幻の手術

何もなかった人

第1話 脳科学者の嘘

 林達也医師は診察室のモニターに向かい、患者の田中幸子さんの言葉を、ただ機械的に打ち込んでいた。彼女の目はしばしば室内をさまよい、空中に浮かぶ幻影に話しかけるかのように動いていた。


「そこには、いつも庭を見守る夫がいるの。あの子たちもね、若かった頃の……」


 彼女の話に深い興味を示さない林医師は、パソコンの画面から目も離さず、幸子さんの言葉を、ただ記録として残していく。彼の頭の中は、手術の成功率や手術後の回復プロセス、技術的なディテールでいっぱいだった。患者が何を見ているのか、その幻覚がどんな意味を持っているのか、そんなことは彼にとって重要ではなかった。


「母はずっとこの状態です。あなたに話しかけているようですが、本当は……」と、嫁の由美子が言葉を続けたが、林医師は淡々とデータの入力を続けるだけだった。


「手術が成功すれば、これらの幻覚はなくなるはずです。心配されることはありません」


 林医師は、そう言い放ち、感情を一切交えずに次の診察の準備を始めた。彼にとって大切なのは、手術技術であり、患者の精神的な話に耳を貸す余裕などなかったのだ。



 林達也医師は、静かな集中の中で手術室の中心に立っていた。手術室の空気は緊張で張り詰め、僅かな光が滅菌された器具に、きらりと反射していた。彼の手は確実で、まるで長年の訓練によって磨き抜かれた楽器を奏でるように、患者の頭蓋骨を開き、腫瘍に正確にアプローチしていた。手術室に響くのは、医療機器の静かなビープ音と、林医師の冷静な指示だけだった。


 彼の周囲で、アシスタントたちは息を潜め、この凄腕の医師の手技に見入っていた。林医師が使用する器具は彼の意思の延長のように動き、腫瘍を摘出するために細心の注意を払いながらも、彼の動作には迷いがなかった。彼の目はマイクロスコープを通して、人間の生命を司る、複雑なネットワークを見極めている。


 手術は計画通りに進み、最後の縫合が終わると、手術室は安堵の溜息とともに、暖かい称賛の言葉で満たされた。看護師が「さすが林先生、完璧な手術でした」と声をかけると、林医師は軽くうなずきながらも、内心では、その称賛を冷静に受け止めていた。彼の目的は、ただ一つ。手術技術の追求だけだった。患者の見る幻覚や、その背後にある感情や人生のドラマに興味を持つ余地は、彼にはなかった。


 スクラブを脱ぎ、手を洗いながらも、林医師は既に次の手術に思いを馳せていた。彼は手術が成功した患者のことを考えるよりも、さらなる技術の向上と、次に彼のテーブルに乗る命を救うことに集中していた。彼の日々は、この繰り返しの中で、彼の手と心は、脳外科医としての彼の存在を研ぎ澄ませていった。



 診察室のドアが開き、そこに現れたのは脳科学の世界で高名な小泉教授だった。林達也医師は直ちに立ち上がり、敬意を込めて迎え入れた。教授と医師、どちらが診察を受ける側なのか一瞬、わからないほどだった。


 二人が着席すると、すぐに診察室は脳科学のフロンティアについての議論で満たされた。小泉教授は、自身が脳腫瘍を抱えていることを奇妙な運命と捉え、その経験が彼の研究に、どれほどのインパクトをもたらすかについて、情熱をもって語り始めた。「私の脳が、私の人生の研究に新たな光を投げかける。これほど皮肉なことはない」と教授は言った。


 林医師は教授の言葉に耳を傾けながらも、自分が、どれだけ医学の実践者であるかを思い出す。彼の関心は、幻覚の科学的な興味深さではなく、患者としての教授の健康だった。


「教授。あなたの洞察は確かに興味深いですが、私の役割は、あなたの脳腫瘍を治療することです」と、林医師は静かに言った。



 ふと目を上げると、小泉教授の背後に、生気を感じさせない白衣の青年が立っているのが目に入った。彼の立ち姿は静かで、顔色は薄く、あたかも、この世のものとは思えないほどに。


 林医師の目は、診察の書類から何度も、その青年にチラリと移った。静かなる、その存在に対し、小泉教授は何も言わない。その沈黙は林医師の心に微かな、ざわめきをもたらした。そして、そのざわめきが小泉教授の注意を引いたらしい。教授は、ゆっくりと後ろを振り返り、その後すぐに林医師の視線を追うように、彼の方へと向き直った。


「君にも見えるのかね? 彼が」と小泉教授は、静かながらも深刻な口調で尋ねた。教授の瞳には、知的な好奇心が浮かんでいた。


 林医師は一瞬、戸惑った。これは幻想なのか、それとも何か別の現象なのか。


「彼は、私が見ている幻覚なのだよ」と、小泉教授は落ち着いて言った。その言葉は林医師の脳に響き、自分の理解を超えた事態に直面しているという事実を突きつけられた。


 葛藤の中で、林医師は一計を案じた。もしも彼が、その幻覚と握手をすることができたなら、それは幻覚ではなく人間だろう。小泉教授は冗談が好きで、メディアでも人気だ。彼は、ゆっくりと立ち上がり、教授の背後にいるはずの青年に向かって手を差し出した。「私と握手を交わしていただけませんか?」と彼は言った。


 教授は微笑みながら、林医師の試みを静観した。青年の姿は、林医師の手が空中を掴む動作によって、いっそう明瞭になった。しかし、林医師の手は空を掴むだけで、何も触れることはなかった。



 小泉教授の目が、輝いていた。彼は林医師の試みから、新たな熱意を得たようだった。


「これは驚くべきことだ、林君。脳腫瘍の患者が見る幻覚を医師も見るなんて、まるでテレパシーのようじゃないか。これは新しい発見だよ。人間の脳は、まだ私たちが知らない不思議で満ちているんだ」教授は自身の熱弁に身を乗り出し、その古ぼけた椅子がきしむ音を立てた。


 彼の話は、自然と彼が現在執筆中の論文へと移っていった。その研究は彼の天才的な閃きから始まり、彼の生涯の業績を締めくくるものになると彼は確信していた。


「この論文が、私の研究生活の集大成になるだろう。脳の潜在的な能力について、まだ誰も踏み入れていない領域を明らかにするんだ」


 しかし、その熱い展望が、突如として途切れた。背後に立つ幻覚が、突然、はっきりとした声で「嘘をつくな」と言ったのだ。教授は言葉を失い、林医師もまた、その声に驚愕した。二人の間に静寂が落ちる。


 林医師は、目の前で起こっていることが理解できずにいた。幻覚が話すなど、あり得ないはずだ。


 小泉教授は一瞬、後ろを振り向き、そして再び林医師を見た。その目には、先ほどまでの確信が影を落とし、うろたえと迷いが浮かんでいた。彼の病が生み出した幻覚が、彼の秘密を暴露したのだ。

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