はじまる

「……ゆ、き、ひ、ら、さん」

 あの日わたしは雪平秋人に、藤崎五月の存在を告げたのだ。彼はとても不審そうにわたしを見ていたが、店員という立場もあってか、ひとまずはおとなしく話を聞いてくれた。

「藤崎五月さんって知っていますよね。あなたのストーカーをしていますよ」

「……あの、どちらさまでしょうか」

「いや、ただのしがない作家志望でね。でも藤崎さんとは知り合いになりました」

「はあ……」

 瞬きを繰り返しながら目線を店内に向けている。ほかの店員を呼ぼうとしているらしかった。ちょうどわたしの後ろに客が並んだから、「今日も、おそらく来ていますよ」と忠告してその場を去った。

 彼女は言った。理想的なワンシーンを仕立てる。それは正しい。物語には必ず見せ場が必要だった。わたしはわたしのための理想を仕立てる。

 藤崎五月は、どこまで彼のことを信じられるのだろう。どれくらい盲目的に、雪平秋人のことを愛せるのだろう。いつまで待つことができるのだろう。

 それを知るための演出はわたしが用意する。だから藤崎五月には、主人公には、めいっぱい輝いてほしい。

 彼女を傷つけてみたかった。けれど同時に、明日からもまったく変わらずいままでどおり過ごしてほしいとも思った。彼女のことを信じたい。絶望を知ってもなお、希望を失うことをしない藤崎五月を。


 二人のあとをつけると、雪平秋人が突然振り返ったところをみた。彼女たちの会話は、よく聞こえなかった。ただ、藤崎五月が日ごろ想像していたような会話はきっと生まれていない。

 雪平秋人と別れたあとの彼女はどこか放心状態で、せっかく話せたというのに、それまでの恍惚とした表情はみえなかった。

 わたしは背徳感と罪悪感、そしてそれ以上の高揚感に全身がふるえている。藤崎五月が信じていたものに裏切られる瞬間こそが、わたしにとって見せ場だった。それでもまだ光を探していってほしい。どんな絶望を感じても、彼女にはあきらめてほしくない。

 わたしはずっと真っ暗な深海にいる。光が届かない場所で、苦しんでいる。仕事をしていても、なにを書いても、沈んでいった。みえていないだけで、まわりにはきっとわたしと同じような人間がごろごろ沈んでいた。

 藤崎五月にとってはそんな深海すらも舞台にする。暗闇に浮かぶ微生物みたいな餌を大層うれしそうな顔をしてんでいる。その微生物は毒にも薬にもならない、取るに足らないただの塵屑だということに気づかない。だけど彼女には、それはそれはおいしそうな金平糖にみえている。自分の体内から噴出している塵屑を、宝物のようにあつめて、また食んで、吐き出す。彼女はそうやって、一生同じことを繰り返すのだ。

 それでもそんな彼女の姿はわたしにとって希望だった。彼女は未来を信じている。わたしももがいて光にみつけたかった。何度沈んでいっても、わたしは結局書くことをやめられなかった。

〈まあまあといったところ。どこかありふれている設定で新鮮味がない。〉

 そう言われたとしてもいい。ありふれていてもいい。それがわたしの小説だ。

「なぜわたしじゃないのか」という疑問はきっと、わたしたちの共通のものだった。その場に自分の身体しかないから、いつまでもその疑問と対峙することになる。けれどわたしは彼女に引き上げられた。

 彼女はいまだ海のなかにいる。真っ暗で、おそろしく静かな海底。行きも帰りもない、ただどこかに必ずあると信じている灯台を目指して泳ぐ彼女を、今度はわたしが引き上げる。顔を出したその場所が、彼女が望んでいたものじゃなくても。


 朝七時二十分。いつものアラームが鳴る。わたしはベランダに出て煙草を吸う。汗ばむ空気、子どもがはしゃぐ甲高い声、すでに活動をはじめてじわじわと鳴く蝉、ぞっとするほど青い空。

 双眼鏡を構えて藤崎五月の部屋を確認する。今日も彼女は窓辺に立つ。まっすぐと、双眼鏡を通して景色と未来を見据えている。

 今日も彼女は愛おしそうに口元を歪めていた。それは、見ようによってはとてもかわいい顔だと思う。もしも少しでもなにかが違ったら、たくさんの人に愛されていてもおかしくなかった。

 けれどそんなもしもは、やってこない。だれにも届かず、いつまでも伝わらないものもこの世にはたくさんあることをわたしはすでに知っている。


 愛情が目にみえるなら、どんなかたちをしているだろう。触れたらどんな感触がするだろう。鼻を近づけたらどんなにおいがするだろう。もしも口に含んだら、どんな味がするだろう。

 ざらざらしていて、かたくて、でもときにやわらかくて、クリームみたいにぬらぬらしていて。バニラのようでミントのようで、酸っぱいジャムのようでもあって。いくら食べてもお腹がふくれない、魔法でできたお菓子が、たしかにある。

 彼のことを考えるだけで際限なく膨れていく感情が、この身体におさまっているだなんてちっとも信じられない。すでに脳みそも心臓も突き破って、体外に垂れ流されているんじゃないだろうか。そうでもしないかぎり、この感情の先にいる相手に届かない。

 だから血管が破裂してもいい。心臓に穴があいてもいい。脳みそがぐちゃぐちゃのどろどろに溶けたっていい。届いてくれるなら、なんでもいい。


 本当に脳みそが溶けたとしても、藤崎五月はいつまでも双眼鏡をのぞき続ける。目に映っている寝癖に触れようと手を伸ばしている。わたしもどこかに届きたいから、寝癖を直すように指を動かし続けていく。百点でも〇点でも、いつか書き上げた小説で、だれかの心を揺さぶることをしてみたい。

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