4-14

「チョコレートキャラメル。吸う?」

 なんの気無しにホースを彼の方に傾ける。彼が目を見開いたのを見て、恋はようやく自分がなにをしているかに気がついた。

「ごめん、何にも考えてなかった。嫌よね、人が口つけたのなんか」

 慌ててホースの先端に取り付けてあるマウスピースを外した。これではとんでもなくふしだらな女だ。隣にいるのは、出会って間もない赤の他人だと言うのに。

「いや、僕は別に気にしませんけど」

「本当にごめん、気が抜けてたの」

 学生に気を使わせてしまった。自分の間抜けさに後悔しながら、改めて彼にホースを手渡す。

 彼は自分のホースからマウスピースを付け替えて、チョコレートキャラメルの香りがする煙を吸い込んだ。

「甘くて、美味しいですね。僕、あんまりこういうお菓子みたいなフレーバーを吸ったことがなかったので、新鮮です」

「君は何吸ってるの?」

「パンラズナです、吸います?」

 彼からホースを受け取り、外していたマウスピースを付け替える。大きく吸い込むと、エキゾチックなお香のような香りがした。

「美味しい。あたし、逆にこういうのあまり吸わないから珍しいかも」

 彼にホースを返しながら、恋はなんとなく居心地の良さを感じていた。思えば誰かとこうして穏やかに水煙草を吸うのは久しぶりだ。風路地で黒木と同席した時は、曲がりなりにもスケッチのモデルをしていたし、スケッチブックを見てからは生きた心地がしなかった。

「君は、どうして作家になろうと思ったの?」

 穏やかな雰囲気が、恋にそんな質問をさせた。そうですね、と小田牧は少し考えるように宙を見る。

「色々ありますけど、一番は、世の中を良くしたいから、ですね」

「大きくでたわね」

 彼から出ると思わなかった言葉に、少し面食らう。

「今の世の中って、なんかもう、終わり、って感じじゃないですか」

 彼の言葉に、そうね、と恋は頷く。もう手放しで若いとは言えない恋ですら、この先この国が明るくなることはないだろうと思っている。大学生なら尚更だろう。高学歴の彼なら、失望の解像度はもっと高いはずだ。

「僕は政治家になれるほど要領が良くないし、そもそも政治家になったって世の中を良くするなんて無理だし」

「政治家の本分を否定したわね。まあ、事実だけど」

「それに、革命っていうのはいつでも民衆が起こすものでしょう。その裏には、芸術がある」

 確かに、かつて世界を支配した教会の権力が弱まった原因を辿ればルネサンス時代に辿り着く。ピカソのゲルニカは当時賛否を巻き起こし、今では反戦の象徴だ。そして政治は民衆を押さえつけようとする時は真っ先に芸術を血祭りに上げる。

「僕、昔読んだ小説に感銘を受けて。文法、言葉に人間の暴力性を覚醒させる因子を忍び込ませて、世界を破滅させるってストーリーだったんですけど」

「ああ、それあたしも読んだことある。あの作者、夭折しちゃったのよね。勿体無い」

 恋も学生時代にその小説に感銘を受けた記憶がある。同時に、こんなことをされては堪らないと震え上がったものだ。

「僕、本当にあの作品が好きで。何回も読んだんです。それで、もしかしたら小説で世界を変えられるんじゃないかって思ったんです。でも、それには内容も重要だけど、より人の琴線に引っかかる表現で表さなければいけない」

「その表現を探すために、呪われた本にすら手を出したと。いいね、凄く痺れる。ナチュラルに狂ってて」

 世界を動かしたアーティストは、皆気が狂っていた。世界というものはあまりにも愚鈍で、重たくて、狂気という暴力を与えなければぴくりとも動かないのだ。そしてその狂気は、養殖されたものでは辿り着けない。

「笑わないんですね」

 突然、彼がきょとんとしたような顔で言った。

「笑わないわ。それに、なんだかワクワクしちゃった。こんな風に感じたのは、久しぶり」

 こうして文学や、世界の有り様について語り合ったのは、それこそ冷が最後だった。

「皆、笑うんです。教授には小説で賞を取ってるからって調子に乗ってる、なんて言われるし、友達にも薬の時間だ、とか馬鹿にされるし。出版社のパーティに呼ばれて、この話をした時は、軒並み苦笑いされました」

「皆、諦めてしまっているからよ。知ってる? ジャンヌダルクだって今では統合失調症だったって言われてるの」

「そんな風に言ってもらえたの、初めてです」

 彼は、余っている袖で口元を覆った。

「まさか、小説までちゃんと読んでもらえるとは思ってなかったし。僕の文章を、真面目に分析してくれたし」

「別に気を使ったとかじゃないわ。好きでやってるの。夢を見るなんて、あたしにはもうできないから」

「そんなことないです、一緒に、世界を変えませんか」

 照れたように縮こまっていた彼は、一転して身を乗り出すように語りかけてくる。

「あたしには無理よ。自分の人生だって、よくできなかったんだから」

 そう言った顔が、恋自身が思ったよりも悲しげだったのか、小田牧はこちらをじっと見つめたまま黙ってしまった。

「ああ、ごめんなさい、気にしないで。人生に疲れた年増女のぼやきよ」

「あ、いや、すみません。僕、べらべらと」

「そんなことないわ。君と話すのはとっても楽しい。君が、あたしみたいに人生に疲れなきゃいいんだけど」

 チョコレートキャラメルの煙を吸って、吐き出す。久しぶりに心地が良かった。


 高円寺に移動し、紫と合流できた時にはすっかり夜になっていた。

「これが、戯曲に取り憑く化け物を退治する印」

 紫に印を見せる。彼女はそれをじっと見つめて、なにか考えるように首を捻った後、納得したように頷いた。

「意外に複雑な形じゃないのね。これなら、色々と仕込める」

「仕込む?」

「私、なんとか黄衣の王が何処にあるか探せないかって思って探ろうとしたんだけど、昨日の騒ぎで誓が私のことを凄く警戒してて、まともに近づけない状態なの。本そのものをどうこうすることは多分できないと思う。だから、なにかするなら劇そのものに細工するしかないと思って色々考えてたの」

「凄い」

 まさかそんな数手先のことまで考えていたとは驚いた。流石長年チームプレイに親しんできた女優と言うべきか。

「この印を劇中で掲げればいいのね」

「ええ、それで儀式の完成は防げるはず」

「うん、わかった。方法は私が考えておく」

「いいの?」

「ここまで恋さんにやってもらったんだから、あとは私が頑張らなきゃ」

 紫は旧神の印を忠実に書き写すと、手帳に挟んだ。

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