第3話 ピアニストと師

 林医師は、疲れた体にシャワーの温水を浴びせながら、手術の緊張から解放されるのを感じていた。清潔なシャツに着替え、彼は医師のための休憩室に静かに足を踏み入れた。


 リモコンを手に取り、テレビの電源を入れると、画面は国際的に活躍した日本人男性ピアニストの訃報で埋め尽くされていた。近年は、新しい才能を育てることに情熱を傾けていた彼の突然の死に、世界中が驚きと哀悼の意を表していた。


 林医師は、彼と自分を重ね合わせてみた。自分のところにも、脳外科手術の技術を学びたがる若手医師たちが後を絶たない。しかし彼は、まだまだ自分の役割を全うするつもりだった。


 自分の体力と気力が許す限り、手術室での主導権を他人に譲るつもりはなかった。彼の手が患者の命を救うことができる限り、彼は、その場を離れない。それが彼の使命であり、プロフェッショナルとしての誇りであった。


 それでも、テレビ画面に映る故人の姿は、彼に時間の限りというものの重みを改めて認識させた。自分のすべてを捧げた仕事に、いつか終わりが来るのだと。



 東京の片隅にある音楽大学の個室で、若きピアニストの佐伯真理子は、夜が更けるのも忘れてピアノの練習に没頭していた。彼女の指は、鍵盤を軽やかに舞い、情感豊かなメロディを紡ぎだしていた。最後の音が室内に静かに響き渡り、彼女は曲を終えた。その瞬間、突然、背後から拍手が聞こえた。真理子は、驚きながらも振り向いた。


 そこには、かつて彼女を導いた恩師であり、最近亡くなったはずの男性ピアニスト、西澤慎一郎が立っていた。「西澤先生!」と声を上げて彼に駆け寄るが、抱きしめようとした瞬間、彼の姿は霧のように彼女の腕をすり抜けた。真理子は困惑とともに立ち尽くし、再び西澤先生を見たが、彼は微笑むだけで何も語らなかった。


 突然の吐き気と嗚咽に襲われ、真理子はピアノの横に、しゃがみ込んでしまう。頭痛と目眩が彼女を襲い、彼女は自分の身体が不調を訴えていることを悟った。西澤先生の幻影は、彼女の心配そうな顔を見つめながら、静かに消えていった。それは、ただの幻だったのか。それとも何かの警告だったのか。真理子には分からなかった。



 真理子は、MRI検査室の冷たいベッドから降り、不安げに林医師の診察室へと歩いていった。壁にかかる時計の針が、ゆっくりと進む中、彼女は診察台に座り、林医師の穏やかな声に耳を傾けた。彼女の背後には、亡くなった西澤先生の幻影が、生気を失った顔で静かに立っている。林医師は、その幻影に気づきながらも、それを見ていないフリを続けた。


「真理子さん。最近になって、今までは見えなかったものが見えたりすることはありますか?」林医師が、慎重に問いかけた。


 真理子は、ためらいがちに、「まあ、はい……」と曖昧な返事をした。彼女の目は、ふと虚空を見つめ、迷いがあるようだった。


 林医師は、やさしく微笑みながら、「手術で腫瘍を取り除けば、そのような幻覚は見えなくなるはずですから、ご安心ください」と語りかけた。


 しかし、真理子は思いがけず声を荒げ、「それは困ります!」と言い放った。彼女は熱心に、西澤先生の幽霊からピアノの指導を受けていると説明し、まだ学ぶべきことが山ほどあると強調した。国際コンクールが終わるまで、このままの状態でいさせてほしいと懇願するのだった。


 林医師は真理子の情熱と、その背後で静かにうなずく西澤先生の幻影に、深く思いを馳せた。彼女の音楽への愛と、幻覚を通じて感じる師の存在が、どれほど彼女の心に根ざしているのかを理解した。彼は真理子の願いを重く受け止め、慎重に次の言葉を選んだ。



 林医師は真理子に、深刻な選択肢を提示した。彼の声は落ち着き払っていたが、眼差しには真剣さが滲んでいた。


「放射線治療によって、脳腫瘍の進行を遅らせる選択もあります。しかし、それは大きなリスクを伴う賭けになります」


 彼は説明を続けた。「国際コンクールには万全の体調で臨むことができないかもしれませんし、病気が進行して手遅れになる恐れもあります」


 真理子は、それでも決意を固めた様子で、「それでも、西澤からの指導を受け続けたいのです」と強く言い返した。彼女の目には決意があり、ピアノへの情熱が表れていた。


 放射線治療が始まると、林医師は主治医として真理子のそばにいた。治療中、西澤の幻影が苦しみ始める。彼の顔は歪み、痛みに満ちた表情を浮かべていた。その姿は、幻影の根源が脳腫瘍にあることを痛感させた。真理子は目を閉じ、心の中で西澤先生に謝った。林医師は、その横顔を見ながら、彼女の選んだ道を尊重することにした。



 再びピアノの前に座った真理子は、放射線治療の疲れを感じながらも、指を動かし始めた。音楽室に響く彼女の演奏には、不安と希望が混じり合っていた。西澤先生の幻は黙って聴いている。彼女が曲を終えると、幻は温かい言葉で演奏を褒め称えた。


 しかし、真理子には、それが不満だった。褒められるだけでは、ピアニストとしての成長はない。彼女は助言を求めた。「もっと厳しく指導してください。至らないところを教えてください」と願い出たが、西澤の幻は、ただ優しく微笑み、彼女の演奏と成長を称えるだけだった。


 真理子は次第に、この幻想的なレッスンが奇妙で現実離れしていることに気づき始めた。彼女が求めるのは本物の批評であり、挑戦であり、成長の機会だった。だが、西澤先生の幻は彼女を褒めることしかできない。


 彼女は、この状態が自分の中に生じた幻であり、実際の指導とは程遠いものであることを深く感じ取った。

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