4-5

 ゆかりに指定されたのは、三ツ門町にひっそりと佇むバーだった。この辺りは三ツ門町でもメインストリートからは離れており、喧噪からは一歩引いた位置にある。それなりにこの街に慣れている恋でも、少々迷いかけた。

「急に誘ってしまって、お礼どころかご迷惑じゃなかったでしょうか?」

 律儀に店の前で待ってくれていた紫が申し訳なさそうに問う。

「とんでもない、とても嬉しいです」

 セレファイス、と書かれたプレートを掲げたドアを潜ると、トルコランプで彩られた、洒落た内装が出迎えてくれた。

「いらっしゃい……ああ、紫ちゃん! 久しぶりだね、元気にしてた?」

 カウンターに現れたのは、ショートカットの快活そうな人物だった。中性的な容姿で、声が高めの男性なのか、ボーイッシュな女性なのか判断がつかない。

「紫ちゃんが人連れてくるなんて珍しいね。友達?」

「初めまして、片須恋と申します」

 名刺を出したと同時に、紫が横から補足する。

「私を助けてくれた人なの。今日はお礼をしたくて」

「じゃあ、気合い入れないとね」

「片須さん、この人は、ここのマスターのたつみさん。お酒に関するセンスが抜群に良い人なんです」

 巽、と紹介されたマスターを、礼を失さない程度に観察する。カウンターの上に置かれた手を見た。爪が細長く、手の甲は骨張っていないしなやかな手だ。女性の手で間違いなかった。

「私はこの前のボトルをお願い」

 そう言って、紫はソファに腰掛ける。

「了解。片須さんはどんなお酒が好き?」

「そうね、折角だからマスターにお任せしようかしら。甘くて、飲みやすいカクテルを」

 酒が飲めないわけではないが、苦い酒は好きではない。センスが良いというマスターに任せることにした。

 紫の向かいに座る。ソファは柔らかくて、体が沈んでいくようで心地よかった。

「素敵なお店ですね。こんな所に連れてきてもらって、却って申し訳ないくらい」

 お世辞ではない。可愛らしい色とりどりのランプに、アンティーク調の調度品。上品で、それでいて柔らかい雰囲気のバーだ。

「そう言っていただけて良かったです。このお店は、私の秘密基地みたいな場所なんです。お礼をしたいって思ったら、ここしか思いつかなくて」

「そんな特別な場所を紹介していただけるなんて、豚の血を被った甲斐がありました」

「本当に、ありがとうございました。でも、もうあんな危険なことはしないでくださいね。あれが薬品だったなんてこともありますから……」

 恋の軽口に笑いながらも、彼女は念を押す様に言う。やはり皆同じ事を考えるのだろう。

「ええ、雇い主にもこってりと搾られました。そういえば、今後のスケジュールについて特に連絡が来ていないようですが……」

「はい。主宰の意向で、予定は全て変更無く進めることになっています」

「看板女優が襲撃されたのに?」

 思わず眉を顰める。脅迫状だけならまだしも、実害が出ているのだ。中止が検討されてもおかしくない状況だ。

「主宰は、今回の公演に今まで以上に力を入れていますから……本当は、まだ体も万全じゃないはずなのに」

「やはり、そうなんですね」

 驚きはなかった。

「気づいていましたか?」

「薄々ですがね。あまりにもスケジュールや発表が急でしたし、稽古中もなんという

か……気が張っているというか、ただならぬ雰囲気がありましたから」

「やっぱり……」

 紫は溜息をついて、グラスをテーブルに置いた。

「片須さんに、折り入ってお願いがあるんです」

 紫は居ずまいを正して切り出す。

「私にできることなら、喜んで」

「予定が許す限りで構いません。取材期間……公演が終了するまで、できるかぎりお稽古に同席していただけませんか?」

 意外な申し出に、流石に驚きを隠せなかった。

「願ってもないことですが、何故です?」

「外部の方の目があれば、主宰も少しはブレーキがかかるかもしれません。それに昨日見ていただいたとおり、空気が最悪なもので……役者達にも大きなストレスがかかっているんです」

「でしょうね」

 あの状況で平然としていられたら、サイコパスの素質がある。

「私も皆の話を聞くようにしているんですが、その、自分で言うのも烏滸がましいですけど、一応看板女優という扱いですから……」

「ああ、なんとなくはわかります。人間の集団ですからね」

 表向きはどうであれ、全ての劇団員が彼女を良く思っているわけではないということだ。同じ舞台に立つもの同士、嫉妬や対抗心もあるだろう。それに、看板女優という上位の立場であれば、結局主宰側の人間なんだろうという疑いは避けられない。

 加えて、あまり彼女が求心力を強めてしまうと、主宰と劇団員の間に断絶が起こってしまう可能性もある。彼女をシンボルとして、反犬養の派閥を作りだそうとする輩も出ることだろう。彼女の考えなどお構いなくだ。

「外部の人の目があって、交流することで、役者達の気分も少しは変わると思うんです。身内だけでいると、どうしても気持ちが内にこもってしまって、どんどん気が塞いでいってしまうから」

「なるほど。願ってもないご提案です。記事の内容も充実しそう」

 そこまで内部に入り込むことができれば、黄衣の王について探りを入れるのが容易になるかもしれない。更に、必要に応じて紫の協力を取り付けることも視野に入る。

「ありがとうございます。劇団の方には私から話を通しておきますね」

「主宰は気難しそうですが、大丈夫ですか?」

 それが唯一の懸念だった。神経質そうなあの青年が、部外者の存在を許すだろうか。

「大丈夫です。主宰……誓と私は幼馴染みなんです。扱い方は私が一番良くわかっています」

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