しんじる

 iPhoneのアラームを朝七時に十分に設定している。だけどこの音が鳴る前から、目はさめていた。昨夜もなかなか寝付けなかったのに、眠りが浅いのか夜中に何度も起きてしまう。結局朝方幾度目かの目覚めで身体を起こした。アラームを鳴らすのは、単純に七時二十分を知らせるためだ。立派な機能をたくさん備えているというのに、わたしのiPhoneはこんなときしか使われない。

 アンフォールドというアラーム音は、静かな朝に似合わない。仄暗くて、最愛の人を失った作曲家がつくりそうなメロディだと思う。それでも朝がまたやってくるのが憂鬱だと感じるわたしにとっては、夜に衰退していきそうなこの音が心地いい。音が誘いだす先には、わたしの会いたい人がいる。

 キーボードに縫い付けられていた手をほどいてベランダに出た。スウェットの後ろポケットに入れていた煙草を取り出し火をつける。以前、ここで煙草を吸っていたら近隣の住人に通報されたことがあった。それからは、まわりから隠れるように、その場でしゃがんでこっそりと吸うようになった。

 このベランダはとなりのマンションの陰になって一向に日があたらない。雨が降っていなくても、いつもじめじめと湿気たにおいがする。まぶしいのは好きではないから、文句はない。 

「なんでこんな簡単なこともできないんですか」

 先日ついに後輩からもこの言葉を吐かれた。いままでは上司からため息と一緒に呆れられるだけだったのに、最近は上司よりも部下に怒られることのほうが多い。

もうすぐ三十四歳になる。会社をやめたい。けれどやめたあとの具体的な計画がない。スムーズに転職できるとも思わない。だからわたしは書くしかない。

 すごいですね。絶対作家になれますよ。

 この感想をもらってからずいぶん経つが、決して忘れることはない。絶対、という力強さに勇気が出た。わたしは作家になれる。素質がある。作家になったら仕事をやめられる。いや、いまは専業で稼げる作家などほとんどいないと聞くから仕事はやめられないだろうけれど、それでもいまよりましになる。絶対ましになる。

 汚れた灰皿に灰を落とした。ずいぶん洗っていないから、もともと白かった灰皿は真っ黒になっていた。狭いベランダの外側では、薄青色の空が遠くまで広がっている。真上に煙を吐き出すと、二階のベランダの底に当たって二手に別れるように揺れた。

 ゆっくりと煙草を吸っていると、吸い終わる頃には七時二十八分になっている。iPhoneで時間を確認して、例のベランダに目を向けた。わたしが住んでいるアパートのはす向かいに、高いマンションが建っている。下から数えて、あのベランダは三階だ。

 そのベランダに立ち、双眼鏡でどこかをのぞいている女の姿に、最初はなにも思わなかった。なにげなく景色でも見ているんだろう、とか、鳥の観察でもしているんだろう、とか、ぼんやり考えた。

 けれど彼女には、妙な違和感があった。いつも七時二十八分。一寸も動かず双眼鏡を構えている。目はいいほうだが、さすがに表情までは確認できない。違和感の正体には、すぐに気づいた。彼女には、なにげなさがない。はっきりとした目的を持って双眼鏡をのぞいている。身体を少しも動かさず、ある一点を見つめているのだ。数回も彼女の姿を確認すれば、その答えにたどり着いた。

 あの視線の先に何があるのか気になるまで時間はかからなかった。強い風が吹いていても、雨が降っていても、彼女の日課は変わらない。

 我慢ができなくなり、わたしもついに双眼鏡を買った。彼女が持っているものよりも小ぶりだが、距離が近いから姿がよく見えるようになった。

 買ってから気づくのも間抜けであるが、双眼鏡で彼女を見ても、彼女が何を見ているかまではわからない。ただ、双眼鏡を覗いたときに映った彼女の顔は、わたしの目を奪った。

 うっとりと、口元を緩めている。いったいどんな景色をみれば、あんなふうに笑えるのか、わたしにはわからない。単純に、羨ましかった。それほどまでに心を奪われるものが存在していることが。

 彼女の姿をみることで、わたしも同じになれるような気がした。わたしにも、なにかがみえる気がした。それがあれば、万事うまく事が進むような、わたしを救うなにか。

 夜通しパソコンに向かったあと、彼女の姿を見てから眠りにつくのが日課になった。青白く光るパソコンの画面には、白紙の文書ファイルがわたしを馬鹿にするようにうつっている。

 絶対作家になれますよ。この言葉を信じてどれくらい経つだろう。この前応募した小説は、一次通過をしただけで終わった。一次は応募総数の約三割も通っていた。

 仕事がいやだ。わたしは会社員などしている場合ではないはずだった。作家になって、たくさんの作品を世に出すべき人間だと思っていた。絶対作家になれますよ。この言葉を伝えてくれたインターネットの住人が、いまどこにいるのかわからない。わたしにもう一度言ってほしい。絶対作家になれますよ。わたしはずっと信じている。

 作家になるには書かないといけない。なんでもいいから。頭がからっぽでも書けるもの。

 あいうえお。かきくけこ。さしすせそ。たちつてと。なにぬねの。はひふへほ。まみむめも。やゆよ。らりるれろ。わをん。

 意味のない五十音が白紙の文書に生まれていく。こんな小説があるか。デリートキーを叩いて、文字を消す。浮かんでは消えていく文字たちは、消えるときだけわたしに操られている。

 もっと切実に。もっと突き詰めて。もっと真剣に。もっと奥深くまで。自分が残らなかった新人賞の選評を読んでいると、そんなことが書かれていることが多々あった。浅い小説では駄目なのだった。深く追求した作品でないと、だれにも認めてもらえないのだった。けれど切実さとはいったいなんなのだろう。仕事がいやだから。そんな理由で小説を書くわたしに、切実さはあるだろうか。

 七時半のベランダから、なにをみているのかを知りたかった。彼女の姿は切実そのものだった。彼女と同じになりたかった。そうすれば、わたしは作家になれるのではないか。途方もなく馬鹿げた考えに、しかしわたしはなぜだかそう願わずにはいられない。

 外からは朝の音が聞こえてくる。道行く人の話し声、バスが停まって再び走る音、子どもが駆けていく足音。地面と近いこの一階の部屋には、外とは正反対に音がない。

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