まちがう
うん、うん元気だよ。拓実くんも。料理もしてる、今度あれ教えてほしいの、にんにくの醤油漬け。よく鰹の刺身と一緒に出してくれたでしょ。うん、拓実くんもそういうの好きだから。お酒ものむし。
仕事を終えて帰宅すると、菜穂子が電話でだれかと話していた。内容から察するに、彼女の母親だろう。僕が部屋に入ってきたのに気づくと、菜穂子は声を弾ませて、「じゃあ、また」と電話を切った。
「おばさん?」
昔から、菜穂子の母親のことはそう呼んでいた。お義母さんと呼ぶべき間柄になっても、向こうは呼び方を変えなくていいと鷹揚に言った。それでも、本人を前にすると「おばさん」とは呼びづらくなった。結局呼びかたが定まらず、「あの」とか「ええとそういえば」といったふうにごまかしながら会話をしている。
「そう。今度うちに遊びに来るって。ちゃんとやってるかテストしてやるって言ってたよ」
「じゃあ、部屋を片づけておかないと」
「私がやるから大丈夫」
「そう?」
「うん」
菜穂子は以前まで契約社員として働いていたけど、コドモガデキタから仕事をやめ、いまはだいたい家にいる。掃除をやんわりと断られても、僕は変化のないお腹をかかえる菜穂子を労わらなくてはいけない。夫として、パパとして、ちゃんとやらなくてはいけない。
「でも、手伝うよ」
何者かが僕の耳元で「こう言え」と指示を出す。菜穂子と会話をしているとき、言葉を考え出すのは僕ではない。何者かが教えてくれる言葉をそのまま伝えるだけだ。それくらい、菜穂子との会話を味気なく感じることがある。
たとえば今日、僕が謎の手紙を届けたことを菜穂子に伝えたら、その味気なさは払拭されるのかもしれない。自分で決めて、自分で行動に移したことによる、あのときの達成感。菜穂子は百点だと喜ぶだろう。〇点だったら軽蔑するだろう。
だから僕は今日のことを菜穂子に言おうとは思わない。きっと彼女は、せっかく得た僕の達成感を悪意なく、正論で捻り潰してくる。
「体調はどう?」
「大丈夫だよ。お腹さわってみる?」
この会話も、もう何回しただろう。いつも同じ質問、いつも同じ回答。けれどそれはこの場において正しい会話だった。正しいというのはつまり、間違えていないということ。僕は菜穂子のお腹に手をのせる。間違えてつぶしたりしないように、そっと。
「おばさんたちに、まだ言ってないの?」
「安定期に入ったらって言ったでしょ」
「それってどれくらい?」
「うーん。あと三ヶ月くらいかな」
するすると会話が続くから、菜穂子が本気で言っているのか嘘をついているのか判断がつかない。菜穂子がいつ産婦人科に行っているのか、そもそもどこの医院にかかっているのか、僕はなにも聞かされていなかった。夫なら、パパになるなら、それは知っておかなくてはいけないことなのではないだろうか。
「今度、僕も一緒に病院行こうかな」
こんなことを言ったのは、初めてだった。コドモガデキタ。どこか他人事のように思えていたこの言葉に、直面したくなかったというのがあった。けれどいつまでも真実に目を背けていてはいけない。どうやら僕は、少し気が大きくなっているようだった。
菜穂子の言うことは大体いつも正しくて、従っていれば親も周りも文句を言わない。おだてられるか、褒められるか、羨ましがられるか。
菜穂子が駄目だと思うことは、してはいけなかった。僕は菜穂子の正しさを証明するために生きているようなものだった。
だからみよを、自分の力で手に入れたかった。菜穂子がいなくても、みよに好かれる自分でいたかった。菜穂子からの愛情は、もう目にみえるほどかたちがわかる。十代のころから思い描いていた理想の道。幼馴染みとつきあって、結婚して、子どもを産んで、祝福されて。見え透いているかたち。
みよの愛情のかたちは、わからない。どんなかたちなのかを僕は知りたい。
一緒に病院へ行こうかな、という提案に、菜穂子からの返事はなかった。お腹で上下に動いている自分の手を止めて、そっと彼女の表情をうかがった。
笑っていない。くちびると顔の皮膚が同化しているみたいだ。まず、そう思った。くちびるのかたちがみえない。揺れもしない菜穂子の瞳孔が、まっすぐと、僕の制止した右手をとらえている。
僕は菜穂子の愛情をいやというほど知っているはずだった。けれどそれは本当に? 菜穂子がいま考えていることが、僕にはまったくわからない。
今日はとても暑くて、拭っても拭っても汗が流れてくる日だった。この部屋は冷房が効いている。涼しくて、暑さなんてひとつも感じない部屋。それなのに、僕のこめかみで汗が流れている。
「……子ども、本当にこの中にいる?」
菜穂子のお腹は柔らかかった。けれど堅牢な、ひとつの檻のようにも思えた。僕たちのコドモは内に宿るのではなく外からやってきた、かたちのないもの。
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