おぼえる

 罪悪感は簡単にうまれる。菜穂子に嘘をつくとき。みよと一緒に過ごすとき。ふたりに対して悪いと思う。だけど心のどこかでは、悪いのは僕だけではないとも思っている。

 みよと関係をもちはじめてから、菜穂子と別れようと何度も思った。けれどそれをみよに言うと、「どうして?」と本当に不思議そうな顔をして聞いてきた。

 安いホテルはなんだか落ち着く。取り繕っていない感じが、街から見捨てられている感じが、罪悪感を取っ払ってくれる気がする。

「どうしてって、みよとちゃんとつきあいたいからだよ」

「ちゃんとって?」

「浮気とかじゃなくて、真面目にってこと」

「今は、真面目じゃないの?」

「……真面目だけど。ちゃんとみよのことが好きだけど」

「ならべつに今のままでいいんじゃない?」

 みよの本心は、みえない。雨が降っているときの車窓みたいに視界か曇る。本当に、いいと思っているのだろうか。恋人がいる男性に対して、別れないでいいなんて本気で思う女性がいるのだろうか。それは結局、僕のことを好きじゃないということなのではないだろうか。

「ひみつが好きだから、私は」

 腑に落ちないでいると、出来の悪い生徒に勉強のコツを教えるときのような、まっすぐとした口調でみよが言う。ここはテストに出るからね、おぼえておくように。世間的な正しさは、みよにはまったく関係がない。彼女にとって彼女自身の言葉だけが〇で、それに従わない者は×。僕は×をもらいたくない、いかなるときも。

 ひみつが好きだから。

 要領を得ないけれど、みよとこの先も長くつきあっていくつもりなら、それはおぼえておかなくちゃいけないことなのだと、ぼんやり思った。

「ユキヒラアキトにも秘密があってね」

 みよは普段、声にほとんど感情がこもっていない。なのにユキヒラアキトの名前を口にするときだけは、はしゃいでいるようにもみえた。

「好きな人のものを盗む癖があってね」

「盗む?」

「そうだよ。ボールペンとか、ノートとか、髪ゴムとか」

「それ、犯罪じゃない?」

「そうともいえるかも」

 みよがくつくつ笑った。そうともいえる、というより、そうとしかいえない。なぜみよは、そんな男の話をたのしそうにするのだろう。

「もしかして今でも好きなの?」

 あるとき嫉妬心を抑えてみよにたずねたことがある。みよは、意外なことを聞かれた、とでも言うように首をかしげた。

「好きだったのかな?」

「知らないけど」

「わからない。でも一緒にいたかったよ。いろんな顔みてみたかったから」

そういうのを、好きだというのではないのか。そう思ったけれど、みよが遠くのほうをみつめるように目を細めるから、なにも言えなかった。口をひらいても的外れなことしか出てこない気がした。

 みよは、菜穂子という幼馴染みがいる僕に、ユキヒラアキトを重ねているだけなのかもしれなかった。幼馴染みがいる男なら、だれでもよかったのかもしれなかった。

 部屋についている小窓が、ほんの少しだけ開いている。菜穂子には残業だと嘘をついてここに来た。ぬめりとした生ぬるい風が入ってきたとき、罪悪感よりも空虚感があった。罪悪感のほうが、まだ重みがあっていい。ここにいるのは僕じゃなくてもべつによかった。そんな可能性を浮かべた頭に大きな穴をあけ、むなしさが通りすぎていく。

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