あやつる

 ユキヒラアキト。その名前は、呪文のように僕を蝕んでいった。顔も性格もなにも知らないはずなのに、その男性のくっきりとした影が、といると必ずちらつく。

「ユキヒラアキトはずっと私の特別なの」

 みよが、そんなことを唐突に言ってきたのはなぜだったんだろう。ただたんに、妬かせたいだけだったのかと最初は思ったけれど、どうもそれとは違うらしい。僕に言っているというより、その人のことを忘れないよう記憶に刻みつけているといった感じだった。写真が色褪せないよう直射日光を避け、薄暗い一定の湿度が保たれた部屋でアルバムをめくり続けている姿が思い浮かんだ。

「それ、だれ?」

 たずねても納得のいく答えが返ってこないとわかっているのに、僕はなにかに操られるように口を動かしていた。聞かずにはいられないという焦りではなく、聞かないといけないというプレッシャーがあった。みよが、聞いてほしいのだろうと思った。けれど彼女は、「聞いたってわからないのに」とおかしそうに笑った。

 脳か声帯か、僕の意思とは関係ない何者かが身体のどこかに潜んでいる気がした。たずねる、笑う、抱きしめる、電話をする、食事をする、出かける、射精する。どんな動作をしていても、それが自分の意思とは別に行われていることのように思う。外から自分を客観的にみているような気になる。昔からそうだった。自分は本当に自分なのか、自分を操っているなにかがいるのではないか。自分という存在が曖昧に揺れることがある。

「聞いたってわからないなら、ほかの男の名前なんて出さないでよ」

 つまらないことを言ってしまったと後悔した。どうして僕は、事をうまく運べないのだろう。自分が不利になることしか言えないのだろう。案の定みよは、「じゃああなたがほかの女性と結婚しているのはいいの?」と、嬉しそうに口角を上げた。みよはときどきこの顔をする。死にそうになっている小さな虫をつまんで喜ぶ子どもみたいな、無垢な悪意。僕がなにも言い返せないのをわかっていて、わざといじわるなことを言って楽しんでいるのだ。

「ユキヒラアキトと会ったのは、もう十年くらい前だけど」

「いいよ、話さなくて。ごめん。さっき言ったことはぜんぶ忘れて」

 肩を落として呟くと、「うん。いいわよ。忘れる」とあっさり返ってくる。自分の発言を後悔したくせに、そのあと彼女が口にする言葉を、僕は待っていたのかもしれないとも思う。

 かわりに。みよが嬉々とした声を出した。彼女のこの一言は、僕の頭を空にする。なにも考えなくていい。ただ彼女の言うことを聞いていればいい。それは唯一時間を止める方法のようで、束の間の安心感にもなる。

「かわりに、今日はもう一時間延長して」

 ゆるされるかわりに僕はみよの命令を聞く。みよといると、操られていてもいいと思えてしまう。

 今日も残業で遅くなる。菜穂子なほこにメッセージを送った。嘘をつくことだけは、なぜか自分の意思だと確信が持てる。

おそらく返事はこないだろう。なんて見え透いた嘘だと、彼女が僕を軽侮する姿が簡単に想像できた。


 たとえば今ここにいるのがみよだったら。そんなことを、菜穂子といるときによく考える。

拓実たくみくん、どう?」

 わあ、下河辺しもこうべさま、こちらもお似合いですね、とブライダルショップの女性マネージャーが顔を綻ばせた。彼女はさっきから菜穂子がどんな形のドレスを着てもお似合いだと言っている。

「うん。いいんじゃないかな」

「どこが、どういいと思う?」

 さっきからずっと僕を困らせる質問をしてくる。そんなに細かい感想は僕の口から出てこない。どれもお似合いということは、どれを着てもそんなに変わらないということだ。そして実際に、僕は菜穂子が着ている何着ものドレスの違いがまったくわからない。

「ええと、その、スパンコールがいいと思う。きらきらしていて」

 投げやりに言うと菜穂子は一瞬不満げにしたものの、マネージャーを気にして「うん、わかる。私もかわいいと思う」と笑った。メインのウェディングドレスだけですでに六着試着している。さらにこのあと、お色直し用のカラードレスも決めなくてはならない。これからの長い時間を思うとげんなりした。

 たとえばみよだったら。みよは、どんなドレスを選ぶだろう。どれくらい迷うだろう。そもそも結婚式を挙げたいと思うのだろうか。結婚をしたいと考えるのだろうか。もし、みよが僕と結婚をしたいと言ってきたら。

「籍も入れたばかりなんです」

 ぼうっとみよのことを考えていたら、いつのまにか目の前のカーテンが閉められていた。奥から菜穂子とマネージャーの楽しげな声だけが聞こえてくる。

「お腹が大きくなる前に急いで式を挙げようって」

「つわりとか、大変じゃないですか?」

「あ、でも私そんなにひどくないんです。母もそうだったみたいで。お腹にいるときはいい子でも、産まれたらどうなることやら」

 でも、元気のいい子が一番ですよ、はい、できました。そんな言葉と一緒にカーテンが開かれる。先ほど着ていたものとどこが違うのかわからない、目の前には七着目のウェディングドレスを満足げに身に纏った菜穂子が立っていた。

「やっぱりこちらもいいですねえ、こちらは先ほどのドレスより裾が長いんですよ。シルエットも比較的すっきりしてみえるんですが。どれも似合っていて迷いますねえ」

 それはきっとブライダルショップで働く彼女の本心なんだろう。子どもを授かって、夫とドレス選びに来て、結婚式を二ヶ月後に控えた女性。幸せと大きく顔に描いて歩いている菜穂子。どんなドレスを着ても似合ってみえるのは、当然のことなのかもしれない。菜穂子をとりまく状況のひとつひとつは、不幸を一切寄せ付けない。染みのひとつも許されない白いドレスは、強い力をまとって菜穂子を守っていた。

「拓実くん、どう?」

「うん。いいんじゃない」

「どこが、どう」

 さっきと同じことを言われたとき、突然意識が遠くなるような感覚がした。だけどそれは気のせいで、僕はしっかり地面に足をつけてウェディングドレスを着ている菜穂子を眺めている。気を失えたら、どんなに楽だっただろう。菜穂子をみつめる僕をみつめる自分という図を想像して、なんとか口を動かそうとする。口角に紐をくくりつけて、自分を操ろうとする。脳内で小さな虫が蠢いて、なにか信号を出そうとしている。そのあいだもじりじりと菜穂子の視線に刺される。安いトレーナーを身につける僕は、ドレスに比べて防御力が低すぎる。

 なんでもいいから褒めろ、なにかを言え。虫が耳元でささやく。

「……スパンコールが」

「これには、ついてないよー」

 菜穂子が薄く薄く表情を崩した。マネージャーは、僕が冗談を言っているのかと勘違いしたようで、「仲がいいんですね」とくすくす笑った。うなじに冷や汗がたれた。笑っている菜穂子の顔は、全力で僕を責め立てている。

 あのときの顔と一緒だった。子どもができたのだと、菜穂子が言ってきたとき。笑いも泣きもせず、淡々と菜穂子は言った。喜んでいるのか不本意なのか、長年一緒にいるというのに、僕は彼女の気持ちがまるでわからなかった。

 拓実くんのこと、逃がさないよ。

 妊娠の報告をしたあと、菜穂子が言った。薄く薄く表情を崩して、不気味に笑ったのを、僕はずっとおぼえている。

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