みえすく

「それにしても私をモデルって、本当にいいんですか? 本当にそれでおもしろい小説になりますか?」

 藤崎五月がストローのほんの先端を咥えてアイスロイヤルミルクティーをするりと飲む。彼女の持つグラスの中の容量が少しずつ減った。その動きに合わせて、わたしも運ばれてきたアイスコーヒーを口にする。

 店内は洒落た外見とは裏腹に、そこまで気取った様子がなかった。大手カフェチェーンの大きく変わらない内装に、先に入っていてもよかったと小さく後悔する。足の指先を開いたり閉じたりしながら軽く視線を動かした。窓際から自然光が入り込んで、店内全体が明るい。勝手に薄暗い雰囲気なのかと想像していたのでなんだか拍子抜けした。小さな音量で流れるジャズにかぶせて、店員同士の仲良さげな話し声も聞こえてきた。

 そんなたいした特別感のない空間のなかにいる藤崎五月は、本当にどこにでもいそうな、ごくごく普通の女子大生にみえた。服装も、肩で切り揃えられた髪型も、話しかたも、謙遜の仕方も。

「五月さんは、わたしにはない考えを持っているような気がして」

「それはそうですよね。興梠さんとは性別も年代も暮らしかたも違うんだから」

「まあ、それはそうなんですが、なんというかそういうことではなくて」

「そういうことではなくて?」

「藤崎さんはふつうとは違うんじゃないかなって」

 藤崎五月がそこで大きく噴き出した。フロアを歩いていた店員がこちらに視線を送ったのがわかった。

「ぜんぜん、ふつうですよ私なんて。家庭環境も学校生活も、勉強も、運動も、人並みです。恋愛だって」

 人の思考を読むのは元来苦手なはずだった。空気が読めないと揶揄されたことも幾度となくあった。それなのになぜだろう。わたしは彼女の考えていることが、手に取るようにわかる。まるで思考そのものが流れ込んでくるみたいだった。

遠慮をしているようで、本当は遠慮をしていない。自虐しているようで、自愛している。話すことなんてないと言っているようで、話したくてたまらない。

 身体が透明なのではないかと疑ってしまうくらい、藤崎五月は見え透いている。

 彼女のくちびるの端が少しずつ上がっていった。込み上がる感情を抑えきれないとでもいうように。その抑えているものが爆発したら、わたしが毎朝見ているときの表情になるのだろう。

「藤崎さんは、いままでどんな恋愛を?」

 彼女の身体が本当に透明だったら、きっと恋にまつわるものがたくさん詰まっているのがみえただろう。ゾウにのみこまれたウワバミを、簡単に見破ることができるように。

「私の恋愛なんて、本当におもしろくもなんともないんです。経験なんて全然なくて、だってずっとひとりの人を好きなんです。アキ……興梠さんがユキヒラかユキダイラかわからなかった彼のことなんですけど。私たち、結ばれるんです、この先どこかで。小さなころからの幼馴染みで。本名は雪平秋人っていうんです。冬に降る雪に平、季節の秋に、人。なのに夏生まれ。おもしろいですよね。なんか、予定よりもずいぶん早くに産まれちゃったんだって、アキのお母さんが前に言ってました。あ、そうだ、もうすぐです。アキの誕生日。八月三十日です」

 手紙をあの配達員に託したときから、わたしには少し不安があった。彼女が返事をくれたとして、会えたとして、話を聞けたとして、しかしわたしの想像を裏切るような、わたしと同じだったとしたら。

ありふれていない話を書きたい。だから、ふつうでない彼女であってほしかった。

「アキは野球部だったんです。中学の頃から。すぐレギュラーになって先輩からも期待されていて。すごくモテるってわけじゃないけど……。同級生だけじゃなくて先輩や後輩からも。周りはアキくんアキくんって呼んでたんですけど、だから私だけなんです、アキって呼ぶの」

 アイスコーヒーを飲む暇もない。わたしが何かを聞く前に、藤崎五月は矢継ぎ早に例の彼について話してくれる。話したくてしかたがないと、表情が告げていた。

「前にね、キスをしたこともあるんです。私たち、まだ小学五年生で、ただドラマの真似をしたかっただけで。だけどあのときのアキ、なんだかとてもうれしそうで。鼻と鼻が当たって、ね、不器用ですよね。いまならもっと、上手にできると思うんですけど」

 どうして彼女はこんなにうれしそうに雪平秋人のことを話せるのだろう。恋愛の話というのはたしかにこの年代の女性たちにとって、楽しいものの一つなんだろう。だからこそ友人同士で話しているとでもいうような淀みのない口調に違和感をおぼえる。

「夏祭りも一緒に行ったんですよ。中学のとき。アキが家まで誘いに来てくれて。自分で出すって言ったのに、アキが私にりんご飴を買ってくれて、私の舌が真っ赤になっちゃって。それ見てアキが指差して笑って、私、最初は拗ねたんですけど、そのうちおもしろくなって。ずーっと笑ってたなあ。そうしているうちに花火が上がって、はじめてあのとき手をつないだんです。キスよりあとに手をつないだことがやっぱりおかしくて。あ、あと、アキの実家と私の実家ね、近いんです。いまはお互い一人暮らしなんですけど。だから夏祭りの帰り道だってずっと一緒。そういうのっていいですよね。デートってしている最中はすごく幸せだけど、帰るときはさみしいじゃないですか。だからぎりぎりまで一緒にいられるのが嬉しくて。早く一緒に住みたいなあ。私、あのときのことクラスの女の子たちに自慢したかった。でもアキは恥ずかしがり屋だから、だれにも言わないでって。興梠さんなら大丈夫ですよね。あ、でも、あのスーパーに行ってるんでしたっけ? アキには言わないでください、恥ずかしがるから」

 ふふ、と吐息をこぼし、照れ隠しなのかアイスロイヤルミルクティーを一口。彼女はまるで台本を読んでいるみたいだった。すでに何度も練習したセリフなのだと思えるくらい、すらすらと言葉をつむぐ。

 いま話してくれたことがすべて本当でも嘘でもどちらでも構わない。むしろ彼女のただの妄想であってほしい。いや、妄想でなくてはならない。

 ふつうじゃない。藤崎五月は、まったくふつうとはかけ離れている。彼女は、わたしにとってそういうであらねばいけない。

「ね、すごくふつうなんですよ。こんなので小説になるのかなあ……。でも、ふつうの小説があってもいいのかもしれないですね。ふつうでも、どんなにありふれていても、私はアキと出会えたことは運命だと思ってるんです。出会うべくして出会ったって。だから、他人からみたらふつうのことかもしれないけど、私にとっては特別なんだって。だからもしかしたら、ふつうの小説が、だれかの特別になるかもしれないですよね。私は特別な主人公だから。興梠さんは運命って信じますか?」

「いや、運命というのは……よくわからないけど、自分のことを特別だと思っていたときはたしかにわたしにもあったよ」

「いまは違うんですか?」

 絶対作家になれますよ。あの言葉は、わたしをどこまでも特別にした。わたしが小説を書けばすぐに売れて、多くの人に注目されると思っていた。たくさん褒められて、学生のころ馬鹿にしてきた連中を見返してやれると思っていた。

「あ、もしかして、大人になったらそういう感覚を忘れていくものとか思ってますか? 若いころは、とかいうことをすぐ言う人いますよね」

 うまく返事ができずに黙っていると、藤崎五月はからかうような口調でそう言った。

「だれがなんと言おうと、私は主人公で、選ばれた人間だと思います。だれもが自分の人生の主人公、とかそういう次元の話じゃなくて。なんです」

 店内にはほかに数組若い客がいた。そっと彼らの顔をうかがうが、だれの顔もおぼえられない。藤崎五月の顔だけが、強烈にわたしの脳に残る。輝いていている。まさしく、彼女は主人公である。わたしにとっての、主人公。

「ねえ、興梠さんは恋人いますか? あ、もう結婚してたりしますか?」

「いや、わたしは独身だし、相手もいない」

「なんだあ。私だけのろけちゃってごめんなさい。でも、あの、恋愛って、すごく楽しいですよね。もちろん人生に必須というわけじゃないけど、私にとってはなくてはならないものです。あのね、私ずっと思ってるんです、恋は落ちるものではなくて拾うものだって。アキは、いつもおいしそうなお菓子、金平糖とか飴玉とか、かわいいかたちのお菓子です。それを私に落としてくるんです。だからそれをずっと拾ってきた」

「こんぺいとう?」

 突然、抽象的なことを言うから思わず聞き返した。藤崎五月は、気を悪くした様子もなく、むしろ得意げに話を続けた。

「もしかして知らないですか? ほら、あの星みたいなかたちをした小さなお菓子」

「いや、金平糖そのものは知っているけど」

「よかった。それで、そのお菓子を拾ってあげているんです、アキが気づいてくれるまで。気づいてくれたら、一緒に食べられるでしょ」

「だから、朝、彼を覗いたり、夜は家までついていったりしてるんですか、その、お菓子を拾いに?」

 たずねたあと、気まずくなってすぐにアイスコーヒーを一気に飲んだ。最後の一口を飲み干したとき、ずずっと不自然に音が立って肩がふるえた。彼女はわたしの言葉に怒りも悲しみもみせなかった。まばたきを二回。それから、自分は世界一幸福だと思っているかのような満面の笑みを浮かべ、

「だって、アキのこと愛してるから」

 と、言った。

 むなしさが目にみえるなら、どんなかたちをしているだろう。前は、わたし自身をかたどった、猫背のかたちをしているのだと思っていた。

 けれど藤崎五月の、宙に浮いただれにも届かない重々しい愛情が、いまはなによりむなしく感じた。そのむなしさは、萎まずにどんどんと膨れ上がっていく。

 わたしの両手で、むなしさが蠢いている。藤崎五月のもとで、煌々と輝いている。

 ずっと、だれにも届かない小説を書いてきた。これからも、届くかどうかわからないものを書こうとしている。だけどわたしは、藤崎五月よりはむなしくない。そう思った。

 藤崎五月のミルクティーはいつのまにか空になっていた。運ばれてきたときはきれいなかたちで重なっていた氷が、とけてくずれて、ただの水になっていた。

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