐怖に凍りついた林医師は、その場から動けずにいた。だが、小泉教授は、この変化に全く気づいていないようだった。


「君は、そういう恩知らずだから、バチが当たったんじゃないか?」と、彼は静かに、しかし鋭く助手に言い放った。


 そのとき、幻覚の怪物は天井を突き破り、その異形の体で、小泉教授を頭越しに覆い尽くした。林医師は、その光景に息を呑んだ。そして突如、小泉教授が絶叫した。それは恐怖か、それとも幻覚に対する無力感か、誰にも分からない。教授の悲鳴は、空虚な診察室に反響した。



 小泉教授が絶望的な声で叫んだ。「分かった。論文には必ず、君の功績を書き記す。約束する。だから許してくれー!」


 その言葉が診察室に響くと、怪物の幻覚は徐々に、その怒りを解きほぐし始めた。人間らしい形に徐々に戻りながら、まるで彼の許しを得たかのように、静かに消えていった。


 そのとき、看護師が慌てた様子で診察室に飛び込んできた。「大丈夫ですか?」彼女の声が現実に引き戻してくれる。林医師は彼女の介入に感謝し、深い安堵とともに冷静さを取り戻した。


 小泉教授は彼女の腕の中で、ぐったりとしており、意識が朦朧としているようだった。彼の目には、さっきまでの恐怖が焼き付いているかのようであった。看護師は彼の容態を確認し、林医師に状況を尋ねるが、幻覚のことは何も見えていない様子だ。


 林医師は、この一連の出来事に心底困惑していた。彼は科学的な証拠と客観性を重んじる医師である。だが、今目の前で起こった超自然的な現象を、どう理解すればいいのか。どうやって、この経験を電子カルテに記録すればいいのか。


 小泉教授には医療的な援助が必要であり、そのためには現実的な記録が必要だった。彼は、この未知の体験を、どうカルテに記すか、その難題に直面していた。



 帰宅した林医師は、自宅の静寂に迎えられた。キッチンへと向かい、彼は自分で夕食を作り始める。冷蔵庫から取り出した食材が、彼の手によって一つ一つ料理に変わっていく。それでも心は完全には落ち着かず、夕食を一人で食べる間も、彼の心は別の場所を彷徨っていた。


 リビングの壁にかけられた写真の中で、亡き妻は、いつものように微笑んでいる。林医師は、その写真を見つめ、深いため息をついた。彼は、疲れていると自覚した。妻を亡くして以来、彼はその喪失感に打ちのめされることを避けるため、仕事に没頭し続けてきた。しかし、今日の出来事は、その避けてきた疲れが限界に達していることを示していたのかもしれない。


 彼の頭の中では、今日の診察室で見た光景が反芻される。あの幻覚は一体、何だったのか。疲労のせいだったのか。患者の命を預かる医師が、もし自身が幻覚を見るような精神状態にあるなら、それは許されることなのだろうか。そして、もしも、この疲れが他人に知られたら彼は、もう執刀医として立つことができなくなるかもしれない。


 そう考えると、林医師は決心した。電子カルテには、目の前の事実、確かな医学的診断を記すことにする。あの幻覚の話は、ただの疲労の産物として自分の中に留めておく。そう決めた彼は、食後のハーブティーを一口飲みながら、明日への活力を得るため、早めに床に就くことにした。



 小泉教授の脳腫瘍摘出手術が、静かに始まった。手術室には緊張が満ちていたが、それは患者が著名な脳科学者であるためだけではない。百戦錬磨の林医師にとっても、今回の手術は通常とは異なる重圧を帯びていた。なぜなら、小泉教授の幻覚である助手が、まるで、この場を見守るかのように、手術室の片隅に立っているからだ。麻酔で眠る小泉教授は、その場の緊張から隔離されたように静かだった。


 スタッフは、この幻覚に気づいていない。彼らには見えない。唯一、林医師だけが、その存在を認識していた。だが、そんなことを口に出せば、手術を続ける資格を疑われかねない。彼は内心の動揺を抑え、冷静さを装いながら手術を進めた。


 切開し、腫瘍にたどり着いたとき、林医師のメスが腫瘍に触れるや否や、幻覚の助手は声にもならない声を上げ、苦悶の表情を浮かべ始めた。まるで助手の存在が腫瘍に直結しているかのように、その顔は歪み、苦痛が増すごとに透明度を増していった。


 そして、ついに腫瘍が完全に切り取られた瞬間、幻覚は静かに解けていく霧のように消えていった。その消失とともに、手術室には、ほっとした空気が流れた。林医師は、深い息を吐き出した。手術は成功したが、小泉教授が目覚めたとき、彼は新たな現実を迎えることになるだろう。



 林医師は小泉教授の病室で、術後の経過を注意深く観察していた。様々な検査結果を確認し、神経学的なテストを行ったが、目立った障害は見られなかった。彼は、ひとまず安堵したものの、心の片隅には未だに術中の、あの幻覚のことが引っかかっていた。


「教授、いかがですか? 何か違和感はありますか?」林医師が訊ねた。


「いや、違和感はないな。むしろ頭が、すっきりしているようだ」小泉教授は、静かに答えた。彼の目はクリアで、言葉には自信があった。


 林医師は、少し躊躇しながら、「手術中……あの、何か……変わった体験はありましたか?」と探るように尋ねた。


 小泉教授は、しばらく沈黙し、じっと林医師を見つめた。そして、ゆっくりと口を開いた。


「何を指しているのかね? もし幻覚のことを言っているのなら、あれは腫瘍のせいだったのだろう。今は、何も見えない」


 林医師は教授の言葉に、ほっとすると同時に、その可能性に興味を引かれた。「あの幻覚は、医学の新たな領域を切り開くかもしれませんね?」


 小泉教授は、微笑んだ。「そうだな。でも今は、執筆中の論文を仕上げることに集中したい」


 林医師はうなずき、それ以上は追及しなかった。小泉教授の論文が世に出れば、多くの疑問に答えが出るだろう。林医師は、その発表を静かに待つことにした。

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