こぼれる

 ただ一度きりのキス。小学生のときの特別な。あのキスをした日、アキは笑っていた。中学校に上がってからはみせなくなった、無邪気なほほえみ。視線が交錯するたび、心も身体もぜんぶつながったような気持ちになった。私たちはあの日、透きとおっていた。互いに生まれた感情が、目にみえていた。

 けれど幼すぎた私たちは、その感情を言葉にすることができていなかった。せっかくふたりでひとつの感情を抱えることができたのに。あの日からこぼし続けている時間を取り戻したいのに、アキは勝手にどこかへ行ってしまう。だから私がついていくしかない。アキがばらまいたお菓子をほかのだれかに拾われないように、私がすべて掬って届けてあげる。

 私は、少し大人になったと思う。昔は、アキが自分のことを好きだと信じて疑わなかった。だけどあの頃、彼からの告白は待てど暮らせどいつまでもなくて、自分はアキの恋愛対象になっていないのかもしれないという可能性を、高校生活半ばで見出した。

 高校が別になっても、住んでいる家は近いから私はよくアキに会いに行った。恋愛対象にではない、それは絶望的なことではない。これからそうなるというだけなのだから。

 アキは、会いに来た私を追い払うなんてことはしない。頼めば家にも上げてくれるし、アキの母親は「五月ちゃんがお嫁に来てくれればいいのにねえ」とも言ってくれた。アキはそのたびに小さくため息をついて、「やめてよ」なんて否定していたけれど、大丈夫。アキはまだ気づいていないだけだから、私にまかせてくれればいい。

 今でもはっきりとおぼえている。目をつぶると、VRかというくらい、鮮明にアキの部屋が浮かぶ。窓際にベッド、その隣に勉強机、隅にはクローゼット、そして漫画や参考書をしまっている小さな本棚がある。

 あれは確か暑い夏の日の夕方のことだった。アキが帰ってくる時間を見計らって、彼の家の近くを行ったり来たりしていた。日が沈みかけているさなか、自分の影がいやに長く伸びているのを見て、怖くなったのをおぼえている。長細い影は、自分のものではないみたいで、何者かが私の背後に立って、私を脅かしているみたいで。

 夏の西陽は、いつも真っ赤。燃えるような景色のなかに自分がいるのだと思うと、心細くなる。心細さは私をせつなくさせて、アキに会わなければと気持ちを急かす。

「五月?」

 いまにも吸い込まれそうな影をじっとみつめていたら、背中から声をかけられた。振り返ると、部活から帰ってきたアキがいた。中学の頃よりずっと伸びた背、私のものよりさらに大きな影。全身をしびれさせる低い声。

「宿題、わからないところがあって、教えてほしいんだ」

「……おれ、すぐご飯食べたいんだけど」

「お願い、教えてもらったらすぐ帰るし。アキの教え方、先生より上手なんだもん」

「……いいけど」

 そのときのアキの表情は、沈んでいく太陽のせいで暗く翳って見えなかった。

 アキが麦茶を持ちに台所へ行っているとき、彼の部屋で枕の匂いを嗅いだ。好きな人のにおいは不思議だった。どこにもないにおい。ここにしかないにおい。清潔で甘い、ときどき苦い。昔から変わらない。

 枕を元の位置に戻そうとしたとき、それに気づいた。とうていベッドと関係のない、不釣り合いなもの。ボールペンと、女物の髪ゴムだった。

 手に取ると、濁った泥水みたいなものがどろりと体内にあふれた。苦しくなって、意識がふいに遠くなる。関連性のみえないそのふたつに、胸騒ぎが止まらない。どうしてこんなところに? そもそもだれのもの? 小さな花飾りがついた髪ゴムを、私はどこかでみたことがある気がした。

「これ、だれの? どうしてベッドに置いてあるの?」

 アキが部屋に戻ってきたとき、ボールペンと髪ゴムを顔の前に掲げて訊ねた。アキは私が持っているものを確認すると、即座に表情を変化させた。一度両目を見開いて、そのあとくちびるから顎をひくひくと震わせて、顔全体を真っ赤にさせて、声が出ていないのに口を「あ」のかたちに開けた。

 アキが持っていたふたつのグラスを勉強机に乱暴に置く。中身が少しこぼれるのを視界に入れたすぐあとに、「さわるな」と怒鳴られた。いままで聞いたことのない声だった。そんな彼の姿は、はじめてみた。

 勢いよく私の手からボールペンと髪ゴムを取り上げると、アキは真っ赤になったままの顔を不自然に背けた。

「なんでもない」

 震える声でアキが言った。私は、そう、としか返事ができなかった。心臓がとても大きく鳴っていた。悲しみや驚きのせいではない。そのとき私のなかにあったのは歓喜だった。

 こんなに感情的な姿を、私にみせてくれた。きっと、ほかの人にはみせない姿。

「じゃあ、みなかったことにするね」

 声が上擦りそうになるのを必死で抑えた。思い出したように差し出された麦茶を受け取って、一気に飲んだ。ガラスの外側には、すでに水滴がついていた。

「宿題、教えて」

 持ってきていたノートを見せる。アキの顔は次第に落ち着きを取り戻していて、またいつもどおりになると思った。けれどアキは麦茶を一口飲んだあとに、「ごめん、もう帰って」と小さく漏らすように呟いた。

 三角関数がよくわからないんだよ、と頼んでも、アキは私に勉強を教えてくれなかった。ベッドとボールペンと髪ゴムのつながりもわからないままだった。どうしても帰りたくなかった。わけを聞きたかった。けれど、しつこくしないこと。それを思い出してしかたなく外に出ると燃えるような赤い夕焼けはとっくに消えていて、薄暗い夜が立ち込めていた。

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