ぬけでる

 閉店間際のスーパーでは、いつも蛍の光が流れている。これを聴くと、早く帰れと急かされている気になるから、わざと歩みを遅くする。天邪鬼な子だと、昔から親によく言われていた。けれど毎日こんな時間まで働いているのだ。これくらいのストレス発散はゆるされてもいいはずだ。

 カップ麺、安くなった惣菜や菓子パン。買うものはだいたいいつも同じだった。ほとんど無心で商品をカゴに入れていく。それから店員がせっせと店じまいの作業をしている横をゆっくり通る。

 レジには若い男性が立っていた。常連となっているから店員の顔はおぼえているはずだが、この男性は初めてみる。新人だろうか。しかしそれにしては緊張している様子もなく、作業も手慣れているようだ。カゴに入っている商品のバーコードを手こずることなく読み取っていく。ぴっ、ぴっ、ぴっ、という手際のいい機械音が、蛍の光と混ざってアンバランスに流れた。

「千二百三十三円です」

 財布から現金を取り出す。いまだキャッシュレスの波に乗り切れない。実際に現金で払わない方法は、なんだか勝手に金が消えてゆくようで躊躇いがあった。

 財布のなかには小銭も千円札も入っていなかった。仕方なく万札を出した。店員は、嫌な顔をせず、かといって愛想よく笑うわけでもなく、その金を受け取った。

「八千七百六十七円のお返しです」

 トレーに置かれた釣銭を取ろうとしたら、一円が二枚、手のひらからこぼれた。あ、と短く声を出すと、店員が素早くその一円を拾った。

「すみません」

 小銭落としたのはわたしなのだから、店員はなにも悪くない。なのに眉を下げて、申し訳なさそうにしている。その姿をみて、少し気が大きくなる。謝られる立場は安心する。自分が主導権を握っている状況は、緊張しない。

「いや」

 もう一度、二円をわたしの手のひらに載せた店員が「ありがとうございました」とお辞儀をする。何気なく名札を見ると、「雪平」とあった。

 ユキダイラ。ユキヒラ。なんと読むのかまではわからないが、どちらにせよバランスのいい、きれいな名字だと思った。上の立場にいることを認識しながら読み方をたずねたくなったが、後ろに並んでいる男性客がのろのろと財布に小銭をしまっているわたしに舌打ちをしたので、そそくさとレジを出た。袋が有料になったため、同じビニール袋を何度も使いまわしている。なにかの拍子で穴が開きそうな袋に買った商品を詰めた。

 そのあと振り返って店員の手際をみると、わたしのときと同じように、てきぱきと会計をしていた。


 店を出るとき、ひとりの女性とすれ違った。わたしが持っていた荷物が当たって、「あ」とまたそれだけ声を出した。大学生だろうか、二十歳くらいの若い女性は、「ごめんなさい」とわたしに謝った。でもその口調は軽く、わたしを優位に立たせない。わたしも悪かったと思わせる一瞬のすれ違いに、慌てて頭を下げた。

 外に出ると、湿気がむわりと身体をつつんだ。梅雨の名残か、息苦しい空気が喉に絡みつく。小さな駐車場を通って出口に向かうと、そこに女性がひとり立っている。先ほどぶつかった女性と同じくらいの年齢だった。ただまっすぐ、スーパーのほうをみつめていた。暗がりのなか、ぼやっとした影だったその女性の顔をしっかりと確認できたとき、心臓が跳ねた。

 そこに立っていたのは、朝七時半、わたしが毎日双眼鏡で覗いている女性である。口もとを緩ませて、何かを一心にみている女性。つい立ち止まってしまった。辺りはとても静かで、この場にはわたしたち二人しかいないのに、まったく目は合わなかった。

 女性は、双眼鏡を持っていなかった。でもなにかをのぞいているときと同じ表情をしているだろうと思った。真剣で、切実で、それ以外のものはまるで興味がないというような眼差し。

 二十二時。閉店したスーパーが、灯りを消した。話しかけたいと強く思うのに、思うように声が出ない。ただその女性の横を通りすぎて、けれどその場を去ることが惜しくて、彼女の後ろ姿を少し離れたところからぼうっとみていた。女性は手ぶらで、買い物帰りとはいえない風貌だった。

 ありふれている生活。ありふれている小説。どうしたら、そこから脱却できる? どうしたら、そこから抜け出て、ここではない場所へ行ける?

 そんな問いが浮かんだとき、彼女がぴくりと動いた。そして夜の闇に溶けていくように静かに歩きはじめる。わたしは彼女を見失わないように、あとをつけていた。

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