かきだす
目の前で起きている状況は、すぐに理解できた。スーパーから出てきた男性と女性を追いかける女、その女を追いかけるわたし。男性のほうは、先ほどレジで対応してくれた彼だった。ユキダイラかユキヒラか名前はわからない。そのとなりにいる女性は、わたしが退店する際に荷物を当てた人だった。腕を取り合い親密そうに歩く彼らはきっと恋人同士なのだろう。
そして彼らの後ろ、わたしの前方をひたひた歩く彼女は、双眼鏡を持っていなくてもじゅうぶん怪しくみえた。朝、彼女がのぞいているもの。それは前を歩く彼なのかもしれない。いや彼と決めつけるのは勝手なわたしのバイアスだ。まだわからない。彼女は彼女を追いかけているのかもしれない。
ひたひた歩く彼女の後ろを音を立てないよう歩いていると、ふいに「のぞこ」という名が頭に浮かんだ。毎朝なにかをのぞいている、のぞこ。まるでわたしにしかみえていない幽霊のようなのぞこ。安直でどこか間抜けなその呼び名は案外しっくりときた。そうだわたしは彼女のことをのぞこと呼ぼう。
わたしのいる場所からは、のぞこの背中しかみえないが、双眼鏡をのぞいているときと同じ顔をしていればいいと思う。
のぞこはおそらくストーカーなのだ。男性か女性かどちらかの、あるいは両方の。
この事実に気づいたとき、足が浮いた。無重力空間に投げ出されたように身体が軽くなる。世界の重大なひみつを知ってしまったような、そのひみつを自分がどうとでもできると思える万能感。わたしはなんでもできる。のぞこがいれば、なんでもできる。
なぜそんなに彼女のことが気になるのか、うまく言葉にできない。けれど言葉にする必要もないくらい、わたしは興奮しているのだった。彼女のひとつひとつの行動に、この、どこか非日常じみた光景に。
歩いているうちに、恋人たちは仲睦まじくあるアパートに入っていった。のぞこは塀の陰に隠れて二人をみつめている。街灯の少ない道で助かった。あたりは暗くて静かで、少し近づいてものぞこがわたしに気がつくことはなかった。
アパートの二階の角が彼らの部屋だった。玄関の鍵を開けることすら楽しくてしょうがない、というような二人のひそやかな笑い声がこちらにまで届く。二人が部屋に入り、姿がみえなくなったとき、のぞこが踵を返した。そしてまっすぐな足取りで再び歩きはじめていく。
のぞこたちの姿ばかり注視していたから気づかなかったが、まわりをよくみると、わたしの家からそう離れていない場所にいた。つまり、のぞこの家もすぐ近くにあるということだ。
浮遊感が続くまま、あわてて彼女のあとを追った。両足の感覚はないのに、両手だけが実体を持ってわたしを焦らす。指先に、ちからが入っていく。
書きたいと、わたしは思っているのだった。小説を書きたい。ありふれているとか、ありふれていないとか、浅いとか、新鮮味だとか、理由だとか、小説を書くとき邪魔になる思考はいまここで落としてしまいたかった。
わたしを興奮させてくれたのぞこ。彼女の小説を、彼女を主人公にした小説を書く。
愛情が目にみえるなら、どんなかたちをしているだろう。
ふいによぎった書き出しをすかさずメモにのこした。のぞこの愛情は、双眼鏡のレンズにきっとべったりとこびりついている。
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