4-13

 壇日駅のロータリーに設置されたベンチに腰掛けて、恋は雑誌をめくっていた。やってきた小田牧は、それに気づいて目を丸くする。

「その雑誌」

「君の名前で検索かけたら引っかかったの」

 この雑誌には、小田牧の作品が載っている。雑誌の出版社が開催した新人賞にて、彼の作品は佳作を受賞していた。

「出版業界に君を紹介するなら、どんな文章を書くか知っておかないと無責任でしょ」

「どうですか?」

 見上げると、彼は上着の袖で顔の下半分を隠すようにしていた。そういう好みなのか、袖は彼の腕の長さに対して随分と余っている。

「まだ全部読めてないけど、とてもユニーク。シュルレアリズムが文章になったみたい。こういう文章で変則的なミステリを書いたら映えると思うし、逆に幻想怪奇物にしても良い世界が書けると思う。詩を書いても面白そう」

「当時は、結構ボロクソに言われたんです。奇を衒いすぎて滑稽だとか、自己満足の域を出ないとか」

「まあ、確かにわかりやすさとは真逆を突き進んでるからね。でも、あたしは好きだな。協力してくれてるからお世辞を言ってる、とかじゃなくてね」

「ありがとうございます」

 彼はやや俯きながら、肩にかけた鞄を探る。その顔は少々赤くなっているように見えた。

「これ、ルルイエ異本の翻訳です。まだ途中ですけど。原文が原文なんで、わかりづらいところが多いと思います。聞いてくれれば、補足します」

「ありがとう。なんか、ノートを見せてもらってるみたい」

 学生時代はこうやって、よくノートをコピーしたものを交換し合ったりしたものだ。なんとなく懐かしくなった。あの頃はまさか自分がホストに騙されたり、フリーランスとして働くことになるなんて、夢にも思っていなかった。

 貰ったコピー用紙の束をパラパラとめくっていると、一頁だけ他の頁と毛色が違うものがあった。奇妙な図形が描かれている。

「ああ、この頁は先に翻訳したんです。僕もこの絵が気になって、もしかして呪文とか魔方陣みたいなものが書かれてるんじゃないかなって思って」

「しっかり読みたいところね。ねえ、お腹空いてない?」

 こんな外でずっと座らせておくのも悪いと思い、小田牧に問い掛ける。

「僕はいつもお腹を空かせてると思ってます?」

「だって君、ちゃんと食べてなさそうだし」

 出会った時からなんとなく感じていたことをはっきりと言った。彼はかなり背が高い方だ。その割に細身で、脚はもしかしたら恋よりも細いかもしれない。顔も色白というよりは青白く、あまり健康的には見えなかった。その体格は、否応なしに冷を思い出させる。

「そう言われると言い返せないかも。でも、今は食事より水煙草が吸いたいです」

 水煙草。待たせる側を退屈させないし、写本を読むにも邪魔にならない。良い方法だ。

「いいわ、一台くらいなら奢る。ああ、でも君を高円寺に連れて行くのは危ないかな」

「壇日にも水煙草屋くらいありますよ。大学生は水煙草が好きですから」

 そう言った彼に連れられてやってきた水煙草屋は、彼が言っていたとおり学生で溢れていた。

 チョコレートキャラメルの香りを頼んで、恋は先程の頁を広げる。その図形は、「旧神の印」と称されていた。

「旧神って?」

「それなら、多分ここの記述のことだと思います」

 彼が紙をぱらぱらと捲る。

「ここに、クトゥルフが地球に来た時のことが書かれているんですが、同じ単語が出てきてるんです」

 示された頁を読む。

 偉大なるクトゥルフの降臨により、地球の支配者は交代した。古の者、その奉仕種族の抵抗は、我らが神の進出を阻むには及ばなかった。地球に棲まう旧き神々は夢の世界に逃げ去ったが、唯一地上に旧神の印だけを残した。

「あたし、この話、知ってる」

 思わず声が漏れた。小田牧が何か聞き返してきたようだったが、応えることはできなかった。

 蒸し暑い夏の夜。室内を揺蕩う水煙草の煙。奴隷を使って繁栄した、人間より前に地球を支配していた存在と、テケリ・リと鳴く奴隷生物の話。チョコレートキャラメルの甘い香りと、清涼な雪の気配。宇宙から降り注いできた恐怖により引き裂かれた世界。失われた文明。信仰を失った旧き神々達が暮らす異世界に隣り合う、南極大陸の不思議な高原の話。語って聞かせる、彼の横顔。

 オーロラを切り裂いて、クトゥルフとその徒がやって来る。それを奴隷達が迎え撃つ。地球本来の神々が逃げ出すほどの惨状の中、黒い不定形の奴隷達は戦い続ける。テケリ・リ、と断末魔を上げて散っていく。

 奴隷、だったのだ。彼は南極の地で、人類よりも前に君臨した種族によって労役を課せられ、邪神からの盾にされたのだ。

 与太話でも御伽噺でもなく、奴隷も、古ぶるしき神々も、この世ならざる高原も、この世に存在している。

 ぐっ、と袖を引っ張られて我に返る。顔を上げると、小田牧が恋の袖のフリルをつまんでいた。

「ごめん、ちょっと色々思い出してた」

 座っているのに目眩がする。不調を悟られないようにしながら、恋は言った。

「あ、いえ、すみません……」

 慌てる恋に対して、彼も困ったように謝り、フリルから指を離す。

「ええっと、この旧神の印って言うのが、この図形なのね」

 一度頭を振って、先程の図形に戻る。感傷や妄想に浸っている場合ではない。

「恐らくそうだと思います。それで、ここでハスターの名前が出てきたんです」

 心なしか慌てたように、小田牧も解説する。彼が指差した文章を目で追った。

 偉大なるクトゥルフの怨敵、ハスターには旧神の印を用いるべし。ハスターは印を恐れる。印はハスターを遠ざけ、その眷属を退ける。

 怨敵、とまで書いているとは、クトゥルフとハスターはよほど相容れない存在であるのだろう。わざわざ弱点を自分の教典に残しておく程に。

「これ、使える」

 携帯を取り出し、紫にメッセージを送る。すぐに、稽古が終わり次第高円寺で落ち合いたいという返事が来た。時間は二十一時頃になるそうだ。携帯の液晶に表示されている時間は十六時三十分を回ったころだった。まだ随分と時間がある。ゆっくりと水煙草を楽しんでも余裕だろう。

「ありがとう。すごい収穫だわ」

「まだ何かあるかもしれないので、また残りが翻訳できたらお知らせします」

「ええ、打つ手は多い方がいい」

 大きく水煙草を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。

「……それ、なんの香りですか?」

 小田牧が首を傾げるようにして問いかけてくる。

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