あいする
「美津さんが入院しちゃったよ」
父から突然電話がかかってきたとき、部屋で映画を観ていた。SNSで話題になっていた韓国映画。犯罪者を好きになってしまう男性と、自分への愛をたしかめるために無理難題をふっかける女性の話だった。人を好きになるのに理由なんて必要ないとは思うけれど、出会った瞬間に男性が女性に強烈に惹かれていく描写は、唐突感があった。
大学四年生の夏休み、すでに内定をもらっている人がほとんどだったが、私は就職活動というものをまったくしていなかった。将来の展望もなにもみえないし、内定がないことに焦りもない。すべて夏の暑さを言い訳にして、ろくに動かずにいた。父からの報告は、のっぺりとした長い夏に、かすかに風を吹かせた。
大学への入学を機に住みはじめた六畳のワンルームは、狭いけれど日当たりがよく気に入っている。できれば卒業後も住み続けたいけれど、内定がないままのひとり暮らしは母に小言を言われるのだろうということは容易に想像できた。
映画のなかの女は自分の夫を事故にみせかけて殺していた。だれかを殺したいほどの感情を持ったことは、私にはない。
「入院?」
一時停止した画面をみながら聞くと、
「ベランダから飛び降りて」
と父が返した。あまり驚かなかった。父の声が冷静だったというのもあるし、いつものことで、どうせたいしたことはないのだろうと軽んじていた。
私が高校に上がって半年ほど経った頃だろうか、母のヒステリーは目にみえてひどくなっていった。
「あたしのこと愛してないんでしょ、愛してないんだ、絶対に愛してない」
何段活用なのだそれはと突っ込みたくなるようなことを、母は毎日のように叫んでいた。父もよく笑わずにいられたものだと思う。笑うどころか真剣な顔で「愛してるよ」なんて言う。父の本心をさぐるのはむずかしい。嘘をついているようにもみえるし、逆にすべて本気で言っているようにもみえた。
父の言葉に母は一瞬黙るも、すぐにまた「嘘だ。あたしのこと捨てて、違う女と生きていくつもりなんだ」などと喚く。それから台所から包丁を取り出してきて、「一生あたしといてくれないと、あなたもみよりもあたしも全員刺す」と泣きながら訴えてきた。
はじめて母が包丁を出してきたときは、さすがに肝が冷えた。ただおいおい泣いてすがりつくだけの人だと思っていたけれど、それではなんの解決にもならないと気づいたのかもしれない。もちろん刺したところで解決するとも思えないけれど。もしかしたら母は、ゆきちゃんや父よりもずっと理性のない人なのかもしれなかった。
ごくりと生唾をのんだ横で、まったく動じていない父は、包丁を持つ母に近付いた。そして、
「刺されるのは嫌だよ。一生を共にしたいから、結婚したんじゃないか」
と、軽く言ってのけた。
父の生き方には悪気がない。父の言葉に嘘はないのかもしれなかった。父は母を愛してる。そしてゆきちゃんのことも。父は、二人のことが好きなのだ。あとから怖くなかったのかを聞いたら、「美津さんを怖がったことなんて一度もないよ」と言っていた。
結局そのとき母は、父も私も自分すらも刺すことなく、やはりおいおいと泣き続けた。父は母が泣き止むまで寄り添っていた。
その後も母が包丁を取り出して「刺す」と言ってくることは多々あった。けれどやっぱりだれのことも刺さなかった。
「あたしが車に轢かれたら悲しむでしょ。悲しむわよね、絶対悲しむ、悲しめ、悲しんでくれないと死ぬ」
ヒステリー五段活用を口にしてから家を飛び出し、結局何事もなく父に連れ戻されることも頻繁だった。何事があるとすれば、たまに、転んだせいで痣ができるくらいのものだった。
そのうち、母の言葉がすべて戯言に聞こえるようになり、包丁を出されてもホームセンターで買った縄を天井から吊るされても、肝は冷えなくなった。結局口だけで、母はなにもしない。父に構われたくてしていることなのだ。父は最初から、そんな母のことをすべてわかっていたんだろう。
実家のベランダは二階についている。その下は芝生のある小さな庭になっていた。母は死にたいわけではない。自分が死んだら、父がほかの女のところへ行ってしまうから。そんなことを、あの母がゆるすはずがない。
医者によると「幸いなことに片足の骨折と数カ所の打撲で済んだ」らしかった。
それでも母にとって初めての大怪我である。ついに何事が起きたのだった。
「お見舞いに来てくれないか」
父は言った。あんまり深刻そうな口調ではなかった。昔から、父が悲しんだり怒ったりするところをみたことがない。ゆきちゃんの前では、どうだったんだろう。
一時停止していた映画を再生した。女優の迫真の演技に、母を重ねてみた。
「あたしのことちゃんと愛してよ」
それが、母が飛び降りる直前に放った言葉らしかった。
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