第9話 同僚

 萌香に俺のバイト先を勧めた翌日。


 俺は十四時から二十一時までバイトのシフトが入っていたので、十三時半過ぎに家を出て歩いてバイト先まで向かった。家からバイト先のカラオケ店までは徒歩約十五分である。


 ちなみに現在、萌香は家で留守番をしている。そしてお願い通り、今日も夕飯を作ってくれるらしい。食材の代金は渡してあるので、今頃スーパーへ買い出しにでも行っているだろう。


 俺は普段通りシフト時刻の五分前に出勤し、素早く制服に着替えてから業務入った。


 カラオケ店の主な業務には、客の案内、フードの調理、ルームの清掃がある。スタッフは時間ごとにそれぞれの職務を割り振られ、それぞれの持ち場で業務をこなす。


 その日、俺は最初の三時間キッチン担当だったので、勤務開始と同時にキッチンに入り、やってくるオーダーを次々に捌いていった。


 俺は割とキッチンの業務が好きだ。黙々と調理をしていれば時間も勝手に進んでいくし、調理といっても所詮はカラオケ店のフードなので高度なスキルを要するということも全くない。なので慣れれば比較的楽に感じた。


 なんだかんだ調理をし続けること約二時間。ようやくオーダーが落ち着いてきた。


 客足も少なくなってきているようだったので、他の持ち場のスタッフたちもどこか足取りがゆったりとしてきている。


 俺も動かし続けていた手のスピードを落とし、一休みするように食洗機にかけていた食器を棚に戻していった。


 すると勢いよくキッチンの扉が開き、一人の男が俺だけしかいないキッチンに顔を出してきた。


 「おつかれーい」


 勤務中とは思えないほど愉快な声でそう言いながらキッチンに入って来たその男は、同僚の池田くんだ。池田くんは俺と同い年かつほぼ同じ時期にここでバイトを始めたいわゆる同期で、さらに通っている大学も同じという間柄である。なので勤務中でも暇があれば割と気兼ねなく話したりする。


 この時間清掃担当だった池田くんは、ルームから回収してきた食器を一通りシンクに置くと、いたって自然な手つきで俺の尻を叩いてきた。これは池田くんなりの激励である。


 「期末どうだったー?」


 池田くんがそう尋ねてきた。


 期末というのは大学の学期末にあるテストのことで、つい先週受けたところだった。


 「必修はなんとか耐えた。ただ、教養は終わった」

 「必修耐えたなら、まあいいんじゃね」

 「だな」


 正直なところ、テストの感触については予想通りだった。俺がテストを受けたのは必修科目と教養科目の二科目で、そのうち教養科目の方はほぼ確実に単位を落とした。ただそれは完全に俺が勉強をしていなかったせいなので、特にそれといった不満はない。


 「ちなみに、自分は確定で四単位は落としたよ。運が悪ければ八単位落とすかも」


 池田君が言った。


 「必修は?」

 「一つやばいのがある」

 「お疲れ」


 例によって池田くんも俺と同様かそれ以上に大学でまともに勉強をしていないらしい。池田くんが所属している文学部の英米学科は、俺が所属しているなにをやっているのか釈然としない社会学部に比べて単位を取るのが難しいという話だ。


 それでも池田くんは特に思い悩むような顔は見せない。


 「別にいいんだよ、これで。大学四年間は遊ぶって決めたから」

 「遊ぶねぇ……」


 俺から見ている限り、池田くんは典型的なキラキラ大学生で、基本的に遊ぶことに全力投球している。


 俺はそんな池田くんとはまるで逆のキラキラの欠片もない大学生活を送っているわけだが、だからと言って池田くんのようなキラキラ大学生を嫌悪しているわけではない。むしろ尊敬しているくらいだ。なぜなら、俺はそういうキラキラ大学生にはなれない人間だから。……いやまあ、特になりたいわけでもないけど。


 「そういえば、池田くんって彼女とかいるの?」


 なんとなく尋ねてみた。池田くんならいてもおかしくはない。顔もそこそこ良い方だし。


 「いないよ。てか、作る気もない」


 意外だった。てっきり池田くんはそういうのに目がないものだと思っていた。


 「どうして?」

 「彼女なんて作ったら、他の女の子と遊べないじゃん。それは嫌だ」

 「なるほど……。俺は一人で十分だけどな」

 「現在進行形で愛している彼女でもいるの?」

 「いねぇよ」

 「まあまだ一年の夏だしね。すでに大学で彼女作ってる奴ってなんなんだろうな。本当にムカつく」

 「彼女いらないんじゃないのかよ」

 「それとこれは別だよ。ムカつくものはムカつく」


 どこか矛盾しているように聞こえたが、要するに池田くんも全く彼女が欲しくないというわけでもないようだった。


 「もちろん自分にも、高校の時は普通に彼女いたよ? 卒業のタイミングで別れたけどね。なにせ北海道だし、京都との遠距離はさすがに無理がある」

 「たしかにそれは厳しいな。付き合い続けたところで池田くんならどうせすぐに浮気するだろうし」

 「それはそうかもしれない」


 池田くんは素直だった。


 しかしながら北海道出身の池田くんにとって、大学進学を機に京都へ出てきたことが一つの大きな区切りになったことは間違いないだろう。


 そういえば、どうして池田くんはわざわざ京都の大学に進学したのだろう。


 「てか、どうして京都の大学なんだ? 北海道なら普通、東京とかじゃないの?」

 「もちろん、東京の大学も受けたよ。でも落ちた。正確に言えば補欠合格は出てたんだけど、繰上げ合格の発表を見逃した」

 「マジかよ……」


 池田くんらしいと言えば池田くんらしいが、さすがに勿体無さ過ぎる気がする。


 「浪人だけはしたくなかったから後期試験がある大学を探して受けて、今の大学に行き着いた」

 「でも後期で英米って結構難易度高くない?」

 「意外となんとかなったよ」

 「すげぇな」


 池田くんはヘラヘラしているように見えて、頭はちゃんと良いらしい。


 「あ、そうだ。一つ言ってなかった事実がある」

 「なんだよ急に」

 「実は自分、高校を中退してるんだよね」

 「マジで!?」

 「もちろん大学生になってるからには高卒認定は取ってるよ。中退した後は通信制高校に入ったんだ」

 「中退なんて、なんでまた……」


 あまりの衝撃からつい疑問を投げかけてしまったが、言ってから自分がそう問いかけたことを少々後悔した。なにしろ、人にはそれぞれ事情というものがある。それは池田くんと同様に高校を中退しかけている萌香だってそうだった。そして池田くんにもなにかしらの事情があるに決まっていて、その事情はあまり人に話したくないことかもしれない。


 それでも池田くんは何食わぬ顔で淡々と続ける。


 「単純に、学校に馴染めなかったんだよ。別にひどいいじめを受けていたとかそういうのじゃないんだけど、どうも周りの奴らと馬が合わなかった。ていうのも、自分が通ってた高校は道内でもトップレベルの進学校でみんな勉強ばっかしてるわけ。普通進学校だったら校風がめっちゃ自由なことが多いけど、うちの高校はなぜか規則が厳しくて、勉強に関しても管理されまくってた。だから自分にとっては窮屈過ぎたんだよね。それで中退した」

 「なるほど……。なんだろう、その行動力はある意味褒められるべきものなのかもしれないな」

 「どうだろうね。一時期は家を追い出されたし、とても中退を歓迎されるような雰囲気ではなかったけど」

 「そりゃそうだわな」

 「でも後悔はしてないよ。なんだかんだあったけど、今はそれなりに充実しているし」


 そう話す池田くんの顔はとても晴れやかだった。


 ……対して俺はどうだろう?


 大学に入ってから特にそれといったこともせず、ただ無意に日々を過ごしているだけだ。そう考えると、池田くんと俺は対極の位置にいるような気がした。


 「どうしたんだよ、浮かない顔して。悩み事でも?」


 池田くんは俺の顔を覗き込んで言ってきた。


 「まさか。悩み事なんて皆無だ」


 いやむしろ、悩み事がないことが悩み事だ。結局のところ、人生において悩み事の一つや二つはあった方が生きる活力になる。


 「ならいいけど。じゃあ自分はそろそろ持ち場に戻るよ」

 「おう」

 「はい頑張って!」


 池田くんはそう言ってまた俺の尻を叩き、颯爽とキッチンを出て行った。

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