はきだす
やっとみよと電話がつながったのは、八月が終わるというときだった。仕事の休憩中にかけた電話に、みよは三コールで出た。
「……もしもし」
覇気のない声だと感じた。暑さにでもやられているんじゃないかと心配になる。みよは、食が太いほうではない。なにかちからのつくものを買っていってやろうかと考えながら、
「大丈夫?」
そうたずねた。そしたら、人を小馬鹿にするように笑いながら
「大丈夫って、なにが」
と返ってきた。
「……体調崩してるんじゃないかなと思って。電話、全然出なかったから」
「ああ」
言葉の続きを待っていたが、みよはそれからなにも言わなかった。なにか元気の出るようなことを話さなければ、という使命感に駆られる。
「そういえば、僕、このあいだ不思議なことをしたんだけど」
菜穂子には言えなかった、僕の理性を捨てた行動。みよに言えば、褒めてもらえると思ったこと。ある男性から手紙をわたされて、名前も知らない女性にわたしてほしいと頼まれたこと。僕がそれを届けたこと。
けれど口で説明した途端、それがとても陳腐なものに聞こえた。みよの反応が、予想よりもはるかに小さかったのもあるだろう。彼女は電話の向こうで「そう」としか相槌を打たなかった。
直接会えば、顔をみて話せば、なにかが変わるかもしれない。しかしいつ会えるのかをみよにたずねても、しかし彼女は「いつだろうね」と言葉を濁すだけで明確な日取りを言わなかった。
「どうしたの?」
「どうしたのって?」
「元気がないみたいだから」
みよとは、三年近くつきあってきた。その月日が長いのか短いのか、僕にはわからない。菜穂子とは、二十年近く一緒にいるのだ。けれど人の気持ちに時間の長さなんて関係ない。みよは変わっているけれど、それでも僕に対して愛情を向けてくれているのだと思っていた。だから一緒にいてくれたのではなかったのか。それなのにみよが、あっさりと僕の前からいなくなってしまう気がしてならない。
「……いなくならないよね?」
幼稚なことを言っているとわかっている。そこでみよが、やっとくすくすと笑った。僕は安心する。それまでとは違って、ちゃんと温度が届いた気がした。
「可愛いね」
安心したのも束の間だった。くぐもった声にはまるでなんの感情もこもっていない。重さを量ったら、きっと一グラムにも満たないような。可愛いね。このひとことを、みよは、だれに言っているつもりだろう。
「僕の前から、いなくならない?」
もう一度聞いた。今度はさらに、切羽詰まった声が出た。みよのくすくすという笑い声がやむ。そして、いなくならないよ、と僕に言い聞かせるように答えた。ほっとして、息をもらす。しかしその直後に、氷が血管に入り込んだみたいな寒気がして、僕の背筋が固まった。
「かわりに」
みよの出してくる条件は、難しくない。いままでずっと僕が簡単に叶えられることだけを口にしてきた。
「私と結婚してくれる?」
そのときの正解は、なんだっただろう。僕は肯定も否定もできなかった。みよのことを好きなのは間違いないはずだった。僕は菜穂子と結婚するつもりはもともとなかった。けれどみよは僕が結婚していることは関係ないと言っていて、むしろだれかのものになっている僕だからこそいいと言ってくれていて、だから、本当のことを言うと、気が楽ではあって、でもやっぱりそれはずるいことで間違っていることで、それでも僕はみよと一緒にいたいから、ちゃんとしたいから、菜穂子と離婚、というのを即座に考えてみる。
それはまったく現実的なことではなかった。僕は、どうすればみよに、「たいへんよくできました」と言ってもらえるだろう。
押し黙る僕に、みよは「嘘だよ」と言った。また、量るほどでもないほどの軽い言葉だった。本心かどうかは、わからない。菜穂子の嘘はすぐわかるのに、みよのことは見破れない。
「ねえ、みよって呼んでみて」
みよに言われて、初めてそう頼まれたときのことを思い出した。あのとき、彼女のことをとてもかわいいと思った。菜穂子とは違う、僕は自由に人を好きになれる時間が楽しかった。
みよ。この名前を呼ぶとき、僕の心は満ちていた。みよ、みよ、みよ、みよ。飽きることなく、蓄積していった。あふれそうになるくらい、名前を呼びたいと思っていた。
「みよ」
彼女との思い出を、ひとつずつ紐解いていきながら名前を舌にのせてすべらせた。みよが、ふっと笑った吐息が聞こえた。
「私のこと、愛してる?」
喉まで言葉が届かない。それに対する返事を、用意できなかった。むなしいだけの空っぽの口内が、あ、と声にならない声を出している。
ごめん、思わずそう謝りたい衝動におそわれた。けれどそれが言葉になることはなかった。ため息がひとつ聞こえ、「私が大丈夫じゃないって言ったらどうするつもりだったの?」と言われたあとに電話がぷつっ、と切れた。
何度かけ直してもみよが出ることはもうなかった。
「お腹、さわってみて」
家に帰ると、菜穂子が笑って言ってくる。僕はいつものようにそのお腹を撫でる。近頃の菜穂子は、浮かべる表情に変化が出てきた気がする。学生のころとはまったく違う。いったいどこでおぼえてきたのか、いわゆる母親みたいな、おだやかな顔。母親みたいな、という言葉は間違っている気がする。母親らしさは呪いだって、なにかの記事で読んだ気がする。だけど僕はそれ以外の表現方法を知らない。
「ほら、パパですよー」
やさしげな声。すべてのことをゆるしてもらえそうな、本当に、このお腹に小さな命が宿っているのではないかと思えてくるような。この手のひらにつたわってくるのは、おそろしく静かな胎動。
「パパもママも、あなたのことを愛しています」
いまはない命、だけどこれから生まれるかもしれない命、生まれないかもしれない命。菜穂子は、そんな存在に呼びかけている。僕たちは、かたちのないものに愛情を注いでいる。これからもずっと、僕はそうやってこの家に帰ってくる。
「ね、パパ」
菜穂子が僕の目をまっすぐにみる。菜穂子の目には、僕がうつっている。「たいへんよくできました」がもらえる答えを言おうとしている僕。
「愛してるよ」
みよに言えなかった一言を、僕はいとも簡単に菜穂子のお腹に向かって吐き出すことができた。
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