4-6

 わお、と声が出そうになった。車椅子を押させるくらいなのだから、彼も彼女に一番信頼を置いているのだろうことは予想できていたが、まさか竹馬の友だったとは。

「そうだったんですね。昔から、その、厳しい方だったんですか?」

「確かに昔からナイーブな所はあったけど、最近はちょっと異常だと思います。復帰を焦っているせいで、気が張っているからなんでしょうけど。あんなに焦ることないのに」

「なにか、切欠でもあったんですか?」

 恋の問いに、ゆかりは一口グラスに口をつけてから、溜息と共に吐き出した。

ちかうは、急に二代目になったんです」

「先代は、急逝されたそうですね」

「ええ。私達から見れば、誓はお芝居についてもう十分な知識を持っているように思えるけれど、本人はまだ未熟だと思っているんでしょうね。主宰になってから、なにかにつけて先代を越えるって口にしていました。それにあの体だから、役者として演技を学ぶことができなかったのもコンプレックスみたいで」

 インタビューの時はさも当然という顔で涼しげに、先代からの観客を裏切るわけにはいかない、と言っていたが、それがどれだけの重圧であろうか。そして、気持ちに対して体が動かないということのもどかしさ。恋にも想像することはできるが、当事者は想像を遙かに絶するような苦悩に晒されているに違いない。

「先代の蔵書を大切にされている彼が、ファンの期待を裏切るとは思えませんが。こういうことは、本人がそう思えなければ他人にはどうすることもできませんからね」

 その気持ちだけは、恋にも理解できるような気がした。他人が何を言っても、結局は自分が納得できるか否かだ。

「蔵書と言えば、今回のモチーフである黄衣の王、桔梗さんはお読みになりましたか?」

 此方の期待以上に彼女が心を開いてくれているようなので、重くなった空気を変えようと試みる振りをして切り出してみる。

「いえ、実は私も知らない本なんです。でも、先代はそんな本を持っていなかったはず」

「そうなんですか?」

「ええ。先代の蔵書は誓だけでなく、私達役者の資料にもなるので、どんな本があるかリストアップしているんです。でも、そんなタイトルの本はなかったはず。だから、なんで誓はあんな嘘吐いたんだろうって……」

 期待以上の収穫だ。恐らく犬養誓は、黄衣の王の出所を隠したかったに違いない。父の蔵書ということにすれば誤魔化せるし、誰も怪しまない。紫がそこまで覚えていたことは、彼にとって予想外だったのだろう。

 出所を隠したいということは、なにか後ろくらいことがあるはずだ。それこそ、カルト宗教との関わりが疑われるのは必定だ。

「本当に、誓はなんであんな嘘吐いたのかな。扱いはわかってるなんて言ったけど、私もしかしたら誓のことよくわかってないのかもなあ」

 そう呟いて、紫はグラスの中身をぐいっと飲み干す。そうしてまたボトルからリキュールを注ぐと、慣れた様子で水割りにした。そうかと思うと、すぐにまた口をつける。

「桔梗さん、もしかして少し酔ってます?」

 話している間も、三回ほどグラスにリキュールを注いでいたはずだ。もしかしたら、もっと多かったかもしれない。

「全然、こんなの酔ってる内に入りませんって」

 言いながら笑う彼女の頬は大分紅潮している。

「昔はね、それこそ家族ぐるみで遊びに行ったりしたんですよ。皆でピザ食べながら映画見たり、バーベキューに行ったりもして。そうそう、今はあんな風にツンツンしてるけど、子供の頃の誓ったら……」

 真っ赤な顔のまま、紫は少女のような表情で犬養との思い出を語り出した。幼少期の話から大学時代に至るまで、様々な思い出がテーブルの上を駆け回る。

「もう、あんな風に遊んだりできないのかなあ……」

 いつしか遊び疲れた少女のように、紫は眠り込んでしまった。

「大分酔っ払ったねえ」

 たつみがカウンターから出てくる。

「大分溜め込んでるみたいでした。飲まなきゃやってられないんでしょうね」

「子供の頃から演劇やってるから、色々あるんだろうね。もう一杯なにか」

 言いかけた巽の言葉を、恋の携帯の着信音が打ち切った。液晶には緑川の名前が表示されている。

「ごめんなさい、仕事の連絡かも」

 外に出ようとすると、巽がそれを制止する。

「いいよ、ここで座って話してな。聞かれちゃマズいことなら、俺は中に引っ込んで仕事してるし」

 ソファから巽を見上げる。その首に、喉仏はない。やはり女性だ。だが、その一人称から察するに、精神性は男性なのだろう。この時代だ、そういうスタイルの人々も、もう珍しいものではないのかもしれない。恋はそう納得した。

「すみません。終わったら声をかけます」

 巽がカウンターの向こう側に去ったのを見計らって応答する。

「何かわかったの?」

「ああ。知り合いの知り合い、そのまた知り合いまで動員する羽目になったぞ」

 疲弊した様子ながらも、緑川は『黄衣の王』について語り始めた。

「もともとは、十九世紀後半に刊行された戯曲だ。だが、世に出回った期間が短く、現存する数も少ない。好事家じゃないと知らない代物だ。しかもきな臭い話がつきまとっている」

「きな臭い話?」

「呪われている、という噂だ。ただの都市伝説めいた話かと思ったが、実際に作者はこれを書き上げた後に自殺したらしい。そして何があったのかはいまいち判然としないが、時の保守派がえらくこの本を批判して、現物を悉く火の中に投げ込んでしまったそうだ」

「なるほど。だから出回った期間が短くて、物も少ないと」

「だが、いつの時代どこにでも物好きはいる。焚書を免れた数少ない原書を元に、翻訳された物が出回った。見つけ次第それも燃やされたが、逃れた物が数冊、世界に散らばったようだ。数が少ないことに変わりは無いが」

 そんなものを、犬養が真っ当なルートで手に入れたとは到底思えない。いや、そもそも真っ当なルートなんてものが存在するのかすら怪しい代物だ。いずれにせよ、日本の一劇団が易々と手に入れられるものではないだろう。

「あらすじは? 戯曲ってことは、物語になってるんでしょう?」

「これが、いまいちはっきりとしないんだ。二部構成になっているそうなんだが、二部にまで目を通したものは恐ろしい目に遭う、という噂もある」

「作者は自殺してるし、二部まで読んだら呪われる。最後まで読んだって話がないってことね」

「わかったことは、ヒアデス星団にあるカルコサという地に君臨する黄衣を纏う王、ハスターという神について書かれたということだ」

「……なに?」

 なにを言われたのかを瞬時に理解することができず、聞き返す。

「ヒアデス星団。牡牛座の一等星、アルデバランはわかるな? その近くに広がる星の集団だ。そこにカルコサと呼ばれる土地がある、という空想だな」

「神は宇宙人ってこと?」

「そういうことなんだろう」

「なんとも、コメントしづらい話ね」

 十九世紀と言えば、宇宙について少しずつわかりはじめてきた時代だ。それにインスパイアされたのだろうが、なんとも不思議な発想だ。

「そして、上演された時の記録が一つだけ残っている。ヒトラー政権下のドイツで上演されたが、観客達が集団ヒステリーを起こしたという記録がある」

「ヒトラーって、オカルトにも傾倒してなかったっけ? その時代のドイツっておいそれと芸術活動もできなかっただろうし、なんかますますきな臭くなってきたわね」

「なあ、こんなものを調べるなんて、君は一体何をしようとしているんだ?」

 声色から滲み出ていたのは、批難というより恐れに近かったように聞こえた。電話越しでも察せられるほど感情を表すなんて、彼らしくない。

「神威歌劇団の公演が、それをモチーフにしてるっていうから、記事のために調べたかっただけよ」

「こんなものを、神威歌劇団が所有できるとは思えない」

「それはあたしも不思議に思ってはいるけど」

「まさか、君の目的に関わることなのか」

「ちょっとどうしたのよ。まさか呪いなんてものを信じてるの?」

 誤魔化すために、わざと大げさにおどけてみせる。だが、緑川の態度は変わらなかった。

「呪いが問題なんじゃない。問題は君が……」

 そこまで言って、彼は口ごもってしまった。もしかしたら、彼自身も何を疑い、何を懸念しているのかわからないのかもしれない。ただ、名状し難い不安感を抱えているだけで。

「あたしが、なに?」

 答えはない。

 お互いが押し黙る。電話回線特有のホワイトノイズだけが途切れなく続いている。

「君が、何処へ行こうとしているのか」

 暫しの沈黙の後、彼は絞り出す様に言った。

「あたしは──」

 言いかけて、なにを言っているんだと頭を振る。

「何わけのわからないこと言ってるの。別に何処にも行きはしないわ。おやすみなさい」

 緑川が何か言うより早く、恋は通話を切った。

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