やぶれる
「そういえば、ドレスはもう決まったの?」
「うん。決まったよ。でも当日までひみつね」
「そうねえ。楽しみだねえ。拓実くんは当然知ってるんでしょ?」
ふいに自分へ話題を振られて、反応が遅れる。観たことのない二時間ドラマの再放送の展開が、やっと気になってきたところだった。口をひらくだけで言葉を発さない僕を助けるように、
「拓実くんは、一緒に選んでくれたもんね」
と、菜穂子がすかさず口を挟んだ。
「菜穂子、すごく悩んでいたよね。結局六着くらい試着した?」
「あらそんなに? 時間かかったでしょう。拓実くん、いつも悪いわねえ、菜穂子のわがままにつきあってもらって」
「いえ……もう慣れてますから」
冗談めかした僕の答えに、菜穂子の母親は満足そうな顔をする。菜穂子にちらりと視線をやると、意味ありげにほほえんだ。あれは「概ね良い」の顔。通信簿を差し出して、はんこをもらっているような気になる。
「でも本当によかったわあ。拓実くんと菜穂子が結婚して」
菜穂子の母親はこの一言をこれまでに何度も言ってきたが、毎回はじめて口にするかのような感慨を込める。同じことを飽きもせず繰り返せるのは一種の才能だ。
今日は、前から菜穂子の母親が遊びに来たいと言っていた日だった。昨日菜穂子がこの家を一生懸命掃除してくれたおかげで、歩くのも申し訳なくなるくらいきれいな空間になっている。
「昔から菜穂子は拓実くん拓実くんってうるさくてねえ。幼馴染みだからって、甘えすぎているんじゃないかって心配だったのよ」
「いや、むしろ僕のほうが菜穂子に甘えっぱなしですよ」
ドラマの内容はもう入ってこない。けれどなにがなんでも観たいわけじゃない。「概ね良い」の顔のまま、菜穂子がうなずいている。つくられた二時間程度のドラマより、これから長く続く僕の人生の成績のほうがよっぽど重要だ。
「そうだよ、拓実くんってば、案外子どもっぽいところがあるから」
「それは菜穂子もでしょう」
部屋の冷房は二十三度に設定していて、少し肌寒い。けれど菜穂子も菜穂子の母親も、袖のないシャツを着て平気な顔をしている。
さっきまで菜穂子が茹でた蕎麦を三人ですすっていた。菜穂子の母親が、おいしい山葵をもらったとおすそ分けしてくれたのだ。それはたしかにおいしくてまろやかで、つんとする痛みと匂いが鼻の先まで抜けていった。
「まあ、あなたたちまだ若いから自由にやったらいいわ」
テレビのチャンネルがふいに変わる。菜穂子の母親が、リモコンを勝手に操作していた。大丈夫。ドラマに興味はなかった。それにそういうところに気を遣わなくていいのが、昔から続いている僕たちの関係のいいところだ。
義父や義母とどうつきあえばいいのかわからないという友人の話を聞くたび、僕は恵まれているのだと思える。苦手意識はない。昔からよくしてくれていた人たちだから。菜穂子も然り。
「だけど子どもは、産むなら早いうちがいいんじゃないかしら。私たちもまだ面倒みられるし」
この話題に対しての正解を、僕はすぐ脳内へ探しにいく。僕の頭のなかは酸素が届かない海だ。遠くまで見通せるようなきれいな海じゃない。廃棄物がたくさんあって濁っている。僕はもがきながら手探りで正解を探した。
妊娠しているという嘘と、まだ妊娠していないという事実を不自然なく組み合わせた正解を、菜穂子の母親に伝えなくてはならない。
「そこは、僕たちのペースでやっていきますよ」
口を動かしながら菜穂子の表情を確認する。口角は上がっている。だけど目の動きは止まっていた。あれは「もう少しがんばりましょう」の顔。せっかく息苦しくなりながらも答えをつかんだのに、このまま沈みそうになる。正解を。早く僕に〇を。
「ねえそういえば拓実くん、敬語なんか使わなくてもいいのよ。昔は平気で友達みたいに話してくれたじゃない。本当の家族になったんだから、気にしないで」
はは、と笑いながら返事をした。本当の家族。自分たちの名前、保証人、住所、ずらずらと指示されるまま婚姻届けに情報を書いた。紙切れ一枚でできあがった家族のかたち。少しちからを入れれば簡単に破れるのに、家族の絆はどんどん堅牢になっていく。
菜穂子の母親が変えたチャンネルは番宣用のクイズ番組だった。不正解を笑いに変える芸人と、それを揶揄するメインキャスター。たとえば僕がここで「菜穂子が妊娠したと嘘をついて結婚を強いてきました。僕は菜穂子との結婚を考えていませんでした」という不正解の回答をしたら、だれかが笑ってくれるんだろうか。いや、だれも笑わない。僕が間違えた、という事実が残るだけだ。
本当の家族には、本当のことを言えない。
「でも実は、菜穂子といるときはおばさんって呼んじゃうんですよ、昔みたいに」
菜穂子の母親に話しかけているのに、僕は菜穂子の顔をみている。たいへんよくできました。菜穂子がそう笑っている。満足そうに、頬を持ち上げている。大きな赤い〇が、僕の顔に描かれた気がした。
「いいのよ、直接呼んで。お義母さんなんて、今さら呼びにくいものね」
義母もそう言って楽しそうに声を上げた。血のつながりがないことなどものともしない、なにもかもを受け入れるような笑顔。本当の家族に、そんなことは関係ない。本当の家族は、心でつながっていくもの。僕もふたりに負けまいと、一生懸命笑ってみせる。
みよ。心のなかでつぶやく。会いたかった。みよは僕の家族ではなかった。だから会いたかった。幸福が充満する二十三度の空間は僕にとって寒くて息苦しい。
唐突に、ぴり、と不吉な音がした。
「税金の手紙が多すぎて困るよ」
それは菜穂子が役所から届いた手紙の封を破いた音だった。
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