なきやむ

 下河辺。いつもわたしに荷物を届けてくれる男性配達員の名前を、それまでしっかり認識したことがなかった。何度か顔を合わせたことがあるのに、どんな人間かなんて考えたこともなかった。

 額から鼻梁、頬から首筋、一直線に汗が垂れている。まだ三十前だろう、細身で頼りなさそうで、幼さの残る顔。彼はどんな人生をかかえてきて、これから歩んでいくのだろう。取り立てて目立つ部位のない姿から、経験をしてきたのだろう、ということがうかがえる。わたしと同じである。そしてわたしとは違う。

 今度は名前を、ちゃんとたずねよう。荷物を差し出されながらそう考えていた。おととい頼んだ「夢十夜」は、とても軽かった。角型3号の封筒に入っていて、余った部分は厳重に折りたたまれてテープで留めている。

 その場で封を開けたわたしを、目の前の配達員は怪訝なものでも目の当たりにしたような目でみていた。彼は読んだことがあるだろうか、作家の名前は知っているはずだ。タイトルが見えるように文庫本を傾けたら、彼はますますわたしを訝しみ、それからゆるく首を振った。背後から迫る夏の光が、彼の汗を照らしている。

 わたしのなかの、取るに足らない自尊心が満たされる。目の前の男性は、「夢十夜」を知らない。わたしは知っている。こんなに早くわたしに荷物を届けられる人よりわたしは知識を持っている。スーパーの店員や配達員がいて、わたしは助かる。

「し、も、こ、う、べ」

 ひとつひとつ確認するように、名前を読み上げた。その日はじめて声を出したから、ずいぶん掠れていた。「雪平」は読めなかったが今度は読めたので、思わず口に出していた。

「読めました」

 その途端、下河辺が一歩後ずさるから慌てて手首を掴んだ。じっとりと汗ばんでいて、少し気持ちが悪かったが、そんなことを気にしている場合でもない。

「すみません。お願いがあるんですよ」

 今、わたしの手によってひとつのドラマが作り出されようとしている。ありふれていることばかりの現実に、小説みたいな出来事が起ころうとしている。そう思うと、外でけたたましく鳴いている蝉たちの声も特別なものに聞こえる。

「この手紙をね、向かいのマンションの、三階の、角部屋、この部屋のベランダから見える部屋なんですが、そこに届けてもらえませんか。お金はもちろん出しますが、いかんせん、そこに住んでいるひとの名前がわからないのです。名前がないと返ってきてしまうでしょう、手紙って」

 わたしの声が聞こえているのか聞こえていないのか、下河辺はどこかぼんやりした顔だ。早口で言いすぎたのか、やはり怪しまれたのか。いつもは下河辺が荷物を差し出すけれど、今はわたしが手紙を差し出していて、それが行き場なく中途半端な位置で止まっている。

 なんとなく、手に力が入った。持っていた「夢十夜」の表面はつるつるしていて、今にも滑り落ちそうだった。

 どうですかね、少しだけ手紙を前に出してうかがうと、「いいですよ」と返ってきた。誰かに後ろから押されたみたいに、下河辺の首は、かくんと動いた。昨晩書いた手紙は、わたしの手から離れていった。


 のぞこへの手紙には、毎朝だれかをのぞいているのを知っていること、小説のモデルになってほしいこと、返事を待っていること、そしてわたしの名を書いた。

 興梠シズカ。わたしのペンネームだ。とくべつな由来はない。昔、いつまでも鳴き続ける蟋蟀が鬱陶しくて、当てつけでこんな名前をつけた。興梠、は昔の同級生からとった。話したことはなかったが、格好のつく名字だと思っていた。

 蝉は蟋蟀と違って、。昼間はひっきりなしに鳴いているのに、日が沈むと急に静かになる。気温によって鳴かなくなるらしい。暑すぎても、涼しすぎても駄目。けれど彼らは必ず近くにいて、いつでも明日に備えている。

 パソコンに向かって、ワードファイルを整理する。以前書いた、ただの五十音がなぜだか保存されていた。削除しようとマウスを動かすが、やはりやめた。このただのひらがなたちからうまれる物語があることを、今は噛みしめていたかった。

 のぞこが手紙を受け取って、わたしに返事をくれたなら。だれにも書けない小説が、絶対にできあがる。

 外は静かだった。この静寂のなかに、明日を待つ人間が何人もいる。

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