とどける

「本当に私宛てですか?」

 当然ともいえる疑問を投げかけられて言葉に詰まった。僕はどうして馬鹿正直に、あの男から手紙を託されたんだろう。もしもあの男がストーカーだったら。手紙が脅迫状だったら。僕は犯罪の片棒を担いだことになるんだろうか?

 罪悪感が、急に押し寄せてくる。自分のしていることがとても悪いことのように思えてきて、目の前の女性から目を逸らした。年齢は僕とさほど変わらないように見えるが、部屋着でもどことなく垢抜けていて、あかるい茶髪のミディアムヘアが、今時の大学生という感じだった。僕よりも少し下、みよと同じくらいの年齢だろうか。

「そうです、三階の角部屋ですよね。頼まれたんです」

「頼まれた?」

 この手紙には、いったいなにが書いてあるんだろう。部屋の奥から引っ張り出してきたような、角が折れた茶封筒。宛名はない。常識的に考えたら、こんなのはおかしい。

 あの男性に手紙を届けてほしいと頼まれたときは、唐突なことに頭がうまく働かなかった。「お願いがあるんですよ」と手をつかまれたとき、みよの顔が浮かんだ。

 みよだったら、手紙を受け取りそうだった。深く考えずに、おもしろがって、「なんでもいいじゃない」とか言いながら。そして軽い足取りで手紙を彼女にわたして帰ってくるんだろう。みよはそれができる人だ。

 頼みを断ってはいけないと思った。断ったらみよが僕から離れていく。そんな予感がした。でも逆に手紙を届けることを引き受けたら、みよが僕のことを好きになる気がした。理性的とはいえない行動を起こしたら、僕は彼女に認められる。

 だから僕はその手紙を受け取ったのだった。

「興梠シズカさんという方から」

「こおろぎしずか」

 女性は心当たりがない、というふうに首を傾げた。その仕種をみて、さっきまでの勢いが一気にしぼんでいく。やっぱり僕はみよみたいになれない。なにをするにしても不安がつきまとう。間違えることは怖い。

「拓実くん、そんなことしたらだめだよ」

 菜穂子の声が頭の奥で聞こえる。菜穂子はいつも正しかった。もしもコドモガデキタが嘘だったとしても、それは菜穂子にとって正しいことをするための手段だ。

 菜穂子の顔より、みよのことを考える。頭のなかをみよでいっぱいにする。そうすると次第にこれでいいのだとも思えてくる。

 そうだきっと僕の行動は、みよを喜ばせるだろう。盗みを働くユキヒラアキトよりも本能に従った僕を褒めてほしい。

「ちゃんとパパになれる?」

 気づいたら、菜穂子がほほえみかけてくる。ちゃんとパパになれる? コドモガデキタならパパにならないといけないのに、なぜそんなふうに、僕を試すように聞いてくるんだろう。

 数えきれないほどの思考が、地下鉄の路線図みたいに複雑に巡る。終点はどこにもない。なにも始まらず、なにも終わらないこの状態のまま、僕は降りたい。

 女性が口をひらく前に、「じゃあ、届けましたので」と言ってその場をあとにした。追いかけられたらどうしようと不安に思い早足でマンションを出た。階段を駆ける音が一段ずつ鈍く響いて、けれどその音は一瞬で壁に吸い込まれていった。彼女が僕を追ってくることはなかった。

 

 マンションを出ると、それまで忘れていたむわりとした夏の空気に襲われてせ返る。テレビの音量を突然上げたみたいに、蝉の声が耳をつんざいた。

 バイクに戻って次の届け先の荷物を確認していると、徐々に心が落ち着いてくる。そのあとは、不安とはまったく別の感情が、僕の身体を支配した。

 それは達成感だった。テストで百点をとったような、あるいは〇点をとったような。どちらにせよ特別なことだった。

 菜穂子は、僕がした行為を知ったら顔を顰めるだろう。怪しいよ、面倒に巻き込まれないように、配達エリアを変えてもらったら、など。きっと常識的で理性的な、正しい言葉を滑らすんだろう。

 たとえばそれがみよだったら。みよだったら、きっと「よくできました」と褒めてくれる。かわいい笑顔を向けてくれる。男性からの頼みを引き受けた僕に、ユキヒラアキトとは違うなにかを見出してくれる。

 さっきまであんなにうるさかった蝉の声が、なぜだかもう気にならない。次の配達先へ向かう地図を頭に浮かべ、ヘルメットをかぶりバイクに跨った。首筋を流れる汗すら、そのときの僕には清々しく感じた。ミラーの角度を調整すると、うれしそうにほほえむ自分の顔が映った。

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