みつける

「絶対にアキくんも五月ちゃんのこと好きだよ」

 教室の片隅にいても聞こえてくるくらいの声量に、思わず吹き出しそうになった。いや違う、声量がおもしろかったんじゃない。発言のなかみ、あまりの根拠のなさが、おもしろかった。なぜ彼女たちに、絶対だなんてことがわかるのだろう。そしてなぜ藤崎五月は、その言葉を信じて疑わないのだろう。

 中学二年生の、夏前だった。梅雨明けは発表されたものの、すっきりと晴れないぐずついた天気が続いていて、身体はいつも汗ばんでいた。晴れ間がみえていると思ったらぱらぱらと雨が降り出して、やんだと思っても重い雲がどこまでも続いていた。雨がいつまでも未練たらしく留まっているような、情けない感じがした。

 ひとめで地味のカテゴリーに分類される私は、藤崎五月とはおろか、ほとんどのクラスメイトと話したことがない。浮いている、というほどの存在感もなくただひっそりと過ごしている私でも、あの発言が聞こえてきたときはさすがに優越感に身を沈めた。

 雪平秋人は藤崎五月を好きなんかではない。これにいたっては、絶対という言葉をつかってもいい。彼には別に、好きな人がいる。

 その事実を、私だけが知っているのだ。


 その現場を目撃したのは偶然だった。学年全体で行われる体育の授業の前の休み時間、ほとんどの生徒はすでに校庭へ出ていたけれど、私は好きではない体育のために早々と外へ出るのがいやだった。トイレに行ったり意味もなく空いた教室を眺めたりして、てきとうに時間をつぶしていたら、雪平秋人をみつけた。そこはちょうど私の教室だった。

「なにしてるの?」

 雪平秋人はクラスが違う。その彼が、誰かの机のなかをいそいそと、どこか奇妙な顔をして探っていた。焦りときもちよさをぐるぐるかき混ぜたような、奇妙な顔だった。視線は泳いでいるのに、口もとには隠し切れていない笑みを浮かべている。口の歪ませ方が下品で、普段騒がれている彼の顔とはぜんぜん違う。その表情をみたとき、たぶん私もにやけていた。私は、だれかの秘密を知るのが好きだ。

 ねえ、と声をかけるとたいそう驚いたようで、彼は「あ」に濁音をつけたような叫び声をあげた。それから私のほうをみて、身をふるわせて、手に持っていたものを落とした。

 雪平秋人がまさぐっていた机。あそこは誰の席だったか。思い出そうとしていると、雪平秋人は「みなかったことにして」とほとんど泣きそうな顔で、まくしたてるように言ってきた。

 雪平秋人は学校内ではそこそこ有名、クラスが違う私でも知っている。悪くない顔立ち、野球部のレギュラー、成績はそこそこ(でもそれがちょうどいいらしい)、明るい性格で友達が多い、藤崎五月という幼馴染みがいる、つきあっているのかつきあっていないのか、云々。そんな人気者が、誰かの机のなかを泥棒みたいに漁っている。

「そこ、藤崎さんの机じゃないと思うけど」

 私にとって、雪平秋人が何をしていようが関係なかったし、言いふらす相手もいない。ほんの親切心だったのだ。彼は藤崎五月の机をさぐろうとしているのだと思った。けれど雪平秋人は、そこで泣きそうな顔をたちまち嫌悪に変えた。

「五月の机じゃなくていいんだよ」

 おそらく、いろんな人に藤崎五月との仲をからかわれているんだろう。彼女の名前には心底飽きたとでも言うような表情だった。下品な笑み、怯えて下がった眉、嫌悪感が浮かんだ目。短い時間のあいだにみた顔のどれも、いつも噂されている彼とは違った。これがほんものの顔なのかもしれない、とふと思う。

「このこと、誰にも言わないであげる。かわりになにしていたか教えて」

 先ほど彼が落としたボールペンを拾う。なんの変哲もない、黒いボールペンだった。するする書きやすいことで有名なメーカー。かちっと芯を出す。それからまた芯をしまう。出す、しまう、出す、しまう。繰り返していると、雪平秋人は鬱陶しそうにした。

「……そのボールペンがほしかったんだよ」

「泥棒だ。なんで?」

 つい口元がにやけてしまう。さわやかだと噂される人物が、こんな背徳感あふれる行動をしていた。軽蔑は生まれない。私はとっても運がいい。だれも知らない彼のことを知ることができた。私だけが知っている。私は特別。

「どうしてこの机なの? ここ、松田さんの席だよね」

 話している途中に思い出した。ここは松田美代の席。目立つタイプではないが成績がよく、どこか上品な女子生徒。笑うときはいつも口元に手をやっていて、白々しさを感じたことがある。

「……彼女のことが好きだから」

 へたにごまかすのは悪手だと思ったのか、雪平秋人は素直に話す。つぶやいた彼の顔は、ときどき女子生徒に騒がれている、「可愛い顔」をしていた。照れくさそうに視線をそらし、耳をやや赤くしている。下唇をかすかに突き出す姿は、たしかにかわいい。でも私は、それとは違う顔をみてみたい。

「ねえそんな顔しても、さっきにやにや笑いながらこの机を漁っていた事実はなくならないよ」

 そう言うと、今度は仔犬のようにしゅんとしょげる。心臓が大きく動いた。勢いよく血がめぐる。彼の秘密を知った特別感、彼を支配できたような優越感。仔犬のようでいて、こちらを怯ませるような嫌悪を浮かべることのできる雪平秋人。馬鹿みたいに吠えてほしい。それからしょげてほしい。私は彼を傷つけてみたい。

「本当に誰にも言わない?」

 手に持っていた松田美代のボールペンを、雪平秋人に握らせる。骨張っていて、ごつごつとした手。いじめたい。可愛い人をなじりたい。弱いものをこの手におさめておきたい。

 こういう感覚ははじめてではなかった。子どものころ、人形遊びをしていたとき、その細い首筋を絞めたくなったことがある。私は自分が優位に立ちたいのだと思う。弱い人より高いところにいたいのだと思う。だれかを従わせたいのだと思う。

「言わないよ。約束してあげる。かわりに、今日一緒に帰ろう」

 微笑みながら言うと、彼は絶望的な顔をした。その表情に、ときめいた。それまで感じたことがなかった胸の高鳴りに小さく感動する。これは恋であるのかもしれない。たしかに私の心臓は大きく音をたてている。

 放課後、雪平秋人の部活が終わるまで教室で待った。日が暮れはじめたころ、彼はちゃんと私を迎えに来た。私が迎えに行ってもよかったが、目立つからそれは嫌だと断られた。彼は、かいた汗をぬぐいもせず、適当に制服を着た格好で教室に来た。

「お疲れ様」

 声をかけるとげんなりした顔をする。

「帰っていてほしかった?」

 からかうように言うと、首を縦にも横にも振らない。

「俺のこと、好きなの?」

 雪平秋人は廊下から見えない位置に立ち、探るようにそんなことを聞いてくる。天然なのか、自信過剰なことを平気な顔で聞いてくる。さっき、松田美代の席でこそこそとボールペンを盗もうとしていたときとは大違いだ。普段みせている顔を、私の手で剥がしてやりたかった。

「好きじゃないよ。でも興味はある」

 窓から運動場を見ると、すでに生徒はほとんどいない。下校時刻を告げる放送が、蛍の光とともに流れてきていた。

「私の名前、知ってる?」

 今度はわかりやすく首を横に振る。そこで気づいた。雪平秋人は自信過剰なのではなく、ただ単に正直者なのだ。知らないことは知らない。疑問に思ったことはそのまま聞く。欲しいと思ったものは手段を選ばず手にしようとする。

 とても可愛い男の子だと思った。同時に、こんな男の子に好かれている松田美代がとても羨ましくなった。

「みより。片瀬みよりっていうの。みよ、って呼んでいいよ」

 雪平秋人は眉を大きくひそめて吐息をこぼした。まるで信じられない、化け物でもみたような表情と長い息。けれどそれはお互い様だ。彼は私にみられてもなお、泥棒行為をやめなかった。彼の通学鞄には、巾着袋に大事に入れた黒いボールペンが入っている。


 ほたーるの、ひかあーり。まどーおのゆきいー。

 下校の放送を聞くと、つい口ずさんでしまう。並んで歩くのは抵抗があるのか、三歩ほど後ろを歩く雪平秋人に聞こえるように歌った。正門が閉まるぎりぎりに学校を出たけれど、帰路には生徒が何人かいる。

「それ、怖いから歌わないで」

「怖い?」

「怖い。そのメロディー。あと、いきなり歌いはじめるのも怖い」

片瀬さんって、変な人でしょ。そんなことを言いながら、怯えた表情でまわりの様子をうかがうから、たまらなくなってしまう。私は変な人でいい。ふつうの感覚なんて、まっぴらだ。

「いつから松田さんのこと好きなの? ほかにも盗んだものある?」

立ち止まって、雪平秋人と肩を並べた。顔を覗くと、高い鼻と細く吊り上がった両目がちらちら翳っていた。足元を見ると私たちの影が不気味なほど大きく伸びている。西に広がる夕焼けが、じわりと燃えるように辺りを包んでいた。

「好きになったのは、たぶん一年生のとき。同じ委員会になった」

「委員会なに?」

「美化委員会」

「なにするの?」

「ゴミ拾いとか……」

「ほかに盗んだものある?」

「…………」

「じゃあどうして松田さんのこと好きになったの?」

「可愛いから」

「ほかに盗んだものは?」

「…………」

 その沈黙が答えだということに、気づいているのだろうか。私が小さく息を吐いてまた歩き始めると、後ろで雪平秋人が安堵したのがわかった。

「藤崎さんとつきあってるんだと思ってた」

「五月とはなんでもないよ」

「でも、松田さんはそう思わないんじゃない」

また沈黙が訪れる。さっきから、彼をいじめるような言葉ばかり出てくる。そして、私はそれをとても楽しんでいる。

「でも、雪平くんが泥棒だって知ったら、松田さんも藤崎さんも軽蔑するかもね」

 少しずつ抉るように。子どもの頃に作った砂山を削るように。雪平秋人の身体の表面から、ぽろぽろ感情を剥いてみたい。教室でみたような、彼のほんものの顔を暴きたい。

「でも私は、雪平くんがそういう一面を持っていてとても素敵だと思ったけど」

誰も知らない彼の悪い顔。それはぞっとするほど甘く、私を興奮させた。

「また一緒に帰ろうね」

とびきりの笑顔を向ける。けれど雪平秋人は笑わない。どこか遠くをみつめるような、私の後ろをみているような、彼の黒い両目が夕闇に溶けた。

 日はすでに沈んでいて、私たちの影はもうみえなかった。

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