ながれる

 残暑といえども、じわりと喉もとを締めつけるような暑さはまだまだ引かない。止まらない汗を拭って次の配達先を確認すると、ときどき見る名前だった。配送もとはネットショップ。この人物の荷物は本が多い。

 配送業者に就職して二年が経つ。配達エリアは学生のころ住んでいた町から少し遠くにあった。卒業後はそのエリアに合わせて引っ越しを決め、「一緒に住んだほうがいろいろと都合がいいよね」という菜穂子の言い分を聞き、同棲に至った。友人はもちろん、互いの両親すらも、僕たちの同棲に反対しなかった。

 一緒に住んだほうがいろいろと都合がいい。あのとき、どう都合がいいのか聞くタイミングを逃して、ただ言われるがままに新居を探した。菜穂子がそう言うのならそうなのだろう、と受動的に流されていただけのようにも思う。

なるべく二階以上で。収納たっぷり。オートロックだと安心。外に洗濯物を干したいから南向き。部屋は二つほしいです。喧嘩したとき困るから。

 菜穂子は冗談をまじえつつ楽しげに、不動産屋の担当にあらゆる希望を告げた。僕はその隣で、菜穂子と同棲をはじめたら、みよと会える時間はますます少なくなるなと考えていた。僕たちの住まいはその日内覧に行ってすぐに決まった。

 オートロック付きのマンション。三階の2DK。駅から徒歩十五分。南向きではないけれど、陰になるような建物はなく住宅街でまわりは静か。家賃は管理費込みで十一万。菜穂子の希望が概ね通った物件だった。


「もし本当に離婚ができても、私はべつに嬉しくないよ」

 菜穂子との離婚をそれとなく仄めかしたとき、みよは言った。虚栄や見栄といったものは感じられない言いかただった。みよは本当に、僕が離婚してもなにも思わないのだろう。それどころか、僕が菜穂子と別れたら、みよは僕への興味を失うのだろうとも思った。

「離婚とか、ぜんぜん求めてないの。理性をなくしてくれないと」

 みよの口癖。悪いと自覚していても、好きな女の私物を盗むことができたユキヒラアキト。理性をなくすほどの感情を向けてほしいと語るのだった。

 僕の中には、理性がある。当たり前だ。だれもが持っているものだ。けれど理性は実体がない。

 理性というものが目にみえるなら、どんなかたちをしているだろう。もし触れることができるものなら、自分の手で捏ねて丸めてひたすら小さくして、それから身体の奥へ追いやってやるのに。そうすれば、みよは僕のことをもっと好きになってくれるのに。


 蝉というのは、いつ呼吸をしているのか。絶え間なく響く鳴き声にげんなりする。五月の蝿と書いて「うるさい」と読むけれど、八月の蝉と書いてもいいと思う。いつまでも追いかけてくるような、逃げられないと感じさせる鳴き声がひたすらに降ってくる。合間を潜り抜けるように、僕は日陰の少ない道を小走りで進んだ。

 荷物の宛名には興梠こおろぎシズカとあった。何度か荷物を届けたことがある。上品な響きのある名前とは裏腹に、本人は鬱々しい、いつも暗い顔をしている中年の男性だった。本名とは考えにくく、いつも書籍を注文していることから作家かなにかだと思い検索したことがあるが、それらしい人物はヒットしなかった。

 このアパートのチャイムのボタンはとても軽い。押した手ごたえはさほどないから本当に機能しているのか不思議だが、わりとすぐに玄関が開くのだから、中でちゃんと鳴っているんだろう。いつもは目も合わせずにさっと荷物を受け取りそそくさと玄関を閉める人だったが、今日は様子が違った。

 お届け物です、そう口にして荷物をわたすと、彼はその場で封を切った。中から一冊の本を取り出して、なぜか僕にタイトルがわかるように見せてくる。

 夏目漱石、夢……じゅうや、で合っているのだろうか、読み方に自信がない。昔、授業で習ったのは「坊ちゃん」だったか、「吾輩は猫である」だったか。もう千円札の顔でなくなって久しいから、夏目漱石がどんな顔であったかすら思い出せない。

「知っていますか、この本」

 表紙をみせながら、男が聞いてくる。はじめて声を聞いた気がする。低くかすれていて聞き取りにくい。曖昧に首を横にふると、彼はにやにや笑った。気持ち悪いな、と思う。

「し、も、こ、う、べ」

 今度は制服についている僕の名札にある名前を読み上げて、「読めました」とつぶやいた。この場から逃げたい。そう思って後ずさったとき、「すみません。お願いがあるんですよ」と手首を掴まれた。こんなに暑いのに、その手は血が通っていないような冷たさだった。

「理性をなくしてくれないと」

 背後から、わんわんと鳴き続ける蝉の声が聞こえる。首筋に、つっと汗が流れていく。目の前の男性の唐突な「お願い」と、甘いお菓子のようなみよの声が、ひたすらうるさい蝉の鳴き声と混じって、いつまでも頭から離れなかった。

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