時の魔女

第40話 リアラとアルティア



 十二歳のリアラは、廊下でじっと息を潜めた。

 柱の陰で膝を抱え、手で口を押さえ、息が漏れることを恐れる。

 今この瞬間だけは、空気になりたかった。

 厩舎塔の7階で荒々しい足音が響き渡るのを、身をこわばらせて聞く。ぎゅっと目を閉じる。何事もなく過ぎ去ってほしいと祈り続ける。


「いた!?」

「いないわ。あの囚人、どこに逃げたのかしら」


 囚人。

 リアラは先輩の侍女からそう呼ばれ、毎日陰湿なイジメを受けていた。

 生まれてきて一度も法を破ったことはないのに。


「見つけ出して、牢屋に閉じ込めてやりましょ」

「ここにいちゃいけないのよ。囚人なんかが」


 先輩たちの声が廊下の奥から聞こえてくる。


「ここは神聖な場所なんだから!」


 違う。

 神聖な場所とか関係ない。

 何でもいいから理由をこじつけて、弱い者を虐めてストレスを発散したいだけなのだ。そのオモチャになってしまったのが、リアラだったというだけの話。厩舎塔の侍女にとって、イジメは一種の娯楽だった。


 先輩たちの足音が遠ざかり、気配が完全に消えてから、リアラは「ふぅ~~……」っと肩の力を抜いた。上手く空気になれたようだった。


「はぁ……! はぁ……!」


 そのとき、リアラの隠れていた柱に誰かが転がり込んできて、リアラは心臓を吐き出すかと思った。


 その方は、どうやら慌てて逃げ込んできたらしい。息がまだ整っていないのに、柱からひょこっと顔を出して、廊下の様子をうかがっている。まだリアラに気がついていないのか、背を向けたまま肩を上下に揺らす姿が無防備だ。


「あ、あの……」

「ひゃっ!?」


 おそるおそる声をかけると、面白いくらいにびくっと跳ねた。


「ちょ、リアラ、あなた、脅かさないでよ!」


 振り返ってそう怒るのは、この厩舎塔の王族、アルティア様その人だった。


「いまお爺さまから逃げてるの」


 唇の前に指を一本立てて、しーっと念を押してくる。


「なにを……おやらかしになられたんですか?」


 アルティア様が先代から逃げるのは一度や二度ではない。


「お爺さまのお菓子を盗み食いしただけよ。ちょっとね」

「それにしては、ものすごい慌てようですけど」

「そのお菓子がね、お客様用だったのよ。でも、あんなに怒らなくていいじゃない。わたくし、知らなかったんだもの。知らなかったから、全部食べてやったわ!」

「先ほど、ちょっとって……」


 今度はリアラの唇に一本指を押し当てられた。


「細かいことは気にしない」


 リアラは口を噤み、「は、はい……」とうなずく。


「で、リアラはここで何をしてるの?」

「いえ……特に何も。ではわたしはお仕事に……」


 アルティア様のお気を煩わせることもない。

 そう思いリアラは給仕服の裾をぱんぱんと払って、この場を去ろうとするが、ぐっと腕を掴まれて前に進むことができなかった。


「そんなわけないでしょう。また虐められてるの?」

「そんなことないです。お姉様方はわたしによくしてくださいます」

「あら、そう?」


 まったく信じてない顔だ。


「リアラが勇気を出してくれれば、わたくしは虐めの証拠を集めるわよ」

「そんな……大丈夫です」


 同い年だからという理由だけで、リアラがアルティア様の傍付きの侍女に任命されたことも、先輩方の嫉妬を買った要因である。それをアルティア様に言ったところで、迷惑をかけるしかないので黙っておく。


「事を荒立てたくないのはわかるけど……」

「ほんとうに大丈夫ですから」


 突然アルティア様が手を伸ばし、リアラの髪の毛を持ち上げた。


「や、やめて。見ないでください」


 リアラは思わず首を引っ込める。

 アルティア様が髪を持ち上げたせいで、首筋の忌々しい痣が顕わになった。


「いい、リアラ。あなたの価値はこんなものじゃ決まらない」


 この痣が、イジメの発端だった。


「あなたの価値はあなたが決めるの」


 その考え方は、あまりに眩しすぎた。

 強く生まれ育ったアルティア様だからできる考え方であって、弱く生まれ育ったリアラには到底マネできるものではない。


「痣が数字に見えるからって、何? 囚人番号? 言い返しなさいよ、リアラ。こんなのたかが痣だって。あなたはこんなにも美しいじゃない!」


 首の痣はどういうわけか、数字の『116』のように見えた。

 だから先輩方は面白がって、この痣のことを囚人番号だと言ってくる。


「たかが痣……?」


 聞き捨てならなくて、リアラはつい言い返してしまう。


「アルティア様にはわからないです」

「あ、ちが……そんなつもりじゃ……」


 アルティア様は眉尻を下げて両手を左右に振った。


「全部生まれ持ったあなたとは違うんです」


 言って後悔した。

 アルティア様の優しさにつけこんで、わざと傷つけるようなことを言ってしまった。

 こんな無礼な態度、アルティア様でなければ、すぐに打ち首だ。

 でもそんなことはしないとわかっていたから、こんなひどいことも口を突いて出てきたのだと思う。それがいかにも打算的で、ずる賢くて、嫌な女だと自己嫌悪する。自分は本当に、アルティア様と違って、何も持っていない。


 イジメに遭うのも納得だ。



     *



 あの日からアルティア様とぎこちない日々が続いたが、リアラはいつもどおりにアルティア様のお世話に尽力した。仕事は仕事、それはそれだ。


「アルティア様。怒られちゃいますよ」


 アルティア様に手を引かれて、街のほうに連れ出されるリアラ。

 王族がお忍びで外出するのは危険すぎるため、当然禁止されているのだけれど、そんな事情アルティア様にとっては知ったことではない。


「大丈夫、バレないわ!」

「この前バレてお尻叩かれてたじゃないですか」


 前回も厩舎塔を抜け出して、こっぴどく怒られたのを覚えている。


「あれは叩かれてたんじゃなくて、叩かせてたの。親子のスキンシップ!」

「そんな屁理屈、初めて聞きました」


 尻を叩かせて取るスキンシップなど嫌すぎる。


「わたしだって拳骨をいただいたんですからね、侍女長から」


 言ったそばからあのときの痛みを思い出して、うぅ……という感じになり、たんこぶができた場所を思わず手で押さえた。


「あの侍女長、解雇ね」

「やめてください。悪いのはわたしたちです」


 侍女長は何も悪くないし、むしろ怒って当然なくらいだ。


「はい、リアラ。いつもの」


 そう言ってアルティア様が手渡してきたのは、レンズの大きな丸眼鏡だ。

 もちろん伊達で、オシャレでもない。


「これって意味あるんですか」

「脱出に変装は大事よ。はい、帽子」


 言うが早いか、ぽんと頭に帽子が乗せられた。

 つば付きのキャスケット帽子で、目深に被れば髪型を隠すことができる。


「わたしは影が薄いからいいですけど、アルティア様は変装しても目立ってますよ」

「わたくしの変装はカンペキよ」

「おっ、姫様。今日もお忍びですかい?」

「ほら」


 道行く街の人に声をかけられて、アルティア様がたじたじとなる。


「ははは……」


 アルティア様はいつもは垂れ流している長い髪をひとつにまとめ、キャスケット帽子の中に押し隠しているが、それでも垣間見える髪の毛には光沢があって気品を感じた。伊達眼鏡をしたって、くるんと上がったまつ毛やくりくりの瞳には華があり、アルティア様の横を歩けるだけで誇らしくなる。

 これが王族の生まれ持った高貴さなんだ、とリアラは思う。


「でも街のみんな、黙っててくれるでしょ?」


 丸眼鏡を下にずらし、アルティア様がお茶目にウィンクした。


「そうですけど……」


 リアラは途中で口を閉じた。


「アルティア様、隠れて」


 代わりに、アルティア様の背中をぽんと押して、路地裏に入って建物の陰に隠れる。横目で見たのか、アルティア様もそれに気づいて静かにしている。


「影目玉ですら見逃してくれるのに」


 アルティア様は苦い野菜を出されたときのように顔をしかめた。


「チクるのはアイツらなのよね~!」


 物陰から見える彼らは、クロノスの兵士だった。

 クロノスの家紋の入ったジャケットを羽織り、巡回という名の街の散策に精を出しているのだろう。


 この街には影の兵という治安部隊がいるので、そもそも人間の兵士は仕事が少ない。しかも犯罪を行うと希望ポイントが減るし、希望ポイントが減ると犯人が誰かすぐわかってしまうため、治安はまったく悪くない。したがって、人間の兵士はやることがなく、巡回という名の時間潰しに明け暮れるしかない。


 しかしクロノスは王族なので、保険として兵士は用意する必要がある。

 だからクロノスは、暇な兵士を多く雇っているのだ。

 アルティア様をチクるというのも、彼らにとってはよい暇潰しなのだ。


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