てばなす

 子どもが本当にお腹のなかにいるのか、そんなことを聞く夫は間違っているだろう。そのときの菜穂子は、石にでもなったみたいに表情を変えず、まばたきすらしなかった。菜穂子が黙っていたのは、おそらくほとんど一瞬だった。それでもその時間を長く感じたのは、僕がいろんなことを考えていたからだと思う。

 拓実くんのこと、逃がさないよ。

 最初は、みよのことに勘付いているから、菜穂子は牽制のつもりでこんなことを言ったのだと思った。けれどみよなんて、本当は関係ないのかもしれない。ただその言葉のとおりの意味でしかないのかもしれない。無表情のままかたまった菜穂子からひとつも感情を読み取れなかった。

「子どもがいなかったら、拓実くんはどうするの?」

 菜穂子が僕の手をするりと握ってそう言った。いつもの菜穂子と同じ声。たとえば、お米が炊けたよ、とか、明日は雨らしい、とか、新しいiPhone高いね、とか。そういう他愛のない、言っても言わなくてもどちらでもいいことを言うときと変わらない声色だった。

 菜穂子の手はひんやりとしていて、爪が伸びていた。親指と人差し指の付け根に、彼女の鋭い爪がぐっと刺さった。そのまま皮膚を突き破って侵入でもしてきそうな、強いちからだった。

 鎖骨から下顎にかけて、首筋全体に蛇が絡みついてきたような、切羽詰まった息苦しさに襲われる。いつもは後ろから僕の頭を前にぽん、と倒してくれる何者かが、じわじわと首を絞めているみたいだった。

 なんと答えるのが正解なのだろう。もし間違えたらどうなる? 菜穂子はついに僕に愛想を尽かすかもしれない。いや愛想なんてとっくに尽きているのかもしれない。間違っていようが正しかろうが、僕は今日とそんなに変わらない明日を迎え続ける。

 コドモガデキタ。あのとき答えを間違えたけれど、それでも僕は菜穂子と結婚した。

 コドモガイナカッタラ、タクミクンハドウスルノ。

 また一文字ずつ、ひらひらと、宙を舞っている。コドモ、という言葉をなんとか掴むと、釣られてあとの文字が繋がって僕の頭に浸透する。

「……どうも、しないけど」

 コドモガイナカッタラ。きっと僕は今も菜穂子と結婚をしていなかった。けれど子どもがいないとわかっても、僕はこれからも菜穂子と一緒に居続けなければならない。

 僕は結局、振り払えない。菜穂子と離れることになったときに多方からなじられる言葉の数々を思うと、うんざりする。理性をなくせるのはいっときだけ。一生理性を失えるほどの覚悟は、僕にはなかった。そもそもそんなものがあったら、いま菜穂子といないだろう。僕はもう、それを欲しがることもゆるされない。

「僕たち、もう、結婚したんだし」

 僕のこの言葉は、菜穂子にとって諦めや絶望に聞こえるだろうか。それとも希望になるんだろうか。ずっとかたまっていた菜穂子の表情がくずれた。ドレスを褒めたときにみせたような、薄い笑いかた。

「そうだよねー」

 菜穂子の手がほどける。そこでやっと僕は、彼女のお腹から手を剥がした。彼女の服に、僕の手汗がぽつぽつとついていた。目、口、耳。汗のあとが人の顔にみえて、うわ、と小さく呻いた。

「なに?」

「いや、人の顔にみえたから。汗のあと」

 どっ、どっ、どっ、と僕にしか聞こえない音で心臓が鳴った。菜穂子のお腹にうまれた顔は、檻から出せと喚く囚人を想起させて気味が悪い。

だ けど菜穂子はしあわせそうに、赤ちゃんの顔みたい、と言った。機嫌がよくなったようだった。

「ねえ、今日、してあげようか?」

 菜穂子が臆面もなく言うので戸惑った。いたずらっぽい、クリスマスの朝プレゼントがきているか確認する子どもみたいな顔。その表情に既視感を覚えた。懐かしさがこみあげてくると同時にぞっとする。

 高校生のころ、初めてセックスをしたとき。手探りで、始めかたも終わりかたもよくわからないまま、僕たちは抱き合った。そして最後に息をととのえて、互いの顔をゆっくりとみたときの、菜穂子の顔。

 あのときは菜穂子のことをとてもかわいいと思った。菜穂子とつきあうことができてよかったと、自分は世界一の幸せ者なのだと心から思ったのをおぼえている。

 いま、菜穂子はそのときと同じ顔をしている。それなのに僕はもう、その表情を、そんな表情をつくる菜穂子のことをかわいいと思えない。あのころからなにが変わってしまったんだろう。それともなにも変わっていないから、こんなふうに思うのか。

 子どもが本当にいるのかという問いに、結局菜穂子は答えなかった。だけどきっとこれからも菜穂子は僕にお腹をさわらせてくるんだろう。そして僕はまた、言われるがままそのお腹を撫でていく。おそらく、本当の「コドモガデキタ」まで。

 菜穂子が僕の嘘に言及してこないのと同じように、僕も彼女の嘘に触れない。互いの見え透いた嘘を、どこまでも信じていく。それが僕たちの「正解」なんだろう。

まわりから羨まれる「幼馴染みとの結婚」を、菜穂子は逃がさない。自分が主人公でいられる立場を、手放すことなどしない。現在の住居を決めたときと同じ。自分の希望がおおむね通った自身の人生に、菜穂子は満足している。

「できないでしょ」

 離婚を口にしたとき、みよはあっさり僕を見定めた。菜穂子が離婚をしてくれないだけじゃない。別れられないのは僕も同じなのだった。僕をおとなしくさせるのは理性じゃない。周囲からの、多くの正しい声だった。僕は正しいことに弱い。正しいことの前では、ひざまずかなくてはいけない気になる。

 いままで抱えこんできた感情を、理性のかわりに手放すしかなかった。

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