ふやける
「あのね、アキとキスをしたことがあるんだけど――」
あの日、楽しそうに話す藤崎五月をみて、かわいそうだと思った。小学生の頃に一度だけしたというキスを、何年も何年も宝物をみせるみたいに自慢してきたのだろう。松田美代や私ですら、秋人とそれ以上のことをしているというのに。そんなことも知らずに、だれもが忘れていることを特別だと思っている。
かわいそうな藤崎五月は私にとって救いだった。高校に上がる前、秋人はあっさりと私を捨てた。
「いいよ。好きにしたらいい」
ひみつをしゃべってもいいのかと聞いても執着なくそう言うだけで、「だれにも言わないで」なんて泣きそうな顔をしていたのが嘘のようだった。あのときの秋人は別人だった。松田美代に騙されてるなんてばかばかしい藤崎五月の発言を、思わず信じてしまいそうになるくらいに。私は、たぶんかわいそうだった。だからもっとかわいそうな人をみて安心したかった。
同窓会で、秋人とは一度だけ目が合った。けれどそれだけだった。言葉を交わすことも、ほほえみ合うこともなかった。私はそれに、腹が立った。たしかに互いを求めていたときがあったのに、「美代とちゃんと付き合いたいから」なんてつまらない理由で私を捨てたから。
私よりもずっとかわいそうな藤崎五月。相手にすらされていないのに、秋人が自分のものになると信じているのは、ある意味で理性が欠如しているのだと思う。自分が秋人と結ばれることを絶対的だと考えているのに、彼女はきっとだれの物語にも入れない。いつまでも仲間外れで、私は、藤崎五月より自分のほうがましという惨めな救われ方をした。それで、秋人から別れを告げられたことをなかったことにしようとした。
「ゆきちゃんは、お父さんと結婚しないの」
ゆきちゃんの家に初めて呼ばれたときは、里芋の煮物と鮭の塩焼きが出た。里芋は溶けるようなやわらかさで、鮭の塩加減もちょうどよかった。ワカメと豆腐の味噌汁は、母がつくるものより出汁がきいていて、とてもおいしいと思った。
ゆきちゃんは、料理が上手なのだと、そのとき初めて知った。
「結婚はしないよ」
箸と茶碗がかちゃかちゃと当たる音、外から入ってくる夕方の風、ときどき通る車の走行音。ゆきちゃんが住んでいた昔の部屋は一階にあって、外からの情報が色濃く入ってきた。いろんな生活の音が鮮やかに耳に残る場所だった。
「どうして? お父さんは、ゆきちゃんといるほうが楽しそうだよ」
父は否定したけれど、父だって本当はゆきちゃんと一緒になりたかったんじゃないだろうか。だからそんな日がくるように、ゆきちゃんには父とずっと一緒にいてほしかった。
「私はあの人と結婚できないよ」
「じゃあどうして一緒にいるの?」
「ひみつって特別な感じがするから」
「じゃあ結婚しなくても、ずっと一緒にいてくれるよね。そのほうが、ひみつだもんね」
私はあのとき、鬼気迫った表情をしていたと思う。必死に、私なりに、ゆきちゃんを繋ぎとめようとしていた。ゆきちゃんは私の言葉に、肯定も否定もしなかった。
「一緒にいたら、いつか本物になるのかな」
鮭の皮を丁寧に剥がしながら、ゆきちゃんが言った。濃淡のない声で、少し怖かった。なにか言わないとゆきちゃんが消えてしまいそうだった。
「本物の恋人になりたいよ、私」
ゆきちゃんと父は、本物だ。にせものなんて、嘘だ。本物ではなかったら、私たち三人で過ごした時間はなんだったのだろう。そのときゆきちゃんの目には薄く涙がたまっていた。追い詰めたらいけない気がして、なにかを言いたいのになにも言えなかった。
里芋に箸を突き刺して、口まで持っていく。甘い味付けで、父もきっとこれを食べたことがあるんだろうと思った。
「ゆきちゃん、私も本物が欲しいよ」
その日同窓会に行ったこと、中学時代、秋人とこっそり仲を育んでいたこと、それなのに簡単に自分を捨てたこと、それを寂しいのだと思っていること。口にすると、悔しいくらい自分の気持ちがよくわかる。私は、秋人のことが好きだったのだ。
ゆきちゃんは、やさしく相槌を打ちながら私の話を聞いてくれた。
「みよりちゃんは、ちゃんと本物をみつけてね」
秋人とのことは、本物じゃなかったんだろうか。気持ちが最後まで通じ合わないと、ぜんぶ嘘になってしまうんだろうか。だけどだれがなんと言おうと、一緒にいた時間は嘘じゃなかった。そう思い込むことはむなしかった。ゆきちゃんにそれを伝えると、軽くうなずいた。
「むなしさにかたちがあったら、捨てておしまいなのにね」
つぶやくようにそう言って、きれいに剥がされた鮭の皮を、ゆきちゃんは最後にぺろりと食べた。
「本当は私ね、結婚したくてしょうがなかったんだ」
ゆきちゃんの口から結婚という言葉が飛び出したとき、頭がふっと重くなった気がした。いま、私がいるのは広い部屋。外からの音が微塵も聞こえない、おそろしく静かな部屋。
ゆきちゃんは、うどんを茹でてくれた。山葵とねぎをめんつゆに浸して、麺を一本ずつ啜る。
「だからみよりちゃんに会いたかったの。あの人と結婚していたらって、想像することができたから。ごめんね、自分のことしか考えてなくて、子どものみよりちゃんを巻き込んだ」
ゆきちゃんは、食べ方がきれいだった。ほとんど音を立てずにうどんを啜っていく。するすると、白く細い道がゆきちゃんの口のなかへ消えていく。
「いいよ」
もしゆきちゃんをゆるすことになるなら、私は自分の口癖を言わないといけない。かわりに、って条件を出させて。
「私のお母さんになってよ」
かわりに、を断る人はいなかった。だって私はいつだって簡単な条件しか出してこなかった。だけどゆきちゃんはやっぱり「ごめんね」と謝った。つるりとした謝罪だった。
「それはできないよ」
わかってる。ゆきちゃんにだって理性はある。
するするする。うどんを啜る。ひやりとしていて少し太いうどん。勢いよく口に入れると、めんつゆが口元に飛んだ。拭きたかったけど、ティッシュはどこかとたずねることができなくて、舐めとった。口のまわりがかゆい。母のギプス。かりかりかりと、皮膚に届かないのに掻いていた手。
ゆきちゃんと父は別れたのに、なんのために母は飛び降りたのだろう。本物になるため? 飛び降りることで本物を得られるなら、なんて薄っぺらい本物だろう。
「私、あきらめずに長く一緒にい続ければいつかはって思ってたけど、無償で思い続けるの、無理だった」
無償で思い続けられる人を私はひとり知っている。藤崎五月が私のお母さんだったらなんて、馬鹿なことを考えた。
口のまわりがめんつゆのせいでごわごわとふやけていく。遠くの空に、ひとつだけ星が出ていた。
「またね」
玄関で見送られたとき、ゆきちゃんに会うことは、もうきっとないのだろうなと思った。ゆきちゃんは、こないだ結婚をしてこの家に引っ越してきたらしい。相手は当然、私がぜんぜん知らない人だ。
「……家族なかよくね」
私は返事をしなかった。あんなにあこがれていたゆきちゃんが、なんだかとても「ふつう」にみえた。立派で広い、頑丈な家に住んでいるゆきちゃんよりも、狭いアパートに一人で暮らすゆきちゃんのほうが好きだった。
だけどそんなことを私が言ったところで、ゆきちゃんは傷ついたりしない。それでも、裏切り者、と口にしたら、ゆきちゃんは困ったように笑った。ゆるされたような顔をしたから、むなしくなった。玄関の扉が閉まる。もう私のためにここが開くことはないのだろう。
ほたーるの、ひかあーり。まどーおのゆきいー。
ゆきちゃんの家を出て、ふと蛍の光が頭に浮かんだので歌いながら帰った。徐々に声を大きくしていったら、すれ違う人みんな怪訝な目で私をみてきた。でもだれもなにも言わなかった。
それ、怖いから歌わないで。
秋人はそう言った。怯えるような口調が可愛いと思っていた。ふるえる両目は食べたいくらい愛しかった。彼はいまもまだ、蛍の光を怖がっているのだろうか。けれどそれを知る術は、私にはもうなかった。
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