ほほえむ

 ゆきちゃんと会うときは、必ず父と三人だった。休日の昼下がり、出かけようか、と私にだけ声をかけて父は部屋着から清潔感のある服に着替える。それをみて母はいつも叫んだ。本当に、「ぎゃあ―――っ」と喚くこともあったし、「不倫だ不倫だ不倫だ」と呪うように恨みがましく言い続けることもあったし、「置いていくなら死ぬ」なんて卑屈的に笑うこともあった(いままで母が死んだことはない)。

 そんな態度をとるから父はゆきちゃんを優先するのに。幼い私でもわかる当然のことを、なぜ母がわかっていないのか不思議だった。

「どうしてみよりまで連れてくのよ」

 母は決まってそんなことを言ったけれど、これは私のことを心配しているのではなく、自分が仲間外れになっているのがゆるせないのだった。その証拠に、帰宅した私の様子を気にすることがない。ただ父が帰ってきてほっとして、もう二度とどこにも行かないで、と約束にならない約束をさせる。

「きっと美津みつさんが来ても楽しくないよ。みよりと出かけてくるよ」

 父はいつも母のことを「美津さん」と呼ぶ。落ち着き払った声でなだめられた母はおいおい泣きながら父に抱きついて、少しずつ泣き止んでいく。母だってちゃんと父にやさしくされているのに、それに気づかずなんでも求めようとする。

 ゆきちゃんは違う。ゆきちゃんは浅ましくない。自分が求めるぶんと与えられるぶん、ぴったり注がれていると思う。

 ゆきちゃんのもとへ向かう道すがら、父にたずねたことがある。

「ゆきちゃんが私のお母さんになることはないの?」

 小学校を卒業するまで、出かけるときは父と手を繋いでいた。身長が高い父の手は大きくて、ごつごつしていて、安心した。

 あれは、春のおとずれを間近に感じるころだっただろうか。肌にそっと寄り添ってくるような細い風を受けて、髪の毛が頬にやわらかく刺さってくすぐったくなったのをおぼえている。

「でもゆきちゃんは、母親にはなりたくないんだって言ってたなあ」

 のんびりとした気候に釣られているのか、父は間延びした口調でそう言った。当然「なるよ」という返事を期待していたから、その言葉に傷ついた。思ったよりも深い穴に、すとんと落ちていってしまうような恐怖があって、父の手を強く握った。深刻そうには言わない父の態度は余計に私を不安にさせた。穴の奥深くまで突き落とされた気がした。

 私がゆきちゃんのことを好きなように、ゆきちゃんも私のことが好きなのだと思っていた。お母さんになりたいから、私に会いに来てくれたのだと思っていた。

「私のお母さんになりたくないの? ゆきちゃんがそう言ったの?」

「いや、みよりの、というか、全部の子どもだよ」

 全部の子ども。小さく繰り返したら、父が私の頭を撫でた。父の手のひらにはやさしさが詰まっている。ふれられると、無条件で安心してしまう。だから母も次第に泣き止んでいくんだろう。

「でも、ゆきちゃんはみよりのことが好きだよ」

 父の手のひらとそのひとことで、私の傷ついた心は少しだけほぐされる。父がなにか勘違いをしているだけなのかもしれないと自分に言い聞かせた。

「あ、ほらみより。梅が咲いてる」

 ふいに父が腕を伸ばした。中腰になって、私の目線に合わせながら民家の庭に植っていた梅の木を指さす。私はその指の先を追って、ぽつぽつと真っ赤に咲く梅を眺めた。

「可愛いね」

 梅は小さくて可愛い。そしてちゃんと存在感がある。春を知らせるために、誰にみられようが誰にもみられまいが、完成されたかたちで咲いている。

「春がくるなあ」

 うれしそうにつぶやく父の横で、私はその梅を折りたい衝動に駆られていた。ぎゃあ―――っと叫びながら、父の手を振りほどいて、枝をすべて力任せにぼきぼきと断ち切ってみたかった。人形遊びをしていたときと同じ。細い首筋を絞めたくなる衝動。小さくて可愛いものは、憎くていとしい。

 ゆきちゃんと会うときは、外食をしたり映画を観たり少し遠いデパートに行ったり、そんなことをした。

「ふたりで会うときもこうやって遊んでるの?」

 父とゆきちゃんに疑問をぶつけると、ふたりは顔を見合わせて同時に笑った。ふたりは大人で私は子どもだった。ふたりがどうして笑っているのか、よくわからなかった。

「ふたりで会うときのことは、ひみつだよ」

 ゆきちゃんが人差し指を口もとにあててほほえんだ。きれいな人。あのとき私はそう思った。「可愛い」とは違う、ゆきちゃんはきれい。だから私の手では、折れない。

 くすくすと、父とゆきちゃんの笑い声が長く響く。私もそこに混ざりたくて、真似して笑った。くすくす、くすくす。そのうち、なぜ自分がそうしているのかわからなくなっても、ふたりの笑い声が止まるまで、私はくすくすをやめなかった。


 一度だけ、ゆきちゃんとふたりで会ったことがある。偶然だった。あの日、ゆきちゃんは私を自分の家に呼んで食事を振舞ってくれた。

「理性をなくすほど好きになるのが好きなの」

 そのとき、ゆきちゃんが教えてくれた。あの日のことを、私はいまでも父に言っていない。きっとこれからも話すことはないだろう。父の知らない私とゆきちゃんのひみつは、どんな宝石よりも輝いている。

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