第38話 影繋ぎ


 魔力の蒸気を漏らしながら、影の魔王が悠然と歩いてくる。


「来るよ、ウィンター」

「どこを見ている?」


 声はすぐ背後から聞こえた。

 前方に影の魔王の姿がない。


「くっ……!」


 肝の底が冷えてアドがとっさに振り返ると、真後ろに立っていた影の魔王が、禍々しい魔力を帯びた腕を眼前まで伸ばしてきた。


 首筋に、囚人服の食い込む痛みが走る。


 ウィンターがアドの首根っこを掴んで地面に引き倒したのだ。


 間一髪で魔王の腕を逃れられるが、そのせいでウィンターが身代わりとなった。影を纏った魔王の手にウィンターの腕が掴まれ、触れた部分からじわじわと影が侵食していく。


 ウィンターが腕を振り払い、魔王の胸を蹴り弾いて、辛うじて距離を作った。


 同時に、ウィンターの掴まれた腕が黒く変色し、消し炭のようにぼろぼろと崩壊していく。風に流されていく自分の腕を見て、ウィンターが眉間にしわを寄せた。


 アドには魔王の動きが速すぎて見えなかった。

 もしウィンターが引き倒してくれなかったら、腕を黒く崩壊させていたのは自分のほうだった。


「急に速くなった」

「感情のせいだ」


 アドが立ち上がり、苦々しく言う。


「人の感情が、魔を強化してる」


 囚人服の中で葉っぱの包みを確かめる。

 あの魔王の魔力と比べて、魔晄結晶がまったく足りていない。

 消耗戦どころの話じゃない。


「〈影繋シャクト〉」


 突如、アドの影から黒い棘が射出された。

 アドは自分の影の異変に気づいて身をよじる。


「ちっ……!」


 脚を掠め、鮮血が迸る。

 ウィンターが焦ったように振り返る。


「アド、平気?」

「掠っただけ。何ともない」


 影の魔王にはこれがある。

 距離など関係ない。

 アドは横目に、地面に転がる葉っぱの包みを眺めた。影の棘を受けたとき落としてしまったようだ。破れた葉っぱから、紫の魔晄結晶がこぼれている。遠くに散らばったものは無視して、手の届く範囲の結晶を四つ掻っ攫った。


「少ないけど」


 森の主のお土産を握り締める。


「ちょっと本気出す」


 手の中で魔晄結晶が砕け、魔の森の魔素が満ちる。

 濁り腐ったアドの眼前に、青白く光る聖なる魔法陣が紡がれた。


 合計で七つ。


 紡がれた古代文字と幾何学模様が律動的に回り、七つの魔法陣で一つの巨大魔法陣を構成する。それぞれの魔術回路が今、連結された。一本の血脈となり、魔力が抹消まで供給される。


 これは、お母様の最高位魔術。

 その名も――


 神聖魔術〈聖戦アルマ〉。


 巨大魔法陣から、光の奔流が煌めいた。


 地面から光の玉が無数生まれ、湖の底の泡のように、ぷかぷかと上昇していく。それはタンポポの冠毛のようにも見えたし、人の魂が浄化されていくようにも見えた。無限にも思える光の玉の間を、ウィンターが風のように走り抜けていく。


「ウィンターを誰よりも疾く」


 腕が見る見る再生していくウィンターのもとへ、光の玉が大きく旋回しながら流れ込んでいく。


「翔ばしてあげる」


 ウィンターが淡い光を帯びた。

 その効果は、治癒と、潜在能力の発揮。


「やはり人間は脆い」


 だが、〈聖戦アルマ〉は発動途中でぴたりと止まった。

 浮かんでいた光の玉が、まるで重力を思い出したように、地中へとすとんと還っていく。


「私を愉しませてくれるかと期待していたが、その石がなければ何も出来ないとは……」


 影の魔王は落胆を隠さず言う。


「まあ、これだけじゃ足りないか、〈聖戦アルマ〉は」


 それはアドにもわかっていたことだ。

 治癒と支援を広範囲かつ同時に行う〈聖戦アルマ〉は、天才と謳われたお母様でも、発動させるのに三日寝込むほどの膨大な魔力を要する。範囲をウィンター一人に絞っても、葉っぱの包み程度の魔晄結晶では不十分だった。


 だがウィンターは、


「アド、十分」


 抑揚なくそう言ってのけた。


「闘える」


 ウィンターを纏う光が神々しく強まっていく。


「来い。この程度、悠然と通り抜けてみせよう」


 同時に影の魔王も、禍々しい魔力を増大させ、その身にまとわりつかせる。


「それくらい出来ねば、父さんには近づけない。死力を以て来い。死力を以て迎え撃つ」


 次の瞬間、両者が激突した。

 魔力と魔力がぶつかり合い、あたり一帯に衝撃の波が走る。

 二人の足元が月面のように抉れた。


「熱苦しいの、嫌い」

「冷めた娘だ」


 ウィンターの上段蹴りを魔王の腕が受け止め、ぎちぎちと力を拮抗させる。

 影の魔王は腕の一本を防御に使い、もう一本でウィンターの細い脚を掴み、さらにもう一本をウィンターの腹部に押し当てた。

 手のひらに展開されてあるのは、暗黒の魔法陣。


棘影シャーレ


 漆黒の鋭い棘が、ウィンターの腹を貫き背から飛び出た。

 ウィンターの口から血が迸る。

 だがウィンターは表情を変えず軸足を踏み込み、脚をつかむ腕ごと魔王を地面に蹴り倒した。


「ぐふっ……!」


 魔王が地面に減り込む同時に、

 アドが吐血した。

 膝から崩れ落ち、赤く染まった両手を見下ろす。

 自分の身に何が起こったのかわからず、アドは混乱する。震える息を漏らして自分の体を見下ろすが、血の塊を吐くほどの怪我は見当たらない。

 なのに、体内で肋骨が粉砕された。

 その感覚だけははっきりとわかる。


 一体この身に何が起こっているのか?


「アっ……」


 すぐ横で、声がした。

 思わず見上げる。

 子供くらいの影人と目が合った。

 すぐそばだ。

 どうやら心配してくれている様子。


「アドくんっ!」


 逃げろと言ったのに、リアラが必死の形相で駆け寄ってくるのが見える。


「なるほど、強すぎるというのも寂しいものだ」


 影の魔王がウィンターの足を無理やり引き剥がし、押さえつける力をものともせず強引に立ち上がる。あのウィンターが力負けしている。それなのに今も、魔王は人の感情から生まれた瘴気を取り込み、己の力をさらに増大させていく。


「まさに、退屈。すこしだけ、父さんの気持ちがわかった」


 影の魔王がウィンターの足首を掴み、軽々と頭上に持ち上げた。

 逆さ吊りになったウィンターが、切り揃えられた金髪を地面に垂れ下げ、歪んだ顔で魔王を睨みつける。


「終わりにしよう」


 ぶん、と風切音が鳴った。

 ウィンターが振り投げられたのだ。

 遠心力の解放とともにウィンターが弾丸となり、広場の奥の建物にぶち当たって壁を粉砕し、二棟目の建物も貫通して、三棟目の建物でようやく止まった。

 あたりが静まり返った。

 穴の開いた建物の向こう側で、もうもうと砂埃が立ち昇るのが見える。


「アっ……」


 飛ばされたウィンターを気に留めることなく、目の前にいる影人は、アドに何かを訴え続ける。差し出した両手には、無数の魔晄結晶が乗っていた。


「アっ……アっ……」

「くれる、の?」


 影人が差し出すものを、アドはじっと見つめる。

 地面に散らばったはずの魔晄結晶を、一つ一つ拾い集めてくれたようだ。


「アっ……アっ……!」


 影人は大きな反応を示して、両手をぐいっと突き出してくる。

 受け取ってくれとでも言うように、何度も何度も。


「ありがとう」


 アドが影人にお礼を言うのと同時。

 立ち昇る砂煙を切り裂いて、ウィンターが壇上まで飛来した。一瞬のうちに距離を殺し、ブーツの底を魔王の土手っ腹に打ち込んだ。体がくの字に折れ曲がり、今度は魔王が吹き飛ばされる番だった。建物の壁に減り込んで、瓦礫の山の下敷きとなる。


 ずきん、とアドに痛みが走った。

 その場に膝をつき、激しく咳き込む。

 薄れゆく視界。

 その視界の中で、

 なぜだかアドの脳裏に、ある男の子の顔が浮かんだ。

 自分でもよくわからなかった。

 どうして急に思い出したのかも、なぜ今まで忘れていたのかも。


 ――ありがとう、エミール。


 胸のうちで影人にそう伝え、地面に横たわったまま、受け取った魔晄結晶を握り砕いた。

 再度アドの周囲に、七つの魔法陣が浮かび上がる。

 青白く輝く光の奔流。


 殲滅級神聖魔術――〈聖戦アルマ〉。


 律動的に周回する七つの魔法陣が次第に連結され、一つの巨大な魔法陣が形成される。砕かれた魔晄結晶から漏れ出る魔素を魔力に変換したアドが、複雑に折り重なった立体型魔法陣にエネルギーを注ぎ込んだ。


 ――発動。


 光の玉が無数、浮かび上がる。


 それらが一挙にウィンターのもとへ集い、高速旋回する。次第にウィンターの腹部の傷が癒やされ、光が収束して膨大な力が漲ってくる。


 視線の先には、減り込んだ壁から起き上がる影の魔王。


 次の瞬間、ウィンターの姿が掻き消えた。

 気がついたときには、魔王の懐に潜りこんでおり、左手を己の腰元に添えていた。くっつけた親指と四指の輪っかに、赤黒い魔法陣が光り輝く。


「ウィンター、ボクの魔力をあげる」


 魔力供給が、完了した。

 アドとウィンターが深く繋がる。


「……!」


 魔王が初めて、焦りの表情を見せる。

 ウィンターの右手が、左の腰で何かを掴んだ。

 バチバチと黒い稲妻が迸る魔法陣から、深紅の美しい刃が引き抜かれる。


 血冷魔術〈血刀・千雪ちゆき〉。


「シッ……!」


 魔王は逃げた。


雪閃華せっせんか


 だが、ウィンターの抜刀はそれよりも早い。

 黄金に光る眼が魔王の姿を捉え、横薙ぎ一閃。刀の軌道上に紅い氷の華が咲き乱れ、澄んだ音とともに魔王の腹の上と下が一刀両断された。


「くはっ……」


 一気に氷点下まで落ちた広場で、上下に分離した魔王がごろごろと転がる。

 しかし――


「これほどの傷は……素晴らしい……」


 人間であれば致死の傷、それを負ってもなお魔王は、むしろ微笑みを見せた。

 アドには今の状況を愉しんでいるようにさえ見えた。

 あたり一面に紅い氷の塊が生える世界、その中央に横たわる魔王の上半身が、下方の両腕で地面を押して上体を起こし、上方の両腕を高々と広げて天を仰ぐ。


「影の巨人よ、我に集え」


 魔王の視線の先には、ファーム中の建物を潰し回り、破壊の限りを尽くす巨大な影人がいた。


「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛」


 影の巨人が、応えた。

 影の巨人が黒い粒子に分解され、さらさらと上空に立ち昇っていく。黒い粒子の塊がうねうねと上空を駆け回り、腕を広げる影の魔王のもとへ押し寄せた。


 ウィンターが腕で顔を庇う。

 影の塊が地面に激突し、魔王もろとも呑み込んだ。


 海原の嵐のように凄まじい乱気流が生じ、あたりが横殴りの圧力に襲われる。両の足で踏ん張っているにも関わらず、ウィンターが後方へずるずると圧されていく。


 鋭い疾風が、空間を切り裂いた。


「死の感覚は……いい」


 影の塊が一気に霧散し、その中央に立つ影の魔王は、まったくの無傷だった。何事もなかったかのように、上半身と下半身がくっついている。


「傷が、ない」


 ウィンターの瞳孔が収縮する。


「うそ……」


 振り出しに戻ってしまった。

 いや、それどころではない。もう魔晄結晶が尽きてしまったことは、アドとウィンターが一番よくわかっている。

 足音が聞こえた。

 影の魔王が悠然と歩いてくる。


「……終わりだ。術者が死ねば、お前も消える」

「どういう意味」

「主に聞いてみろ」


 ウィンターがこちらを見て、言葉をぐっと詰まらせた。


「ア、ド……?」


 アドは仰向けになったまま、顔を歪めて呼吸を荒くする。


「お前が殺したんだ、吸血鬼。私と奴は表裏一体。お前の刃は、主にも届く」

「かひゅ……かひゅ……」


 アドは血のあぶくを吹いた。

 見下ろした自分の下腹部から、ぼとぼとと赤い蛇がこぼれ落ちる。

 大腸だ。


 ああ真っ二つだな、と他人事のように思う。

 どういうわけかアドの腰から下がきれいさっぱり切断され、人一人分離れたところに二本の脚が転がっていた。

 アドの脚だ。


 おまけに切断面には紅い氷の華が咲き誇っていた。こんもりと湯気を立てる大腸を眺めながら、これはもう治せないなとアドは悟った。だから、脚に向かって伸ばした手を途中で引っ込めた。


 そういうことか。

 違和感の正体は、これか。


 どう見ても魔王と同じ傷だし、どう見ても同じ氷の華だ。


 ……つまりこういうことなのだろう。 


 魔王が傷を負えば、アドも同じ傷を負う。


 それがおそらく、影の魔王の発動した〈影繋シャクト〉の効果だ。

 アドはウィンターと繋がっていると同時に、別の意味で影の魔王とも繋がっていたのだ。ウィンターが勝っても負けても、アドは死ぬようにできていた。


 アドが絶対に死ぬような状況を、影の魔王はすでに創り上げていた。


「愉しかったぞ、アド。お前の死を、ここで見届けよう」

「かひゅ……」


 体が、寒かった。


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