ほしがる

「大丈夫?」

 そうたずねる以外に、なんと言葉をかけるのが正解だったのだろう。こういう聞き方をするのは相手が「大丈夫」としか答えられないから極力避けたほうがいい、というのを大学の授業で習った気がするけれど、結局「大丈夫?」以外の言葉は思い浮かばなかった。

 右足にギプス、腕の何か所かに包帯を巻いている母は、私の問いに不満げな顔をつくり、教授が懸念していた「大丈夫」という答えとは正反対の言葉を発した。

「大丈夫なわけないでしょ、みえてる? わかってる? 入院してるの。痛いの。この脚、みてよ。あたし、飛び降りたの」

 教授が話していたのは、大丈夫じゃない人ほど大丈夫と言ってしまう、だっただろうか。母は、本当は大丈夫だから、大丈夫じゃないと簡単に口にできるのかもしれない。

 まくしたてる母に気づかれないように小さくためいきをつきながら、「そうだね」と返事をする。短い返事が気に食わなかったらしく、

「みよりだけなの?」

 と、声を鋭くした。私のほうを睨んでくると思ったらすぐ涙目になって、くちびるを小刻みにふるわせた。顔が赤くなっている。いま、泣こうとしているのだとすぐにわかった。個室じゃないのにやめてほしい。

「お父さんは仕事だよ。今日平日だよ」

「仕事なんてねえ、こんな状態のあたしを放って、どうしてそんなことができるんだろうね、ねえ」

 中学生のこと、ね、ね、ね、と同意する女の子たちのことを思い出した。みんな、なぜそんなに同意を求めたがるのだろう。欲しがるのだろう。ゆきちゃんは、そんなことをしなかった。私や父に、ねえ、なんて馬鹿みたいにうながしてくることなんてしなかった。

 返事をしないでいると、ついに母がぼろっと涙を流した。目もとに注目すると、涙よりも深い皺が気になる。涙は皺に引っかかることなく頬まで垂れた。

「ふつう、仕事を休んでずっとあたしのそばにいるべきでしょ。こんな怪我してるのに、どうして一緒にいてくれないのよ、変じゃない? 本当に仕事?」

 勝手に自分から飛び降りたというのに、被害者面をする母にうんざりした。思わず大きく漏れそうになるため息を、息を止めて抑える。ため息なんて聞かれたら、さらに被害妄想が炸裂するに違いない。

「ねえあたし、ずっとここにひとりでいなくちゃいけないの?」

「仕事が終わったら行くって、朝は言ってたけど」

 父からの電話を受けて、昨日実家へ帰ってきた。今朝、父は「美津さんに行くって伝えておいてくれないか」と言って八時に家を出た。深刻に心配しているような表情ではなかったけれど、父は行く気がないのに行く、だなんてつまらない嘘はつかない。行かないなら行かないと、本当のことを言う。

「本当? 本当に来てくれる?」

「さあ。面会時間に間に合わなかったら無理だけど。お母さん中心に生きてるわけじゃないんだよ、お父さんだって、私だって、ほかの人だってみんな」

「なんでそうやって、すぐあたしを悲しませることを言うの? あたしそんなにわがまま言ってる? ただそばにいてって言ってるだけでしょ?」

 そこで母がうわああ、と叫びながら泣き出した。頭を布団にあてて、うわああ、ああああ、と上半身を最大限動かしている。本人は必死なのだろうけれど、片脚だけ太くなったギプスは、言ってはなんだがどこか間抜けで、駄々をこねる子どもみたいな泣き方も相まって、母の姿は少し笑えた。

 しかし落ち着かせないと、さっきから相部屋の患者が迷惑そうな顔を私たちに向けている。私は母に聞こえないように重い息を短く吐き出した。

「早く仕事を終わらせるって言ってたよ。それってお母さんに会いたいからでしょ」

 そう言ってやると、母は顔を上げた。鼻水が出ている。透明ではなく黄色がまざった鼻水は、汚かった。

 母の泣き言には慣れている。彼女が言ってほしい言葉も知っている。心にもない私の慰めを聞いて、母は本当に満足しているのだろうか。

 ちっ、と低い舌打ちがふいに聞こえた。母の隣のベッド、カーテンが引かれているから姿まではみえないけれど、あきらかにこちらに対して不満を告げる舌打ちだった。

「あのねえとなり、おばあさんなんだけど、いっつもあれしてくるの、舌打ち。あたしのこと傷つけてくるの」

 声をひそめて母が言う。あ、と思う。母の口もとが、にやけている。彼女にとって、被害は栄養なのだ。きっと父に告げ口して慰めてもらうつもりなのだ。大丈夫じゃないって、いったいどういう状態になれば、大丈夫じゃないのだろう。

「ああ暑いな、なんでこんな夏にこんなもの巻かないといけないんだろ。蒸れて暑い。暑いしかゆい。暑い暑い暑いかゆいかゆいかゆい」

 かりかりかりと、母がギプスに爪を立てる。絶対に皮膚には届かないのに、包帯の上からかゆみをまぎらわそうと一生懸命指を動かしていた。それをみていると、私まで身体のどこかがむずがゆくなるような気がした。

「ねえ愛してるって、みよりはだれかに言われたことある?」

 母の突然の言葉に身を引く。どうしてそんなことを聞いてくるのかわからなかった。母親が娘に言う言葉として、適切なものだとは思えない。なんだかとても、どうでもよかった。

「言われたことないよ」

 静かに返すと、「かわいそう」と母が言った。

「でも言葉なんて嘘ばっかりだから。愛してるなんて言える男ほど、信用できない男はいないから」

 母が欲しがっているのは言葉ではないらしかった。だけど言葉がないと安心できない。母がこぼした「かわいそう」という言葉にだって、なんの意味もない。そう自分に言い聞かす。

 言葉が目にみえるものなら、どんなかたちをしているだろう。愛、という字はそのままのかたちなんだろうか、さわったら、やわらかいのだろうか。それともとてつもなく強固にできているのだろうか。

 強固な、愛というかたちを想像する。ぶつかったら痛そうで、のしかかられたら重そうで、気軽にどこかへ放り投げることもできなさそうな、大きな愛の字。母はそんなかたちを欲している。言葉が目にみえるなら、きっとだれも不安にならない。

 ゆきちゃん。ゆきちゃんも、愛が欲しかったんだろうか。

 愛はいらない。母をみていると、それがとても厄介なものだと感じるから。愛じゃなくていいから、私をみてくれる人が欲しい。目が合っただけで互いの気持ちが通じ合うような相手が欲しい。

 私が黙ると母はまた不機嫌そうに、かりかりかり、とギプスの上からふくらはぎのあたりを掻いた。届かない部分に手をのばそうとする姿はじれったい。ぜんぶ取っ払って、思う存分掻いたらいいのに、と思う。


 その日、私は父が来るのを待たずに病院を出た。母は私のことを引き止めたりはしない。父の場合だったら、母はまわりの迷惑を省みずに泣きじゃくって「帰らないで」と叫ぶのだろう。そしたらきっと、隣のおばあさんに、舌打ちをされるだろう。

 ゆきちゃんにはしばらく会っていない。母はずっと「不倫してる」と言い続けているけど、実際、父とゆきちゃんがいまでもつきあっているのかはわからない。父の口からゆきちゃんの名前が出ることは、ここ数年なかった。

 病院から家までの道で、たくさんの人とすれ違う。ひとりで音楽を聴きながら歩く私と同じ歳くらいの男性、手を繋いで楽しげに話すカップル、ベビーカーを大切そうに押すあやす母親、スーツを着てハンカチで汗を拭う疲れ切った顔のサラリーマン。私はだれのことも知らない。きっと一生関わることのない人たち。それぞれにそれぞれの生活があるということを、そのとき無性に強く感じた。

 夕方が少しずつ近づいてくる。さっきまで遠い場所にあった太陽が、地面に向かっていた。

 かりかりかり。母がギプスを搔く音が鼓膜の奥でよみがえる。私は、むなしさを感じているのだと思った。ぬるりと一日の終わりに向かって進む時間のなかで、いま自分がひとりでいることに。

「みよりちゃん?」

 前のほうから、声が聞こえた。唐突なデジャブ。こんなふうに前にも、自分の名を呼ばれたことがあった。だけどあのときは、暑くなんかなかった。そう、三月のまんなかを過ぎた頃で、近くで真っ赤な梅が咲いていた。

「え、うそ。びっくりした。みよりちゃん、全然変わってないね。すぐわかった。ごめん思わず呼び止めちゃった」

 黒いTシャツに、色がされたようなゆるいジーパン。くたびれたサンダルを視界に入れてから、ゆるゆると顔を上げた。右手にスーパーの袋を提げていて、その中から長葱が一本飛び出ていた。

「……ゆきちゃん」

「そういえば前にも、こんなふうに会ったことあった?」

 日が沈みはじめて、辺りが薄暗くなる。誰かに名前を呼ばれる私は、もうむなしさを感じない。

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