したてる
千三百二十二円です、と「雪平秋人」が告げる。わたしは言われた金額とぴったりのお金をトレーにのせる。千、三百、二十、二……と彼が数えて、「ちょうど頂きます、ありがとうございました」と頭を下げる。
藤崎五月は、今日も外で雪平秋人の仕事が終わるのを待っているんだろう。彼女と会ったのは三日前のことになる。わたしは昨日もスーパーに来たが雪平秋人はいなかった。そして当然、藤崎五月も来ていなかった。
だってアキのこと、愛してるから。
そう彼女に返されたあとに、わたしはたずねたのだ。「話しかけはしないのか」と。藤崎五月がどこまで本当のことを言っているのかはわからないが、きっと幼馴染みであることは真実なんだろう。そんなに彼のことを愛していて、みているだけで満足できるのか単純に気になった。
「待ってるんですよ」
藤崎五月は、考える素振りなど一瞬もみせずに即答した。
「理想のシチュエーション。小説を書いているならわかってくれると思うんです。私はあんまり小説って読まないんですけど。漫画とかドラマとかって、絶対に盛り上がる場面があるじゃないですか。見せ場っていうんですか。何話もかけて準備して、脇役たちを土台にして、理想的なワンシーンを仕立てる。いまの状態は全部、私たちが祝福されるための準備期間なんです。だからそれを待ってるんです、ずーっと」
ずーっと、という最後の言葉の響きが、やけに重かった。グラスに手をやったが、アイスコーヒーはとっくになくなっている。そこには氷が溶けたあとの薄茶色に濁った水だけが入っていた。
「どれくらい待ってるんですか」
「アキのことを好きだと気づいたのが十四歳のときだから、それでもまだ八年くらいですね」
「八年」
「人とのつきあいに時間なんて関係ないって言いますけど、まあたしかに時間を必要としない人もいるのかもしれないけど、それでも長い時間はやっぱり必要なんです。待てば待つほど、その場面は輝くでしょ」
「それはなんというのか、空腹のほうが食べ物をよりおいしく感じるような……」
「あ、すごい、まさにそんな感じです。たくさん待って、思いを募らせて、やっと手に入れることができたものって、自分にとってとても愛おしいものになりませんか。絶対に手放したくないって、一生自分のものにしたいって思いませんか」
たくさん待って、思いを募らせて、やっと手に入れることができたもの。わたしにとってそれは、小説が受賞したときなのかもしれない。そう思うと、彼女がうっとりと視線を泳がしているのもうなずける。
「手に入るといいですね。そんなに待っているなら」
「いいですね、というか、絶対手に入ります」
藤崎五月には見習うべきところがある。たとえばその自信。臆せず絶対という言葉をつかう。自分を信じる心。それは落選し続けてきたわたしが失っていたもの。
「あのね、アキってかわいいんですよ。かわいいなんて言ったらアキは拗ねると思うけど。でも、朝起きると寝癖がついていて、そういうところ。髪を切った翌日とかでもついてるんです。きっとあれ、一生直らないんだろうなあ。襟足の、ここらへん……ぴょっ、て、後ろに跳ねてるの。だから私はアキのとなりで寝てあげなくちゃ。朝起きたら私が寝癖を直してあげるんです。でも何回撫でつけても、何回もぴょっ、って跳ねちゃう。それで私たち一緒に笑って、一緒に起き上がって……そういう毎日が絶対にくるんです」
「絶対?」
「そう、絶対です。だって、アキも私のことを好きになるに決まってるんです。まだ気づいていないだけで」
「だけど雪平さんって……彼女、いますよね」
藤崎五月に、もっと踏み込みたかった。彼女がなにを考えて、雪平秋人たちのあとを追いかけているのかを知りたかった。彼女は、グラスのなかの丸まった氷をひとつ掬って、口に放り込んだ。がりがりがりと、小柄な彼女に似合わない低音が鳴った。
「アキは、とても正直で素直だから……騙されてるんです、あの女に。アキはいつか傷つくと思います。騙されていたとわかったときに、苦しい思いをする。考えただけでも胸が張り裂けそうです。でも、そんなときに私が現れたら、理想的ですよね、だれにとっても」
「……もしも、雪平さんが傷つくことがなかったら?」
「アキはとてもやさしいから、裏切られたら傷つきますよ、絶対」
そのときわたしは、「雪平秋人は騙されていない」という可能性を提示したつもりだった。あの夜一緒に帰っていた二人は、どこからどう見ても、まったくふつうの恋人同士だった。けれど藤崎五月は、そもそも「騙されている」以外の可能性がないと思っているようだ。それこそまさに、絶対的に。
「それで、偶然出会うっていうのが大切で、だって突然話しかけにいくなんて、まるでストーカーみたいじゃないですか」
自分がそのような存在であることをまったく自覚していない藤崎五月は、理想のワンシーンを思い描いたのか、幸福な夢でもみているような顔つきになった。
「……ゆ、き、ひ、ら、さん」
一文字ずつ、ひらがなで。ゆきひら、ゆきひら、雪平。その名を確認してゆっくりと口にした。声は、少し上擦っていたと思う。
雪平秋人が不審そうな目でわたしを見る。閉店時間が近いから、店内では蛍の光が流れはじめた。ご利用、ありがとうございました。音楽と共にそんなアナウンスがわたしの耳に届く。
理想のシチュエーション。藤崎五月がそれを求めるのはよくわかる。小説を書くうえでも、見せ場はなくてはならないものだ。盛り上がりのない小説なんてつまらない。
藤崎五月の顔がいつまでもちらついている。双眼鏡から雪平秋人をのぞくときの笑顔、わたしに雪平秋人のことを話しているときの希望に満ちた面持ち、謙虚な言葉を使いながらも心の底で思っていることが滲み出ている、見え透いている表情。
「でも昔から思うんです。幼馴染み同士で結ばれるなんて、すごくありふれてますよね。友人たちは、それがいいんだって言っていたけど。だから、私をモデルにしてもおもしろくならないって言ったんです。ドラマでも映画でも漫画でも、そしてきっと小説でも、こんな恋愛は使い古されてますよね?」
彼女にとっては、ありふれている。けれどだれにも真似できない、絶対的な恋愛。邪魔するものは薙ぎ払って、彼女にしかみえないお菓子を拾いにゆく。
ありふれていてけっこう。それをわたしが小説にしてみせる。ありふれていることのなにが悪い? だれだって、わたしだって、皆ありふれた生活を送っているというのに。
「わたしも、ありふれている恋愛だからこそいいと思うよ。それは結局、多くの人があこがれているということだろうから」
彼女が望むであろう言葉を口にすると、藤崎五月は、たいそう満足そうな顔をしてうなずいた。
「私とアキが結ばれたとき、興梠さんも祝福してくださいね」
がりっ、と氷を噛む音のあとに、藤崎五月のかわいらしい声が響いた。
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