うたがう

 彼女が指定してきた喫茶店は、家から二十分ほど歩いたところにあった。地図で調べたときはそんなに遠く感じず、徒歩で向かった。待ち合わせは午後二時。五分も歩けばだらだらと汗が噴き出してきて、すぐに後悔する。バスをつかえばよかった。わたしは昔から、選択を間違えることが多い気がする。選ばなかったことのほうが、わたしを不幸にさせなかったのではないかということをすぐに考えてしまう。

 今朝も、のぞこもとい藤崎五月は窓辺で双眼鏡を構えていた。そんな姿を見られていると知ってなお、彼女はわたしを探そうとはしなかった。日課通り、七時二十八分頃に準備をはじめて七時三十分に顔をぐにゃりと綻ばせる。

 照り返しが続く道を歩いていき、途中、コンビニに寄って水を買った。突き刺してくるような太陽の光に目眩をおぼえながら、半分ほどを一気に飲む。脳の中で、水が喉を通る音が響いた。

 

 その喫茶店は、およそわたしが一生かけても入らないだろうと思うような店だった。小さな店で、大通りから一本細い路地に入った場所にたたずんでいる。道に面してついている窓には、鮮やかな緑色の蔓が巻きついていて、入り口にかかったアンティーク調のランプが洒落ている。いかにも若い女性が好きそうなデザインで、気後れした。

 時間を確認すると、待ち合わせまで三十分もある。彼女はおそらく来ていないだろう。軒先に小さな灰皿があったから、そこで煙草を吸いながら待つことにした。店が日陰になったのは幸いだ。店員に見つかるのも嫌で、なるべく隅のほうに寄って隠れるように座った。

 じわじわと差し迫ってくる蝉の鳴き声。生ぬるい中途半端な風が数分に一度だけ通りすぎていく。コンビニで買った水は、とうにぬるくなっていた。

 藤崎五月を待つあいだ、店から二組の客が出てきた。最初は女性同士の二人組で、わたしのほうを一瞥したが、特に何も言わずに去っていった。そのあとに出てきた男女のカップルは、わたしに気づかず楽しげに店を出ていった。

 視線を上に向けると、おそろしくなるほど真っ青な空が遠くまで続いている。細い路地から見る空はとても狭い。四本目の煙草を三口吸ったときに、待ち望んでいた人物が姿を現した。

 藤崎五月。チェック柄の水色のワンピースと、つばの広い黒い帽子を被っている。わたしのほうを一瞬見て、店のドアに手をかけた。

 あ、と声を出すと彼女の動きが止まる。五秒ほどみつめあった。そのあいだ、とてもゆっくりと、夏の息吹が過ぎ去っていった。

「興梠です」

「ああ、興梠さん」

 藤崎五月は、首を軽くかたむけて、ぱっと顔を綻ばせた。あまりに無防備な笑顔に、こちらがたじろいでしまう。わたしが心配するのもおかしいが、知らない男とあっさり会うことを承諾するなんて軽率だ。もっと疑うことをおぼえたほうがいいのではないか?

「もしかして、だいぶ待ちました?」

「いや、ええと」

「汗、すごいから」

 着てきた灰色のTシャツは、たしかに汗が面積の半分ほどを占めていた。

「ああ、歩いてきたんですが、三十分前くらいに着いてしまって」

「中で待っていればいいのに」

 藤崎五月は、やわらかく笑った。あどけない、素直な印象だった。そんなふうにも笑えるのかと、驚いた。朝、双眼鏡を覗いているときは、もっと歪んだ笑い方をする。

「……少し、入りにくて」

 そう言ったら、彼女が、ふっ、と噴き出した。

「なんだかそうしてると、待ちぶせしているストーカーみたいですね」

 なんの躊躇いもなくそう言った。呼吸をする暇もないほど騒ぐ蝉がすべて急にぽとりと地に落ちたような。その一瞬だけ、ひやりとした風に首筋を刺された気がした。

「ストーカーに、みえますか、わたしは」

 一語ずつ区切りながらたずねると、藤崎五月はかぶりを振った。

「あ、違うんですごめんなさい、そんなつもりはなくて。気にしないでください。みえないですよ、ストーカーになんて」

 冗談めかして笑う藤崎五月も、そうしているとみえなかった。どこにでもいそうな、どこかふわふわとした雰囲気のある、ありふれた大学生だ。疑う余地もないくらい。

 決してストーカーには、みえない。

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