うまれる

 母のことが嫌いだった。一日の半分以上は泣いていて、傷ついていて、甘やかされたがっている。

「あたしは悪くない」

 なにかとつけてはそう言って、都合の悪いことはすべてだれかのせいにしていた。

パート中のミス、焦げた料理、離れて暮らす祖母からときどきもらう小言、父の浮気。こういったことに責任を生じさせようとしているのも、そもそも間違っていると思う。だれが悪いとか、だれのせいとか、そんなことを言ったってしょうがない。起こった物事に対して、母は適応力がなさすぎる。だいたい、四十を過ぎていながら「あたし」だなんて臆面もなく使うのも気に入らない。

 父のことは好きだった。父は、母みたいにだれかを責めない。自分のことも責めない。物事に良し悪しをつけようとしない。ただしたいことをしている。平気な顔で浮気をするし、浮気相手と私を会わせて三人で遊んだことが何回もある。

 たぶん、一般的には父のほうがひどいのだと思う。けれど私は母よりも父の味方だった。父は私にひみつを持つ愉しさを教えてくれた。

 父の浮気相手は、ゆきちゃんといった。ゆきちゃんは父よりも十歳ほど下で、同じ会社で働いていた。いつも重い雨が降っているような母よりも、からりと笑うゆきちゃんが好きだった。

 初めてゆきちゃんと会ったのは小学五年生のときだ。日曜日の昼下がり、父が「ふたりで出かけよう」と唐突に私を誘った。そのとき母は「どうしてあたしだけ置いていくの」と例によって泣きながら訴えていた。

 父がそんな母をどう説得していたか、いまはもうよく思い出せない。ただ、出かけるときに「おみやげを買ってくるよ」と言っていたことだけはやけにはっきりとおぼえている。

 父とふたりで過ごせると思っていたのに、知らない女の人がいきなり現れたときは混乱した。

 家から一駅離れたところにあるファミレスだった。なんでも好きなものを頼んでいいと言われて、私はミックスグリルとフライドポテト、それからデザートにパフェも注文した。季節は春が近づくころだっただろうか。真っ赤な苺がたくさん入った豪華なパフェだった。

 母は外食を嫌う人だったから、まるでパーティーのようなファミレスの食事に浮かれていた。ゆきちゃんが現れたのは、私がちょうどてっぺんにのっている苺を口に入れようとしたときだった。

「こんにちは」

 そう言って、自然な動きで父の隣に座り、飲みかけのコーヒーを断りも入れずに飲んだ。

「こんにちは」

 なにも言わない私に、ゆきちゃんはもう一度言った。こんにちは。だから私もひとまずそう返した。

 ぺこりと頭を下げつつも、手に持ったままだった苺が気になって、おざなりなお辞儀になった。ゆきちゃんの髪は短かく、耳でピアスが光っていた。小ぶりの、シルバーのピアス。カットされた不自然に赤い苺が、急におもちゃのようにみえた。

「急にごめんね、みよりちゃん」

 はっきりとしたゆきちゃんの口調が好きだと思った。私をいやな気持ちにさせない。責められていると感じさせない。

「みよりちゃんに、会ってみたくて」

 そう言われたとき、もしかしてこの人お母さんになるのかな、なんて思った。クラスでひとり、親が再婚して新しい父親がきたと話している男の子がいた。私はそれが羨ましかった。母じゃない人が、お母さんだったらきっともっと毎日が楽しくなる。夜更かししたり、いろんなところに出かけたり、パフェを食べたり。

 ゆきちゃんと父が私の両親なら、それが簡単に叶う気がした。

 その日、私が気になっていたアニメの映画を観にいった。クラスのほとんどが観ていたから私も仲間に入りたかったのに、母はくだらないからと言って観させてくれなかった。

 でも私はそのとき、クラスメイトの仲間に入れることより、ゆきちゃんと会えたことのほうが嬉しかった。ゆきちゃんとなら、たぶん映画を観なくてもよかった。漠然と、自分の人生が変わっていくのだと感じていた。

 母がいる生活は、使い古された雑巾だった。汚れがたくさんついていて、もう洗い流せない。それでもその雑巾で汚いところを拭き続けて、どこもきれいにできない。ゆきちゃんは違う。ゆきちゃんは、新品の、いいにおいがするタオル。

「またゆきちゃんと遊びたい」

 帰り道、ゆきちゃんと別れて父に言った。

「うん。また遊びにいこう」

 父がそう答えてくれたから、スキップまでしたのをおぼえている。次ゆきちゃんと会えたらなにをしようか、なにを食べようか、考えても考えてもやりたいことは尽きずに浮かんだ。

 家路についたのは夕方だった。ちょうど日が落ちていて、西からの光がまぶしくて、頬や首筋が燃えそうだった。

 父は母へのおみやげを忘れなかった。家の近くにあるケーキ屋に寄り、ショートケーキをふたつ、チョコレートケーキをひとつ買った。チョコレートは私が選んだ。苺は食べたばかりだったから。母は、父が持ち帰ったケーキをみて、めずらしくあかるい笑顔をつくっていた。

 あのころの思い出を、私はずっと大切にとってある。父とゆきちゃんと私。三人でいられる時間が大好きだった。なにかを叩くと音が出る。花に顔を寄せると香りがただよう。そんなふうにあたりまえに、私たち三人のあいだには特別なひみつが生まれていた。母には言えないひみつ。私はその日から少しだけ、母に優しくすることができた。

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