つぶれる

「つわり 時期」「つわり いつから」「つわり 体調」「つわり 軽い」「つわり 無症状」

 ここ最近の、僕の検索履歴はこんなワードばかりであふれている。

コドモガデキタから、二ヶ月ほど経っていた。失敗の返事をしたときは、現実感がなかった。目の前の菜穂子がただの平面的な絵になったような、自分が異世界にでも迷い込んでしまったような心細さ。浮き足立つという言葉のとおり、僕はあのとき宙に浮いていた気がする。そのせいで、いやそのおかげと言うべきなのか、菜穂子の「だから結婚しなくちゃ」という言葉になんの疑問も持たなかった。

 子どもができたら結婚しなくちゃ。

 菜穂子の言い分には、間違いがない。子どもができたら結婚する。そんなふうに一生を誓い合う二人はこの世にごまんといる。ここで結婚はしたくないと言った男たちは、それ相応の理由がないかぎり責められることを知っていた。

 道理から外れることが苦手だった。浮気をしたのも、みよがはじめてだった。コドモガデキタラケッコンスル。とても単純な解のはずなのに、複雑な数式によって求められた答えみたいだった。

「安定期に入るまでは、妊娠したことはだれにも言ったらいけないんだよ」

「だれにも? 親にも?」

「親にも」

 菜穂子はいわゆる優等生タイプで、昔から学級委員や生徒会といった、しっかりした役割を与えられるタイプだった。勉強もできるほうで、おっとりはしているが馬鹿ではない。菜穂子の言うことはいつも正しい。それに従っていればたいていは間違えないということを、彼女との長すぎるつきあいのなかで学んでいた。

「わかった」

 だから僕は菜穂子の言葉を疑いもせず、軽い首を動かした。まるで後ろからぽんと押されたみたいに、思考とべつのところで身体は動いた。

「早速、今週末に親に挨拶に行こうね」

 互いの両親とも昔からの仲だ。今さら緊張することもない。きっと喜ばれる。泣かれるかもしれない。祝福されるということは、正しいということだ。

「わかった」

 ぽん、と、また首が前に傾く。だれが僕の後ろにいるんだろう。なにげなく右手を首筋にあてた。当然そこには僕の皮膚があるだけだ。

「拓実くん、これからはあんまり遊んだりはできないからね」

 笑顔のまま、菜穂子が言った。含みのある口調だと、それくらいは僕にもわかる。早くだれかがぽん、と僕の首を押さないと妙な沈黙ができてしまう。心臓がざわめいた。僕は責められているのかもしれない。すべてを知っている菜穂子が、僕に釘をさしているのかもしれない。いや単純に、世間一般的なことを言っているだけかもしれない。

 不安と混乱が、心臓を刺すようにあばれていて痛い。

「まあ拓実くんは根が真面目だし。大丈夫だよね。わかってるよね」

 ぽん。やっと首が動いて、僕は「わかってる」と返事をした。

 両目のなかに映っている菜穂子は、平面的な絵から立体的な造形になっていた。彼女はこんなに大きかっただろうか。お腹にもうひとり人間がいるからそうみえるのだろうか。もしも菜穂子にのしかかられたら、僕はつぶれる気がした。彼女を背負って歩いていくことは、たぶん夫の役目であるのに。

 僕は菜穂子のことを怖れていた。のしかかってきたら、支えず逃げたいと思ってしまうほどに、目の前に立つ菜穂子に恐怖を抱いていた。

「言葉だけじゃ、意味ないよー」

 顔は笑っているけれど、ちっとも楽しくないというとき、表情や口にする言葉とは裏腹な感情が菜穂子を取り巻いているとき、菜穂子は語尾を伸ばす癖がある。これも、長すぎるつきあいの中で学んだことだ。


 一般的に、菜穂子はつわりがつらい時期になっているはずだった。なのに彼女は毎日けろりとしている。いや僕が仕事に出ているあいだに症状が出ているのかもしれない。それにしたって前となんの変化もない。けれど調べてみると、症状がまったく出ないという妊婦もいるらしいから、僕の疑念はまだ確信に変わらない。

「ねえお腹撫でてよ」

 夜、仕事を終えて家に帰ると菜穂子は決まってそう言った。言われるがまま僕は彼女のお腹を撫でる。コドモガデキタから、特に変わらないお腹に感じた。いくら小さいとはいえ、もうひとり人間が入っているお腹には、とうてい思えないのだ。それともそれは、僕がそうであってほしいと思うがゆえの気のせいなのだろうか。

「パパですよー」

 菜穂子がほほえみながらお腹に話しかけている。その伸びた語尾のなかに含まれている感情を、僕は読み取ることができていない。

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