うしなう

 想像妊娠というものは、昔ドラマで観たことがある。実際には妊娠していないのに、月経が止まったり、つわりの症状が出るらしい。菜穂子は僕がいないあいだに吐いたりしているのだろうか? もしそうなら、なぜなにも言ってこないのだろう? 僕に心配をかけさせないためか、それとも言うべきことがないのだろうか。

「体調は大丈夫?」

 夕飯の準備をする菜穂子に僕は毎日たずねている。菜穂子は炊飯器から炊き上がった米を茶碗によそう。ネットでつわりについて調べたら、米が炊けた匂いだけでも吐くという記事がいくつかあった。もちろん個人差はあるだろう。それにしたって菜穂子は、平気な顔をしすぎじゃないだろうか。

「うん、大丈夫だよ。拓実くんは? 仕事忙しい? 最近残業多いよね」

 あ、うん。サラダに載っているミニトマトを口に入れて素早くうなずいた。噛み潰したら、口内で汁が小さく飛び散った。口内炎でもできているのだろうか、くちびるの内側がしみた。

「もう、ほら、口についてるよ」

 菜穂子がティッシュを取って、口のまわりについたミニトマトの汁を拭いてくれる。こういう場面も、昔のドラマで観たことがある。仲のいいカップルのひととき。僕はあのとき、テレビのなかの二人にあこがれて、そして自分と菜穂子を重ね合わせた気がする。まだ僕たちは恋人同士ではなかった。

「ほんといつまでも子どもみたい。大丈夫? ちゃんとパパになれる?」

「……なるしかないでしょ」

「そうだよねー」

 ティッシュで汁を拭われるとき、菜穂子が僕のくちびるを摘んだ気がした。鈍い痛みに眉を顰めたが、菜穂子は僕の表情を気に留めない。

 残業は、本当の日もあるし本当ではない日もある。大学を卒業して引っ越してからは、みよの住む町から遠くなったので、会うのは月に一度あるかないかだ。

 たぶん菜穂子は僕の残業をひとつも信じていない。でも気づいていないふりをしている。そして僕は嘘がばれていないと思っているふりをする。昔あこがれた二人には、こんな嘘を重ねていくような場面はひとつもなかった。


「妊娠が嘘だったらどうするの?」

「別れるかもしれない」

「できないでしょ」

 どうしてそんなに楽しそうにするんだろう。菜穂子の妊娠は嘘かもしれないと伝えたら、みよは笑った。口角をぐにゃっと上げる、どこか底意地が悪そうな笑いかた。あんまりいい気はしない。

「どうせできない」

「どうしてそんなふうに言うんだよ」

「だってなんだかんだ言っても、たぶんあなたの場合は理性が勝つから。その点菜穂子さんはいい感じだよ。ファンになりそう」

 理性という言葉を、みよはときどきつかう。菜穂子と離婚しないことは理性的。けれど空想上の子どもをかわいがることは狂気じみている。もしも菜穂子のコドモガデキタがすべて嘘なら、彼女はとっくに理性を失っている。僕はたぶんまだなにも失っていない。拾ったものを落とすのは怖い。けれどみよは、僕になにかを失ってほしいのかもしれなかった。

「ユキヒラアキトは、好きな人の私物を盗む癖があってね」

 またその話だ。みよは繰り返しユキヒラアキトのことを僕に聞かせてくる。

「好きだから、盗んでもいいんだって。理性飛んでるよね」

 ユキヒラアキトの話をするとき、みよの表情はやわらかい。菜穂子の話をするときとは少し違う。まるで純粋無垢な少女のような、恋愛にあこがれを持つ学生のような。それは、僕が心からかわいいと思う笑いかただった。

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