第46話 道筋の証明


 フルカネリの禁書。

 その真髄であるネクロマンスが今発動される。

 彼の探究心の発端は、アドと同じ。

 ただ、愛する人ともう一度会いたかった。


「……ごめん……お母様……」


 正直、不本意だ。

 死者蘇生ではなく、死霊術をお母様に使うことが。


「お母様に……冷たい思いをさせる」


 そして、自分をネクロマンスすることが。


「もうボクに……体温はなくなる」


 お母様がボクを抱きしめるとき、氷のような冷たさに悲しむだろう。

 それを思うと胸が切なくなる。


「冷たい体で再会するのは嫌だけど……心の底から嫌だけど……必ずお母様の体温は……取り戻してみせるから。お母様の魂は……取り戻してみせるから。そのときはさ……ボクの話を聞いてね……」


 ボクはお母様に『ありがとう』を伝えたいんだ。


「おはよう……お母様……」


 黒く輝く魔法陣から、一つの棺が召喚される。

 その棺の中に納められているのは、アドが最も大切にしている遺骨。


「……300年ぶりだね」


 受肉した手が棺桶の縁をつかみ、一人の女性が身を起こした。

 かつてリューンガルドの聖女と謳われた、アドの母親その人だった。

 その姿を見て、アドは泣き出してしまいそうになる。


「このお母様の死体はね……丁寧に丁寧に集めてくれたんだ」


 宝物を一つ一つ摘み上げるように、アドは言葉を丁寧に形作った。


「メリュディナっていう……心やさしい魔族が……」


 いろいろあったんだ。

 本当にいろいろ。


「少しだけ……お母様の体を借りるね」


 黒い光が荒れ狂うなか、お母様は亡霊のように立ち尽くしている。


「ボクはもうじき死ぬから……魂が消える前に……ボクをネクロマンスするんだ……ボクがボクを再現するには……どうしても……お母様の聖なる力が……必要……」


 徐々にアドの意識が遠のいていく。


「ああ……でもやっぱり……無理そうかも……」


 気を張っていても、すでに限界だった。


「意識が遠く……お母様を動かせない……」

「諦めないでください、アドくん」


 凛と澄んだ声が耳に届いた。


「リア……ラ……?」


 アドの目に、時の魔術書を持つリアラが映る。


「わたしが時を止めます」

「そんなことしたら……アンタは……」

「はい。わたしの寿命はなくなります。もう巻き戻しは、使えません」


 時の魔術はどれもが命を消費するものだ。

 だから300年前のクロノスの魔女は、アドを1000年眠らせることと引き換えに、自分の命をすべて消費してくれた。そして、300年後のクロノスの魔女も、アドのために命を使ってくれると言う。


「けど、いいんです。だってわたしは、このアドくんに賭けたんですから!」

「…………」


 リアラの力強い瞳を、アドは正面から見つめた。

 その賭け、大勝ちさせてやる。


「それはまずい……! 状況が本当にひっくり返――」


 これまで余裕の態度で眺めていた影の魔王が、この状況を察して焦燥を隠さず迫ってくる。

 魔王の爪がアドの首を貫くと同時、


 この世界の時間が停止した。


 影の魔王は、アドの首に爪を突き刺したまま動かない。表情を凍りつかせるウィンターも、影の群れに襲われる家畜たちも、灰色の世界の中で一様に動きを止めている。


 生と死の狭間。

 この停止した時間の中で、アドとリアラだけが動くことができる。


 正確には、アドはもう死んでいる。

 アドの死体の上で、アドの魂が浮遊していた。

 自分の死体を見下ろすというのは、不思議な感覚だった。


 アドの魂が、無表情のお母様を眺めた。

 お母様が、優しく微笑んだ。

 アドの死体に、ぶわっと涙が浮かぶ。

 ゆっくりと掲げたお母様の腕で、古代文字と幾何学模様が紡がれる。


 完璧に描かれる死霊術式。


 空から降ってきた魔晄結晶が一瞬で昇華され、世界が黒い術式の光で埋め尽くされる。

 アドの魂が、アドの死体に吸収されていく。

 リアラが両手を組んで祈りを捧げるなか、お母様が腐り落ちていく代わりに、アドの死体に瑞々しい生気が宿っていく。

 アドはぴくりと指を動かし、やがて魔王の爪を握り締め、強引に引き剥がした。


 灰色の世界に色が戻り、時間の流れが正常になる。


 リアラの首の数字が、なぜだか『18』に変わっていた。


「おはよう、影の魔王。退屈しのぎになったか?」

「グッ……!」


 アドが魔王の爪を握り折った。

 砕ける音と共に、爪の破片が足元に落ちる。


「……愉しい時間は終わりだ、アド。死んでもらう」


 魔王が別の腕でアドの胸を貫いた。

 撃ち抜かれたような衝撃が走り、アドは息が詰まった。きっと心臓は破裂しているだろうし、背中からは魔王の腕が突き出ているだろう。

 だがアドは平然と、魔王の腕を握りしめた。


「……!」


 影の魔王が驚愕して固まる。


「何してんの?」


 目の前で死霊術を見せたのに、驚く意味がわからなかった。


「ボクはアンデッドだぞ」


 ニィ、とアドが嗤う。


影繋シャクトだっけ? もう意味ないね、それ」

「チィ……!」


 アドは影の魔王を抱き寄せた。

 魔力を有したアドを前にすれば、影の魔王とて身動きが取れない。


「まだ終われん。ようやく父さんに近づけたのに」


 魔王を押さえつけたまま、アドは全身の魔力を送り届ける。


 ――彼女に。


「ウィンター、ボクごと殺れ」

「まだ終われんのだ……!」


 そこに、弾丸となったウィンターが飛翔してくる。


「ぐううううううっ!!」


 血の刃が、魔王の首に接触した。

 しかし――

 魔王の首に影の塊が出現し、血の刃をぎちぎちと防いでいる。

 計り知れない硬度。だが、吸血鬼は二度舞う。ウィンターは爆発的な瞬発を発揮し、もう一回転してみせる。軸足に氷の華が咲き、寸分違わずまったく同じ場所に、真紅の刃を激突させた。


「ウィンターッ!!!」


 ――こんな国ッ!! 滅んでしまえばいいんですッ!!


「影の国を、ぶっ壊そう!!!!」


 そう言って煌々と目を輝かせるアドの体ごと、


「ぐううううううううっ!!!!」


 真紅の刀が魔王の首を断ち切っていった。

 戦慄するほど美しい閃きが、アドの目に焼きついて離れない。


 ウィンターの雪閃華せっせんかは最高だ。


 この身で受けたボクが言うのだから間違いない。


 血の刀で両断された肉繊維に、紅い氷の華が咲き誇る。

 一瞬で、広場一帯が雪原の世界に成り変わった。

 巨石ほどの氷の華が、結晶となって至る所に芽吹いていく。瞬きする暇さえなかったこの瞬間、街を別世界に一変させたウィンターに誰もが我を失った。


「父……さん……」


 半分凍りついた魔王の生首が、言葉を紡ぎながら宙を舞う。

 影の魔王の瞳孔が極限まで拡大され、見えもしない父の姿を追いかける。


「大丈夫、安心して死ね」


 地面に転がるアドの頭が、けらけらと嗤って言った。


「アンタもボクのお友達にしてあげるからさ」


 亀裂に咲く野花の隣に、ぽとりと寂しく、魔王の首が落下する。

 それは紛れもなく、終戦の音だった。



     *



「アっ……! アアっ……! あああっ……!」


 あれほど空を覆っていた影が晴れ渡っていく。

 暗闇に光が差す。

 エミールはその光景を目に焼きつけるように、嗚咽を上げながらただただ眺めていた。次に自分の体を見下ろしたとき、肌色の腕が見えて息が止まった。


「影が……解けてる」


 腕や足を動かして眺める。

 正真正銘、自分の手足だ。

 人間の、手足だ!


「おい見ろ。魔王様が。魔王様の首が」


 誰かが言う。


「影の魔王が落ちたァァッ!」


 武器を放り投げた家畜たちが、空に向かって大歓声をあげる。地面に降り注ぐ武器がけたたましい音を打ち鳴らし、さらに飛び跳ねる家畜たちの足音で広場中が塗り潰される。


 その大歓声を突き破り、


「あんた!」


 母ちゃんの声がどこまでも響く。

 振り返ると、母ちゃんが父ちゃんの胸に飛び込んでいく姿。


「母ちゃん! 父ちゃん!」


 母ちゃんと父ちゃんが抱き合って泣いている。


「今までごめんね!! 忘れちまってごめん!!」


 エミールの目頭が熱くなった。

 影なんかじゃない。

 よく知ってる母ちゃんの顔、父ちゃんの顔だった。


 広場で横たわる人々から、すうっと影が引いていく。

 シャドウハンターの剣で刺された痕なのか、衣服はところどころ敗れているが、垣間見える肌に傷はひとつも見当たらない。


「爺ちゃん、爺ちゃん!」


 エミールが刺して影人に変えてしまったお爺さんも、お孫さんと抱き合って生を喜び合っている。目を凝らして見ても、やはり刺し傷がどこにもない。


 エミールは腰が抜けてしまった。

 よかった。本当によかった。


「見てるかい、姫さん」


 お爺さんが眩しそうに空を見上げた。

 どれほどこの日を待ちわびただろう。


「この国にも差したよ、光が」


 世界が生まれたかと思うほど、目の覚めるような青空だった。


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