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赤霧あかむ特区警察署、高円寺支部にて長時間の取り調べを受け、疲労感と共にロビーに出ると、見慣れた人物が待っていた。

「あら、来てくれたの?」

「これで知らんふりをするほど、俺は薄情じゃないつもりだが」

 言いながら、緑川は恋に缶コーヒーを手渡す。プルタブを開け、恋はソファに座り込んだ。

「帰されたのは君だけか?」

「桔梗さんはまだ当分かかるみたい。狙われてたのが彼女の方だったのは明らかだしね」

「そうか。ところで、一体何をかけられたんだ?」

「豚の血だって。よくもまあそんなものを用意したものだわ」

 証拠として採取した後、ある程度は拭かせて貰えたが、強烈な悪臭は未だ消えそうにない。このスーツはもう駄目だろう。

「それにしても、無茶が過ぎるぞ」

 少し沈黙した後、緑川が言った。

「無茶って?」

「どう考えても無茶だろう。相手が危害を加えてくるのが予測できていて、その上で他人を庇うなんて。女優相手なら、アシッドアタックの可能性だってあったんだぞ」

 アシッドアタック。化学薬品で火傷を負わせ、対象の風貌を損壊する犯罪だ。女性の立場が弱い外国で多いとされているが、日本でも昭和の大スターが塩酸をぶちまけられた事案があったはずだ。確かにあの時は必死で、そんな可能性にまで思考が及ばなかった。

 だが、それでも。

「だとしても、それを棒立ちで見ているなんてできなかった」

「正気か?」

「他人が目の前で傷つくってわかってて、みすみす見逃せっていうの?」

「そういうことじゃない」

「そういうことでしょう」

「他人が傷つく代わりに、君が傷ついていいということにはならないだろう」

「いいのよ」

 吐き捨ててから、しまった、と思う。後に続くはずだった、あんなことをしたんだから、という言葉は辛うじて呑み込んだが、余計に事態をややこしくしたかもしれない。

「初めて会ったときから薄々思ってはいたが、君は急いでいる様に見える」

「生き急いでる?」

「いや……死に」

「心外だわ」

「目的があると言っていたな。まさか、死に場所を探しているんじゃないだろうな」

「まさか」

 嘘ではない。別に積極的に死のうとしているわけではないから。寧ろ冷を抹殺するまでは死ねないとすら思っている。たとえ硫酸を顔に被っても。

「敢えて君の目的を聞き出すことはしてこなかったが、あまりにも破滅的な行動をするようであれば、その限りではなくなる」

「わかった、気をつけるってば。それより頼みがあるんだけど」

 この話は恐らく埒が空かないだろう。これ以上ボロが出る前に切り上げたくて、強引に話を切った。緑川が口を挟む間もないように続ける。

「黄衣の王って本のことを調べて欲しいの。出回ってる数自体が少ない稀覯本らしくて、戯曲ってこと以外全然情報がない。わかったことはなんでもいいから教えて、できるだけ早く」

「……わかった。そういう契約だからな」

 緑川と別れて帰宅し、一眠りしてから珈琲を淹れ、パソコンの前に座った。今回の取材は連載企画だ。今日のインタビューをさっさと記事に仕上げてしまいたい。ボイスレコーダーの再生ボタンを押し、録音された内容を書き起こす。

 不意に、ざざっ、と耳障りなノイズが走った。長らく使っていたものが不調になった為、つい最近買い替えたばかりだ。初期不良品でも掴まされただろうか。保証書、どこに置いたかな、と頭の片隅で考える。

 ノイズが断続的に走る。周波が合わないラジオを無理やり聴こうとしているかのような雑音で、録音した声が聞こえにくい。参ったな、舌打ちして、一度電源を入れ直そうとボイスレコーダーを手に取った。


 おういおおうおああえおいえうえ──!


 恋は反射的に立ち上がりながら後ずさった。キャスター付きの椅子が反動で床に倒れ、珈琲を淹れたカップは衝撃で転がり落ち、デスクから床に黒い液体をぼたぼたと落としていった。

 不明瞭で、粘着質な声がレコーダーから溢れてきた。聴こえてきた、という生易しいものではない。腐ったヘドロが膨張し、あぶくを立てながら周囲に広がり汚染していくかのように、その悍ましい声は機械から溢れ出してきたのだ。

 デスクの上に取り残されたボイスレコーダーからは、犬養の声が流れていた。機械の不調だったのか、と考える。いや、違う。頭とは裏腹に、恋の本能がそれを否定した。あれは機械の不調とか、雑音が紛れ込んだなどといった説明では到底収められない。紛れもなく音声だったのだ。まるで舌を抜かれた罪人が命乞いをしているかのような、ぞっとする声。

 恋は停止のボタンを押した。部屋に静寂がのしかかる。自分の心臓の音だけが、どくどくと響いている。

 携帯の電子音が鳴った。それだけで心臓は跳ね上がり、体がびくりと震える。恐る恐る視線をやると、見慣れない連絡先が液晶に表示されていた。メッセージが届いているようだ。すぐに送り主はわかった。紫だ。恐らく渡した名刺の連絡先を見て送ってきたのだろう。

「桔梗紫です。突然ですが、明日の夜にお会いできないでしょうか。ランチは台無しになってしまったし、お礼もちゃんと言えていないので、お酒でもご馳走できればと思っています。それと、折り入ってご相談したいこともありまして……。突然のことで驚かせてしまったかと思いますが、お返事いただけますと幸いです」

 そういえば、昼食に誘われたときに話したいことがある、と言われていたことを思い出す。

 劇団の看板女優である彼女であれば、犬養との距離も近いだろう。もしかしたら黄衣の王の現物に近づくチャンスが作れるかもしれない。二つ返事で了承のメッセージを返した。

 ボイスレコーダーの電源は切った。巻き戻して再生する勇気は起きなかった。

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